59.時は還りて<1/4>
目を開けると、見慣れた天幕の天井が見えた。
朝の光に外が白んでいるのか、灯りのない天幕の中でもおぼろに周囲が浮き上がって見えた。遙か遠くから波の音が聞こえるような気がするが、外はこんな時間でも人の声で妙にざわついている。鼻に触れるのは、潮の匂い、泥の匂い、そして、なぜか、なにかが焼け焦げたような苦い匂い。
今まで自分が何をしていたのか、とっさに思い起こせずに、グランは床に寝転んだままぼんやりと天を仰いでいた。軽鎧の下の服は生乾きだが、冷たいとか気持ち悪いとか感じる以前に、ただ、だるい。
あれだけのことを一晩で済ませてきたのだから、疲れているのは当たり前だ。だが、どうして天幕にいるのかがよく判らない。どこかで気でも失ったのを見つけられて、運び込まれたのだろうか。だとしても扱いが雑すぎるような気がするが。
「……あれ?」
割とすぐ近くから、かすれ声でエレムが呟いたのが聞こえた。目を動かすと、自分と同じような格好で床に寝転んで天井を見上げ、エレムが目を瞬かせていた。グランと同じように、寝具も敷かれていない天幕の床に横たわっている。そしてやはり、顔も手も、生乾きの泥とすすで汚れ、濡れた跡のある法衣が重そうに体にまとわりついている。
「えーっと、なんでこんなところに……」
起き上がったエレムは、頭を振りながら記憶を思い起こそうとしているようだ。転がったまま自分の額に触れようとしたグランは、自分の手のひらも、エレムの顔や手と同じように、泥とすすで汚れているのに気づいて動きを止めた。髪も塩でざらざらしているし、どうも自分も焦げ臭い。
「……そうだ、ユカさんとヘイディアさんは……?!」
思い出したら一気に目が冴えたらしく、エレムは慌てて周囲を見回した。海水を浴びたのがそのまま乾いたように、エレムの髪もぺったりと形が崩れていた。
空中に現れた法陣が薔薇色に輝いて、自分たちを遠い過去に飛ばしたのまでははっきりと覚えている。しかしその後の、瓦礫の都市で見た光景は、どうにもおぼろげだ。あそこからどうやって戻ってきたのかは後で考えるにしても、泥や潮臭さはともかく、どうして焦げ臭さを感じるのかさっぱり判らない。どうにも考えが追いつかず、ぼんやりと天井を仰いでいたら、
「グランバッシュ様、エレム様!」
慌ただしい足音と一緒に、ユカが天幕に駆け込んできた。ユカもまた、自分たちと同じように泥とすすで服や顔が汚れて、法衣に似せた服も生乾きのようだ。それにどうも、互いの無事を確認しに来たような慌て方ではない。
「なんだか、みんなの様子がおかしいのですの!」
「そら、あんな騒ぎがあったんだからおかしくないわけがないだろ」
大地震の後の大火災、そして多分大波にまで襲われて、海に近い低地は壊滅状態だろう。高台へ住人の避難が間に合っていたとしても、町を失った住人達が平静で居られるわけがない。
そうか、外のざわめきは、野営地が住民の避難場所になっているからなのだろうと、やっと推察できた。だが、
「そ、そういうことじゃないのですの。とにかく、外に出てみるとよいのですの」
ユカに腕を引っ張られ、二人は顔を見合わせて立ち上がった。
自分たちのいた天幕は野営地のはずれにあるらしく、高台は東に広けているので内海がよく見えた。港から続く白い防波堤。その先の小さな島。大灯台の跡地に建てられたという要塞が……
なかった。
島の上には、白い石畳の広場があるようだったが、崩壊した大灯台の瓦礫を再利用して作られたという要塞の建物は、なかった。
海沿いは、白い石畳と石造りの建物で形作られた町が広がっている。町外れの漁港だけは木造の建物郡だが、その周辺から黒い煙が上がっているのが朝靄の中にも見えた。火の手は見えないので、火事になって消し止められた木材の燃え残りが、くすぶっているように思える。
「……ていうか、俺たちが海から見た時は、町全体が火の海だったよな?」
「あんな大波が押し寄せてきてたのに、どうしてほぼ無事なんですか……?」
火に包まれていたはずの町並みの大部分は、何事もなかったように無事だった。もし火事が町の一部分だけで済んでいたのだとしても、その後の大波の影響は免れなかったはずなのに。
『時の舵』起動初期の、防潮壁の働きが功を奏したのだろうか。
