俺の名は<前>
周回遅れで流行りに乗ってみた。
「やぁ、ここまで上るとさすがにいい眺めですね」
古い石段を登り詰めた広場で、振り返ったエレムは感嘆の声を上げた、
ラレンスの町外れにある、東側の急斜面、生い茂った木々が根を伸ばしていなければ、とっくに崩れて崖と化していたような場所だ。急斜面なのだから、石段ももう少し蛇行させて作ればいいのに、階段を作る手間を惜しんだのか単に石が不足していたのか、とにかくひたすらまっすぐ上に向かって伸びている。
額に汗を浮かせ、呼吸を整えながら、グランは脇腹をおさえて振り返った。
高台に上がった分、内海の先が空に溶け込むほど遠くまで見渡せる。確かに美しい眺めなのだが、野郎と二人で眺めていてもなんの感慨もない。自分の用で来たわけでもないので達成感もない。
「お前もよくやるよなぁ、大昔の、なにを祀ってるかもよく判らないような社なんだろ」
「おばあさんは、昔子供を病気から護ってくれた、御利益のある神様だって言ってましたけどね」
エレムは大きく深呼吸しながら、爽やかな笑顔で答えた。
夜遅くに起きたわりと大きな地震と、それが原因で起きた町の火災。また地震による大波への懸念もあり、町の住人の一部が高台に避難している。ちょうどそこに駐留していたエルディエル・ルキルアの野営地の一部は、避難場所として町の住人に開放されていた。
地震そのものの被害はたいしたことはなく、波も懸念されていたほどではなかったが、地震で家が倒壊した者や、火災で焼け出された者には早急に仮住まいが必要だ。
それなら、今更新しく町が避難場所を作るよりは、既に設営された野営地の一部をそのまま避難所として町に明け渡し、その代わりに、今後ルキルア軍が旅の間で使う天幕や炊事道具を、町側から提供してもらえばよいのでは、という話になり、今調整が行われている。
町からやってきたレマイナ教会の神官達と供に、野営地に避難していた住人の世話をしていたエレムは、その最中にある老婆に声をかけられた。
老婆は火事から逃げる際に転んで怪我をしており、数日は無理に歩かないようにと言われていたのだが、
「週に一度、高台の社へのお参りを習慣にしていたのに、それができないのが辛いのです。できたら自分の代わりに、花と供え物を持って行ってもらえないでしょうか」
とエレムが頼まれてしまったのだ。
忙しくしている町の者には頼みづらく、しかしこうした時だからこそおろそかにしたくない、と切々と訴えられたエレムは、
「レマイナに仕える身ですから、その社の神様に僕自身が祈ったり、なにかを願うことはできませんが、おばあさんのお使いでお届け物をする分には構いません」
と承知してしまった。
「いくらお前が人が良さそうだからって、レマイナの神官にこんなこと頼まねぇだろ普通」
「心のよりどころになっているものを、簡単に否定できませんよ。それでなくても、家を失って気落ちされてるんですし」
「だったら行ったふりして適当に時間潰して戻りゃいいだろ」
「社に供えた花も新しく替えて欲しいって話ですからね。次に行った時に、花が干からびているのを見たら、がっかりするでしょう」
「お前もお人好しだよなぁ」
「だいたい、僕はグランさんに一緒に来て欲しいなんて言ってませんよ」
ブツブツ言うグランを、エレムはさすがにむっとした様子で見返した。グランはもちろん、悪びれる様子はない。
「あそこにいてもすることねぇんだよ。みんな忙しいし、町は騒ぎで酒場も開いてねぇみたいだし」
「暇なら、たまにはランジュと遊んであげればいいじゃないですか。今だってユカさんとリオン君が面倒を見てくれてるんですよ」
「あいつらは好きでやってるからいいんだよ」
避難してきた者達の世話を手伝うなど、そもそもグランの柄ではない。しかしあの状態の野営地で、ひとり天幕でゴロゴロしていられるほど図太くもない。かといってランジュと遊んでやる道理などない。あれは勝手に、グランに取り憑いているものなのだ。
エレムが出かけるというので、これ幸いとついてきたが、来てみれば、面白くない点に置いてはこっちも大差がなかった。
「ああ、あれが社かな」
古い石造りの、小さなほこらに、狐と犬を混ぜたような不思議な動物の像が置いてある。昔この一帯で信仰していたという、エディト神話の神々ともまた違うようだ。
