38.漆黒の傭兵と古代の太陽<中>
「あ、あのひとですよー」
無邪気にランジュが手を振ったが、イグはもちろん答えない。フードの下の紅い瞳が、冷たくグラン達を見つめている。
グランはカイルから手を離し、先に瓦礫の小山を乗り越えた。
「……王子を助けに来たって感じじゃねぇな」
「自由にして差し上げに参った」
距離を置いて向かい合うと、淡々とイグが答えた。少年のようとも、声の低い女ともとれるような声だった。
「今ご自分で言っておられたろう。自分は王族にふさわしくない、弟君が王位を継ぐことを皆が望んでいる、と。その通り。王子が自由になられれば全ては丸く収まる」
「別に、この世から永遠に自由になりたいわけじゃなさそうだが」
後ろでカイルがはっとしたのが感じられた。さすがにイグの意図に気付いたのだ。
「それに、『みんなが』っつーか、シェルツェルとお前が望んでるだけだろ。少数意見を、わざと大勢の意見のようにすりかえて表現するのはよくないな」
「いずれ本当にそのようになる」
わりと近い場所で、何かが壊れる音がした。温室にぎりぎりぶつからないくらいの場所に、大きな瓦礫が落ちていったのがこの位置からでも見えた。
月花宮の北に連なる塔が攻撃を受けて、先端部分がそのまま吹き飛んだのだ。背後でカイルが声にならない悲鳴を上げた。
塔の屋根が中庭に突き刺さり、大きな振動が建物全体に広がった。突風が吹き抜け、布の多いイグの服をはためかせ、グランの髪をなびかせる。
「……公女に似た娘を王子の側付きにして『公女が城に捕らわれている』と噂を流したのも、王子の署名だけの手紙を利用して、カイルを公女拉致の協力者のようにエルディエルに見せかけたのも、シェルツェルの意向ってとこか?」
イグの表情は変わらない。もっとも、見えているのは目だけだが。
「シェルツェルはエルディエルの部隊にこう持ちかけたんだろう? 『公女の監禁は王子と、王子を支援する白弦騎兵隊の暴走。増長した彼らは、諫める王や宰相の声にも耳を傾けない。ここは互いに連携し、エルディエルの部隊が遠距離からの攻撃で城内を混乱させるその隙に、宰相の私兵が姫君を奪還し王子とその一派を制圧いたしましょう』」
「……」
「で、エルディエルが攻撃してる間にカイルを始末して、シェルツェルの言うことを聞かない目障りなルスティナと副官達を押さえ込むつもりだったんだ。そこまでは判るが、肝心の公女はどうするんだよ? 居場所も判らないのに、どうやって城から助け出すんだ?」
「……自分の計画が失敗したと悟ったカイル王子は、公女を道連れに自害されるのだ」
イグは淡々と答えた。
「お二人の亡骸は、エルディエルの攻撃によって崩れた瓦礫の下から見つかるだろう。特に姫の遺体は瓦礫の下でひどく損壊し、髪の色以外は顔かたちも体つきも確認が難しいほどの状態で発見される。残念だが、エルディエルの攻撃のせいなので仕方あるまい」
「……そのためのランジュなのか」
ランジュはぱっと見た印象がアルディラとよく似ている。もし見知っている者が、遠くからちらりと見かけたら、アルディラだと思ってしまうかも知れない。
「でも本物はまだ逃げ回ってるんだぞ? 後から別の所で見つかったら、どうするつもりなんだ?」
「本物の公女は亡くなられているのだから、後から現れるのは偽物に決まっている。大国エルディエルの公族を騙る不埒な輩、その場で斬り捨てられても文句は言えないであろう」
まったく表情を変えないイグを、グランは冷ややかに見返した。別の場所からアルディラが見つかったとしても、彼らはどのみち始末する気でいるのだ。
「本当にそんなに都合良く、物事が運ぶと思ってるのか?」
「もちろん、そのようになる」
「そうだろうとも、お前がいればな。イグ、いや……『ラステイア』」
グランは肩をすくめた。フードの下の赤い瞳が冷たく光を放つ。
「……なぜ判った」
「俺はキャサハの遺跡で、お前らの『説明書』を読んでるんだぜ?」
どうやら図星だったらしい。グランはにやりと笑みを作った。実際に古代語を読んだのはエレムだが。
黄金の扉、ふさわしい労、ふさわしき報酬、輝ける星、ラグランジュ
白銀の扉、艶やかなる花、種なき果実、流れゆく星、ラステイア
「『ラグランジュ』が持ち主に役に立たない姿で具現し、厄介ごとを引き起こす疫病神みたいなもんなら、それに相対するものらしい『ラステイア』は、持ち主に役に立つ姿であらわれて、ものごとを持ち主に有利に運ぶ力を持ってるんじゃないかと思ったのさ。話に聞くだけでも、シェルツェルの成り上がり具合は普通じゃないからな。本人の運と実力以上の何かが、後押ししているとしか思えない」