だとしても、要塞跡の建物がない理由の説明がつかないのだが。
「おや、もう起きたのであるか」
振り返ると、部下達をつれたエスツファと目が合った。エスツファ達は、グラン達のように汚れてはいないが、夜通し起きてなにかをしていたように、疲れた様子があった。
「やはり、その格好ではちゃんと眠れぬか。アルディラ姫が湯浴みの準備をさせているそうだから、三人とも体を洗って着替えて来るが良い。ついでだから、朝食と休息も甘えてくると良かろう。こちらは避難した民のために炊き出しをするので、慌ただしくなるであろうからな」
「えーっと……」
「あれだけの働きをしたのだ、手伝いなどは考えずにちゃんと休んでおいてくれ」
「あれだけって……。そういや、あんたたちは大丈夫だったのか」
自分たちが『棺』に向かっていた間、エスツファ達は町で、襲撃してくる骸骨達の退治と、町の住民達の誘導に当たっていた。その直後に地震と、それに伴う火事と大波で、陸地は地獄絵図ともいえる事態に陥っていたはずだ。
ユカは混乱のあまり言葉が出ないらしく、エレムの後ろに隠れたまま、不可解さを全開にした顔つきでエスツファを伺っている。エスツファはしかし、
「大丈夫もなにも、我らは単に避難してくる住民を迎え入れていただけであるからな。幸い、地震のあとの波も懸念されていたほどではなかったし、火災もあんたたちのおかげで最小限に食い止められたから、大きな被害はなさそうだという話であったよ」
「……あの大波で、街がなんともなかったんですか?」
エレムは目を白黒させている。
グラン達は、『時の舵』が発動した直後、沖から迫る山のような大波を要塞跡上空から実際に眺めている。あのまま押し寄せてきたら、低地の町並みは全部呑み込まれていたはずだ。それが、『懸念されていたほどではなかった』とはどうしたわけなのか。
どうにも話がかみ合わない。
「……どうしたのであるか? よっぽど疲れているのではないか? ……おや、ヘイディア殿であるな、湯浴みの準備が出来たのを知らせに来てくれたのであるかな」
エスツファの視線を追うと、天幕の間を縫って、錫杖を片手にヘイディアが足早にやってくるのが見えた。表情が乏しいのは相変わらずだが、どうにも困惑しているのが遠くからも見て取れる。
「……エスツファ様、オルクェル様が、野営地を避難所として町側に引き継ぐ手順について意見を伺いたいとのことで……」
「ああ、そうであったな。どうせおれたちは旅の途中なのであるから、町側が改めて避難所を作るよりは、このまま野営地を明け渡して、代わりに町の所有する天幕や調理道具を譲ってもらった方が早いという話になったのだよ。……あんたたちはちゃんと休むんだぞ」
エスツファとその部下達が立ち去ってしまうと、ヘイディアはグランとエレム、そしてユカに改めて顔を向け、やっと安堵の表情を見せた。
「皆さん、ご無事だったのですね。……『時の舵』のことは覚えていらっしゃいますか」
「覚えてるもなにも、なんだか話がおかしいんだが。要塞の建物もなくなってるし……」
「山みたいな大波が沖から迫ってきてたのを、法円の上から確かに見たのですの。町がなくなるのを覚悟したのですの。でも気がついたら、わたし、別の天幕でこんな格好のまま横になってたのですの。あの後、どうなったのですの」
「私も、先ほどエルディエルの野営地で目が醒めました」
ヘイディアは、説明に困った様子で少しの間目を伏せた。
「オルクェル様に呼ばれてアルディラ様の天幕に伺ったら、なぜかリオンがランジュの面倒を見ておりました。そして、双方の野営地に受け入れていた避難民を、ルキルアの野営地に集約するために準備をしているので、夜が明けたら伝令を風で通達してほしいとのことで……」
「じゃあやっぱり、あの火事と大波から逃げてきた町の人を受け入れてるんですよね?」
「それが、その……どうも、おかしいのです」
「あっ、いたいた」
言葉を探すヘイディアの代わりに、天幕の間から現れたリオンが嬉しそうに声を上げた。
「湯浴みの支度が出来たから、皆さんを呼んでくるように言いつかったんです。その後は一緒に朝食をとらないかって、アルディラ様が……」
「リオン、さっき私に話したことを、皆さんにも説明してくれませんか」




