10.疾風将軍と氷牙の妖魔<2/6>
近づくと、島の中心にある建物のようななにかは、やはり半壊した小型船のようだった。甲板の上の船長室あたりがちょうど形を残して、小屋のように見えるらしい。
中が無事なら、寝泊まりくらいはできるだろうが、その外側も霜がきらめいて、避暑にしても少々寒さが過ぎるような気がする。
その船を丸く取り囲む氷の陸地は、割と平坦で、かなり厚みがありそうだった。壊れた船が中心になっているから、冷気の源もあそこにあるのだろう。いるのだろう、といえばいいのか。
「すごいねぇ、これだけの氷、陸地に持ち込んだらみんな大喜びだよ。ひとかけら、いくらぐらいで売れるかな」
リノは前向きなんだかよく判らないことを口走りながら、速度を落とし、船を横付けできそうな場所を探っている。さすがに島の端部分の氷は、温かい波に触れているだけにみぞれ状に水を吸ってもろそうだ。
リノはある程度船が近づくと、積んでいたロープを手に取り、先端のかぎ爪を振りまわして氷の島に放り投げた。かぎ爪が氷に食い込んだのを確認し、引っ張って船を寄せる。
「乗れるのであるか、この島」
「乗った瞬間にひびが入ったり、穴があいたりしねぇ?」
「下はただの海だし落ちても平気じゃない? 冬の海だったらまずいだろうけど」
そう言われればそうなのだが、氷が割れて海に落ちるのと、船縁から海に飛び込むのとでは気分的に差がある。おっかなびっくり様子を見る二人に、リノはあっけらかんと、
「浮いてる氷って、下はかなり厚いらしいよ。先においらが乗ってみようか」
船縁に軽く手をつき、リノは軽業師のようにくるりと宙返りしながら船から飛び出した。氷の島は、人間一人を受け止めても大きく揺れたりしなかった。
「お、割と堅いよ。大丈夫そうよ」
リノがつま先で表面をつついても、氷はカツカツ音を立てて、ひびが入ったり穴があくような気配はない。船に残った男二人はそれぞれ顔を見合わせ、なるべく氷の縁を避けながら、恐る恐る氷の島に降り立った。
照りつける日差しが反射して島は白く眩しい。一方で、空から感じる太陽の熱を、足下の冷気が打ち消し、あたりは肌寒いくらいだった。
「海の上にこんな島まで作って、なにしてるんだろうねぇ」
きょろきょろと辺りを見回して、リノがのほほんと声を上げる。
「妖魔のすることなら、理屈なんかないんだろうが……」
「船乗り達の話から考えると、誰かを捜していたように思えるな」
そもそもそういう考察は、出てくる前にやっておくべきじゃなかったろうか。今更な突っ込みを頭から振り払い、グランは荒い氷の表面を踏みしめつつ島の中央に向かって歩き始めた。
中央で凍りつく半壊した船まで、島の半径の三分の一ほどの距離を歩いた頃。
なんの脈絡もなく、屋根のある部屋の扉がぱたんと開いた。
前振りもなければ。おどろおどろしい盛り上がりもない突然の動きに、三人は足を止めた。
扉からふらふらと現れたのは、小柄な、どうやら女のようだった。陽光を受けた海のように鮮やかな青髪に、褐色の肌。服装だけなら、快活な南国の娘といった感じだ。しかし、全身から漂う雰囲気は、どうにも快活とは言いがたい。
徹夜明けでなんとか原稿を仕上げて幽鬼のように寝室に向かう文筆家のようというか、夜通し踊り明かして化粧もなにもかも崩れて朝一の乗合馬車でぐったりしている若者のようというか。とにかく疲れた様子で背を丸め、足取りもなんだかおぼつかない。
想像していた、得体の知れない妖魔からかけ離れた姿に、さすがに誰からもとっさの感想が出てこないでいると、
「……?」
同じように、幻でも見るように立ちすくみ、こちらの正体を見定めようと娘は目をすがめた。
彷徨う目の焦点が、不意に、一点にとまる。
「み……」
「み……?」
「みつけたああああああ!」
大声と共に伸ばした腕の、人差し指をまっすぐに向けられて、ぎょっとなったのは、
「えっ? おいら?!」
一歩下がって全く他人事のように眺めていたリノだった。
「よくのこのこと顔を見せられたさ! 来たからには返せ!」
「ななな、なんの話?」
「お前、首を突っ込んできたと思ったら、心当たりがあったのか」
おろおろとリノは両手を振るが、グランは逆に合点がいったとばかりに白い目を向けた。オルクェルも鷹揚に頷き、
「なにをしたか判らぬが、人を騙すような真似はならぬよ。心から謝れば誠意も通じるだろう」
「だからおいらなにもしてないよ?! 後ろ暗いことがあったらついてこないって!」
「つべこべ言ってないで、さっさと返せぇー!」
娘の叫びと同時に、離れていても感じられるほど強烈な冷気が吹き出した。呪文で発動しているのではなく、感情に連動しているように思えたが、それ以上を観察する余裕はなかった。娘がまっすぐ指を差すそばから、その体の前に、白く大きな冷気の塊が現れる。
空気を凍りつかせるようにキラキラと集まった冷気が、獣のような形をとる、それと同時に、
「えええっ」
リノが反射的にのけぞって宙返りを決めた、その時には既に、白い冷気の塊は一直線に白い輝跡を引きながら、リノが直前までいた場所を通過していた。冷気の塊は、そのまま島の縁まで到達すると、海の上に出る直前にかき消えたようだった。
「なんだありゃ、めちゃくちゃ速ぇぞ?!」
「なんだか四つ足の生き物が駆けるような動きであったな、あれは一体……」
「驚いてる場合じゃないよー!」
リノが悲鳴を上げるのも道理で、女はさっき冷気の塊が駆け抜けて行った跡を、滑るようにリノに迫っている。走るというよりは、前屈みに飛んでいるような、なめらかな動きだ。慌てて横に逃げたリノを追いかける女を取り巻くように、今度は次々とつららのような氷が中空に生まれ、形が出来るそばからリノを追撃し始めた。