後ろから「疫病神とは心外ですー」などと抗議の声が聞こえてきたが、構っている場合ではない。それにその辺はグランにとっては事実である。
「それに圧倒的な知名度を誇る『ラグランジュ』に比べて、『ラステイア』はまったくその名を知られていない。主を持って具現しても、名前を隠し、存在を隠してきたからだ。……今のお前みたいに」
フードの下で、イグが感心したように目をしばたたかせた。
「ひょっとしたら、過去に『ラグランジュ』の仕業だって言われてるうわさ話の幾つかは、実は『ラステイア』の力だったのかも知れないな。『ラグランジュ』がもたらすものが苦難の先の栄光なら、『ラステイア』のもたらすものは、栄光の末の破滅なんだろう? それも、得た栄光にふさわしい、華やかな破滅だ」
土壌の養分を贅沢に吸い上げた末に、どれだけ鮮やかな花が咲いたとしても。果実が豊かに実ったように見えても。
種がなければ、その植物は滅ぶだけだ。花は散って終わり、実は腐るか他のものについばまれる。
夜空を流れる星が人の目に美しく際だつのは、ほんの一時だけなのだ。
「それも主の望むこと」
イグは当然のように答えた。
なるほど、半端な理解でもさっくり契約が成立してしまう『ラグランジュ』に対して、『ラステイア』はきちんと持ち主が性質を理解した上での契約になるらしい。もちろんそういう者らは、欲しいものを全て手に入れてしまえば、いずれ来る破滅の約束すら反故にしようと算段をするのだろう。
イグの冷たい視線がグランからその後ろに動き、カイルが怯えた様子で後ずさった。
イグは一歩踏み出し、もう一度グランを見据えた。
「あの女将軍と白弦の副官達は、王子と共に公女の監禁に加担した疑いで既に捕らえてある」
「……なんだと?」
「そこをどけ、『ラグランジュ』の主よ。お前はこのまま外に出て、王子とその娘は瓦礫の下敷きになって息絶えていたと皆に伝えればよい。シェルツェル様に協力するなら、相応の富も名誉も与えられよう。なんなら、あの女だけは私が口を利いて放免しても良い。地位は失うが、市井の女となったほうがお前には都合がよいだろう」
黙ったままのグランに、イグはたたみかけるように続けた。
「お前の望みは『ラグランジュ』から解放されることなのだろう? そんなお荷物を背負ってキャサハまで再び戻らなくても、ここで『ラグランジュ』が力を失えば事は済む。ただの人間は『ラグランジュ』の存在に干渉できないが、私ならそれが成せる。私が始末をつける代わりに、お前は口をつぐんでいればいい。悪くない取引であろう」
言いながら、イグは自分の胸元に左手をかけ、体を覆っていたクロークをはぎ取った。
真っ白なクロークの下は、動きやすいように体にぴったりと作られた紅い服だった。服とは対照的な、絹糸のような白い髪が揺れる。
その右手がつかんでいたのは、見覚えのある形の剣だった。
グランのものと同じ剣を。
いや、確かに一見形は全く同じだ。ただ、グランの剣は柄に月長石が埋め込まれているが、イグのそれには石はなく、神代文字も刻まれてはいない。素材は象牙のような高級なものだが、柄自体は最近作られたものだろう。
しかし、剣身部分の色と光沢には見覚えがあった。
グランの剣の柄の金属と同じものだ。
そして剣身の、つばに近い部分には、落日と同じ色をした紅い石が輝き、神代文字と思われる特徴ある文字が刻まれていた。
「……それだけじゃねぇな。お前自身が、『ラグランジュ』を邪魔だと思っているんだろう?」
グランはイグの瞳をまっすぐ見たまま問い返した。紅い瞳。燃え落ちる太陽の色。
「俺達の宿に押し入ってランジュを連れ出したときは、特徴が公女に似てるだけで、存在自体はまったく役に立たないランジュをうまく利用しようと思っただけだったんだ。だけど俺がよりによって、ルスティナの側についちまった。このままだと場合によっちゃ『ラグランジュ』の力が、お前らの目論見をひっくり返しかねないもんな」
「それがどうしたというのだ」
多少苛立った様子で、イグがグランの言葉を遮った。
「『ラグランジュ』からお前が解放されることで、お前と私たちの利が一致するのだから、お互いなにもいうことはあるまい?」
「結論から言っちまうならそうだけどな」
「では、提案を受け入れるのだな?」
身動きもできないのか、背後から緊張した様子でグラン達を凝視しているカイルの気配を感じた。ランジュのは、……判らない。