40.旅人は昏きを航り<6/6>
ここ数日はヘイディアも忙しいらしく、こちらには顔を出さない。
どうやらアルディラに言われて、ラムウェジの手伝いをしているようだが、昨日今日と一緒に行動した割にあまり話す機会もなかった。道場やフォンセのこと、あのアシオという少年についても、話を聞きたかったのだが。
離宮の庭は夜の気配が強まり、多くの者が割り当てられた天幕で就寝する中、夜番の兵士が松明の様子を確認しながら巡回をしている。
リオンは白龍が守る焚き火の側で、エレムに勧められた本を読んでいた。いや、目で文字をなぞるのだが、なんだか今日は内容が頭に入ってこない。何行か読むうちに別のことを考えはじめてしまい、はっとしてまた記憶のある場所まで戻るので、全く頁がすすまない。
「……あれは獣じゃな」
鉄鍋でわかした湯を椀に移してすすっていた白龍が、そんなリオンの様子に気づいてか、ぼそりと呟いた。
「……獣?」
「月の主が言うていたであろう、『ムササビかなにかかと思った』と。その通り、あれは獣じゃ」
「? どう見ても人間でしょ?」
リオンが問うても、白龍は椀につけた口元で笑みを作るだけだ。
掘り下げて聞くのも面倒になって、リオンは肩を落として息をついた。
白龍はなぜか、グランのことを『月の主』と呼ぶのだが、なぜなのか聞いても今と同じ反応が返ってくるだけだ。リオンのことを『風の子』と、ユカを『水の子』と呼ぶので、グランからは月や夜空にまつわるような雰囲気を感じ取っているのかもしれない。よく判らないが。
そこでふと思いついて、リオンは改めて白龍に顔を向けた。
「……あのフォンセさんは、何の子なの?」
「あの娘御か? あれは夜の子じゃよ」
「……夜?」
カーシャムは、死と眠りを司る神だ。それで夜だと言っているのかと、勝手に納得しようとしたリオンに、
「光を恐れるものは夜の中にある。光を望むものも夜の中にある。昼の光の中では月も星も輝かぬ」
「……??」
「夜を航るために旅人は灯を求めるのだ」
深いのか、煙に巻こうとしているのか。目をぱちくりさせたリオンに、白龍は眉を上げて笑うと、横に置いた盤の上の駒を一つ進めた。
いや、意味などなくて単にからかっているだけかもしれない。今度こそ本の内容に没頭しようと改めて読みかけの頁に目を落とそうとしたリオンはそこで、塔から出て、ぽてぽてとこちらに歩いてくる人影に気がついた。ユカである。
あの子も暇ならうろうろしてないで自分の勉強でもすればいいのに。ほかに場所がなくて白龍の側にいる自分は棚に上げ、リオンはむっと眉を寄せる。
ユカはそんなリオンの様子などお構いなしに、ぽてぽてとこちらまで歩いてくると、当然のように側の丸太に腰をおろした。
寄ってきたはいいが、特に話しかけてくるでもなく、頬杖をついて焚き火の炎を眺めている。
これは、自分がやっと集中しかけた頃合いに、また声をかけてくる様式 だろうか。リオンはもう読むのはあきらめて、膝の上の本を閉じた。人数が増えたことで、白龍は今度は茶器に茶葉を入れ、勝手に人数分の茶を淹れはじめた。
東方風の煎り茶の香りが夜の中に漂う。
ユカは、昼間のはしゃぎ具合が嘘のようだ。ぼんやり炎を眺めていたユカは、白龍から小さな陶器の椀を差し出されて顔を上げた。そこでやっと、リオンが本を読むのをやめて自分を見ているのに気づいたらしい。
「……なにかご用ですの?」
それはこっちの台詞だよ、と出かかった言葉をのみ込んで、
「眠れないの?」
「昨日も今日もいろいろなことがあったのですの」
ほとんど一緒にいたから知ってるけどね。という返答はやはりのみ込んで、リオンは小さく頷いた。
昨日の流れで、ユカがグランたちについて行くのを後押しする形になってしまったけれど、いったいそれはなにかの役に立ったんだろうか。事態を引っかき回して、エレムやラムウェジに面倒をかけただけじゃなかったろうか。確かに、存在しないと思われていたカーシャムの法術を見たり、不思議な現象を目の当たりにしたりで、自分も驚きの連続ではあったけれど。
「世界は不思議なのですの。知らないことがいっぱいなのですの」
「そうだねぇ……」
リオンは一歩引いた場所にいることが多いので、グランにくっついていったユカが大冒険をしているのも、話には聞いてもなんだか現実味がわかない。
リオンは小さな頃からアルディラに振り回されっぱなしで、物事を起こす側ではなく起きた物事の被害をなんとか最小限に抑えようと、収集に尽力する側でいる方が多かった。自分のことを後回しにしてアルディラに付き合って、それでもなんとか国内ではやってこられたから気にならなかったが、この旅の中で痛感した。
とにかく自分には、いろいろなものが足りない。
だから、自分以上に足りないものだらけのユカが、みんなから守られて、法具という秘密道具で底上げされている自身になんの疑問も抱かないまま好き勝手に爆走するのが、見ていてイライラするのだ。
この二日間に目の当たりにしたことで、ユカがなにを感じたのか、少しでも得られるものがあったのなら、まだ自分の苦労も報われるというものだが、果たしてこのユカに、自分を振り返るという行為ができるのかも、今更ながら疑問な所だった。
「……君はこれからどうするの? やっぱり、ラムウェジ様のお世話になるの?」
「先代に、言われたのですの」
「? 先代? ……ああ、療養所にいた、前のアヌダの巫女さんか」
いきなり話が飛んで、リオンは目を白黒させた、
「いろんな所を見てきなさい、いままでの巫女達ができなかったことを、たくさんしてきなさいって、言われたのですの」
「……」
アヌダの巫女達は代々、勤めの間は山頂の社にこもり、年に一度の収穫祭の時にだけ山から降りてきたのだという。人によっては、人生の大半を山頂ですごしたようだ。
その真相も、リオンはそれとなく聞いてはいる。ルキルアとエルディエルの部隊が通りかからなければ、もっと言えば、そこに含まれるグランとエレムの存在がなければ、ユカの解放はなかったのだ。
その先の言葉を促そうとしたところで、白龍がリオンにも、茶の入った椀を差し出してきた。
ユカに渡してから、ずいぶん間があいている。白龍なりに空気を読んだのか。
受け取って、リオンが少しぬるくなった茶を口にしている間も、ユカはそれ以上口を開こうとしなかった。白龍も知らん顔で同じ茶をすすっている。
問いを重ねるきっかけを失ってしまい、リオンは椀を両手で抱えてため息をついた。
なんにしろ、数日内には、エルディエルの方針も定まって、帰りの道程も決まるだろう。北への街道の通行が再開されるかはまだ見通しが立たないし、グランたちがどうやって山を越えることにするのか、それだけでも出立前にはっきり見定められればいいのだが。




