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ラグランジュ ―漆黒の傭兵と古代の太陽―   作者: 河東ちか
逍遥の游子と航夜の灯星
591/622

30.月が標すもの<1/5>

 ウイデルの診療所は、昼からの診察が一段落した様子だ。助手が使用済みのタオルや道具を、洗ったり片付けたりとこまごま働いていた。近所の老人と茶飲み話をしていたウイデルは、人数を増やして戻ってきたグランたちを見て驚き、ラムウェジを紹介されて更に驚いた。

 ウイデルと茶飲み話をしていた老人は、ラムウェジの名前を聞いた驚きを近所に伝えまわるために腰を上げかけたところを、察したエレムに確保され、裏庭で白龍付きの碁盤の前に隔離された。どうやってあの盤を持ち歩いているかは知らない。

 ウイデル自身がサンザを呼びに行き、

「洗濯は僕らがやりますから、ナグジャさんにラムウェジ様がいらしていると伝えてきてください。こっそりですよ」

 と助手を送り出したエレムの監督下で、リオンとユカとフォンセがすすいだ後のタオルの水を絞ったり干したり叩いて伸ばしたりとバタバタしている間に、ウイデルがサンザとその妻を連れて戻ってきた。ランジュは洗い物の手伝いのつもりの水遊びで楽しそうにしていた。

「ああ、なかなか派手にやられたわねぇ」

 診療室の椅子に座らされたサンザは、グランに蹴られた腹や、フォンセに突き飛ばされて打った背中をラムウェジに確認され、緊張した面持ちである。

 なぜかラムウェジの後ろには錫杖を持った風の神官が控えているし、目立たないように気配を消してはいるが、視界の隅には黒い法衣を身につけたカーシャムの神官までいる。まぁ、普通の市民は、萎縮する。

「もともと体を鍛えてるのが幸いしたんだね。でも、あなた、体は大きいけど、とっても心根が優しい人なんじゃない?」

 えっ、と部屋の隅で様子を見ていたサンザの妻が顔を上げる。邪魔をしないように控えていたウイデルも、驚いた様子で目を丸くした。

「だって、近所の怖いおじさんのために、あんな風に子供たちが様子を見に来ないでしょ」

 視線の先には、診療所の入り口から今にも中に転げいりそうに群がる、粗末な身なりの子供たちがあった。

「ウイデル先生に呼ばれていったものだから、心配してみんなして見に来たんだね」

 と、ラムウェジは微笑み、今度は首筋に両手を添えてサンザの目をのぞき込んだ。珍しく真剣な表情を作ると、

「……体の、気の流れが乱れているようね。本来なら黙っていても抜けていく悪い気が、滞っているみたい」

「気、ですか?」

「普通の生活の中でも、悲しんでるひとや、イライラしてる様子の人の側にいると、釣られて自分も気分が重くなったり、イライラしたりすることって、あるじゃない? ああいうのって、他の人が放出する気の影響を受けてるのね。普通は少し時間がたてば抜けていくんだけど、サンザさんは優しい人だから、必要以上に受け止めて、ため込んでしまってたんだね」

 もっともらしく言いながら、ラムウェジは今度はサンザの背中側に回った。打ち身の跡が赤く大きく目につく背中に手を添える。

「……慈しみにあふれた母なる神レマイナよ、あなたの慈愛の心を継ぐこの幼子を癒したもう」

 ちからそのもの、とか言いようのないものが、ラムウェジの足下に集約していく。一方で、その後ろに控えるヘイディアが、錫杖の陰に隠れるようにわずかに唇を動かした。

 ふわり、とラムウェジの足下から「ちから」とはまた別の、柔らかな風が湧き上がった。法衣の裾を揺らし、サンザとラムウェジの髪をそよがせ、天井にぶつかる前に霧散していく。

 一方で、背中からは目に見えて腫れが引いていく。見ているウイデルもサンザの妻も目を丸くしていく。

「……い、痛くなくなった?」

 サンザは、自分では見ることのできない背中をのぞき込もうと首を回したことで、明らかに自分の体がなめらかに動くようになったことに気づいた様子だ。

「あら、気の流れを整えるつもりが、背中まで治っちゃった」

 失敗失敗、と、ラムウェジは軽く舌を出す。

「でも、体の中の気の流れを正したから、滞っていた悪い気も抜けていったよ。もう、なにかの折りに正気を失うこともないでしょう。でも、優しい人って、いろいろなものの影響を受けやすいから、悪い気が溜まっているような場所には、あまり近寄らないようにね」

「悪い『気』……ですか?」

「そうねぇ、いわく付きの場所とか、過去に悲しい事件の多くあった場所とか、治安の悪い荒れた地区とか……、人の気の荒れたところには、どうしても淀んだ暗い気が溜まっちゃうんだよね。仕事柄、そういう所に立ち寄らなきゃいけない時もあるだろうけど、通りすがりの人の不幸や不遇に必要以上に感情移入しすぎないで、一番に守らなきゃいけないものを心に置いておかないとね」

「は、はぁ……」

 サンザは曖昧に、逆に妻の方は思い当たることがあったのか、なるほどと頷いている。

 もちろん、ラムウェジが今施したのは、単純に治癒の法術だ。ただ、ヘイディアが目に見える(演出)を添えたことで、『体の気の流れを正して悪い気が抜けていった』という言葉が説得力を増しているのだ。

「おなかのアザの方は、先生にもらった軟膏をちゃんと使ってれば大丈夫だよ。肋骨が折れてたりはしなそうだし」

「当たり前だ」

「あはは、さすがにぎりぎりの手加減は心得てるよね」

 ぼそりと吐き捨てるグランに、お気楽に笑い返すと、ラムウェジはいいことを思いついたとばかりにぽんと手を打った。

「そうだ、先生、そこ痛いと、眼鏡かけるのも困るよね」

 驚きに声が出ないままのウイデルに向き直る。

 眼鏡の蔓は応急措置を施してあるが、細いひもが巻かれたことで確かに、あざになった部分に当たりやすくなっている。ラムウェジの意図に気づき、ウイデルは恐れ多いとばかりに後ずさった。

「いや、これくらいでラムウェジ様のお手を煩わせるようなことは」

「サンザさんだって、その傷を見るたびに恐縮しちゃうよ。それに、いつも町の人のために頑張ってくれてるんでしょう」

 と、ラムウェジはにこにこと、ウイデルのこめかみに手を添えた。軽い傷なら「説教しながら」癒やすというラムウェジにとって、この程度は造作もないのだろう。みるみる腫れが引き、擦り傷が消えていく。

 通常でも数日で目立たなくなるような傷だろうが、目の前で「癒えていく」のを見せられるのは、何度か見たことがある自分たちにも印象深い光景だ。はじめて見る者なら、なおさらだろう。

「……あんたたち、本当にラムウェジ様に話してくれたのか」

 驚嘆の声を上げたのは、助手に連れられてやってきた、ナグジャだった。

 いや、サンザを癒やしたあたりから、入り口をくぐっていたのは判っていたが、ラムウェジはあえて気づかないふりで癒やしを実行したのである。

「すごいな、目の前で、本当に傷が癒えるのか、それに……」

「ナグジャさん、うちのひとはもう大丈夫だって、ラムウェジ様が」

 こちらは本当に今気づいたらしく、サンザの妻が涙ぐみながら声を上げた。

「滞っていた悪い気を抜いてくださったから、これからは様子がおかしくなることはないって言ってくださって」

「そうか、そうか、そりゃよかった」

 ナグジャは笑顔で、サンザの妻の肩を励ますように叩いた。

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