ほこらの前に置かれた花瓶には、しおれた白い花が挿されていた。水もだいぶ減ってる。エレムは近くを流れる沢の水で花瓶を洗って水を替え、ほこらの前に片膝をついて持ってきた花を挿した。
「おばあさんのお気持ちはお届けしましたよ」
ほかに声をかける対象がないので、エレムの視線は像に向いている。エレムは立ち上がり、大きく腰を伸ばした。離れて見ていたグランは、相変わらず呆れた様子で、
「どうすればそんな風に、なんの疑問もなく頼まれごとに頑張れるんだか。いい人過ぎてうらやましいくらいだな」
「僕は、グランさんの方がうらやましいですけどね」
半分嫌みのようなグランの呟きに、エレムは妙にしみじみと答えた。
「周りの状況なんか関係なく、自分のしたいことだけをできる図太いところなんか、特に」
「褒めてねぇぞ」
「褒めてませんよ」
エレムはため息をついた。
「でも、そんな生き方ができたらいいですよねぇ。僕は可能ならグランさんになりたいくらいです」
「俺はお前みたいに、行く先々でちやほやされたいぞ。レマイナ教会じゃ有名人なんだろ」
「だからそれはラムウェジ様が有名なだけですって」
軽口を叩きながら、二人は社を背に、元来た石段を降りていった。急斜面なだけに、駆け降りるのは危ないから、来た時とそう変わらないくらいの時間がかかりそうだった。
歩き去る二人の背中を、新しい花の飾られた社の中から、動物の石像が見送っていた。
肩に触れた手に揺り動かされ、天幕で横になっていたグランは、目を開けないままもぞもぞと寝返りを打った。
朝なのは判っているが、俺が早起きしたってすることはない。何事かが起きたのなら、もっと切羽詰まった声のかけ方をするだろう。もう少し寝かせてくれ。
背を向けたグランの肩を、手は更に揺り動かす。払いのけようとして、それがエレムの手にしては妙に小さいのに気がついた。
ランジュがこんな朝っぱらから俺になんの用だ、腹が減ったならエレムかリオンに言え。ああ、リオンはあっちに戻ってるんだっけ。
目を開けると、膝をついてグランの肩に手をかけていたランジュが、なぜか不思議そうな顔でこちらをのぞき込んでいる。
「エレムさん、具合悪いのですかー?」
「なんだよ、そういうのは本人に……」
もごもごと言いながら、グランは渋々首だけを動かした。ランジュの肩の陰に、少し離れた場所で転がるもう一人の背中が見えた。
あれ、あいつあっち側で寝てたっけ。見える後ろ姿がどうにもエレムのものとは違うような気がして、眠さでぼやけていた思考が焦点を合わせ始める。その瞬間、その背中の主は無意識に前髪をかき上げながら寝返りを打ち、こちらに顔を向けた。
長く伸びた黒い髪、見覚えがあるがどこか違和感のある端正な横顔。まぶたが開くと、黒い瞳がこちらを映した。
互いの目が点になる。
二人は揃って飛び起きると、鏡のまねをするように同じ動きで自分の腕や手を眺め、天幕の中に放置された誰かの手鏡に飛びついた。その鏡に揃って映る、互いの姿を更に見比べる。
朝の野営地に、男二人の叫び声が響き渡った。
「な、なななななにやってるんですか! どうしたらこんな悪さを思いつくんですか!」
自分の顔や肩や頭を何度も触りながら、半分涙目のグランがエレムを怒鳴りつける。エレムそのものの口調で。
「いきなり俺のせいにするんじゃない! 思いついたって普通こんなことできねぇだろ!」
「グランさんならやりかねないでしょう!」
「お前は俺をなんだと思ってるんだ!」
グランの口調のエレムが、自分の映った鏡と、グランを何度も交互に見ながら声を張り上げる。さすがのランジュも引いた様子で、二人と距離を置いて座ったまま、うさぎの人形を抱きかかえて目を丸くしている。
「キルシェさんと協力してなにか仕込んだんじゃないですか!? 一体なにを企んでるんですか!」
「お前まず俺が原因って考えを捨てろ! あれと俺を同じ枠に入れるな!」
わちゃわちゃ言い合っていると、叫び声に驚いた兵士が小走りにやってきて入り口の布を開いた。
「ど、どうかしたのか、元騎士殿、エレム殿……」
「なんでもありません!」
「なんでもねぇよ!」




