58.暁の魔女と再生の王<5/5>
「怯むな、今は千載一遇の好機!」
女王の迫力に、立ちすくんでいたかに見えた彼らの長は、今は打ってかわって威厳と自信にあふれた声を張り上げた。
「我らには、アウセルの加護がある、怯んではならぬ、今こそシペティレを討つのだ!」
「し、しかし、すぐにでも大波が――」
忠実なスキアは、おろおろと沖合に目を向けた。そして、今度こそ言葉を失った。
急速に沖合から迫りつつあった大波は、都市を呑み込もうという直前、大きな山と化したかのように動きを止めていた。いや、後から後から押し寄せてくる大波が、まるで生き物のように形を変えていくのだ。
大きな頭から、八匹の蛇が生えたような巨大な足。水そのものでできた巨大な蛸が、押し寄せてくる波をうねうねとうごめく足で受け止め、それを吸い込みながら更に大きさを増していく。
「こ、こういうことなんですか……」
崩壊した神殿奥に立つ女王と侍女を見つめ、白い法衣を身につけた金髪の青年が、驚きを通り越し、諦めたような納得いったような声をあげる。一方で、
「いくらなんでもやりすぎじゃねぇか?」
夜と同じ色の髪と目を持った黒い軽鎧の戦士が、水でできた大蛸を横目で見ながら呆れたように呟いた。そして二人は、間に立つ男に同じように目を向け、笑みを見せた。
「へ、陛下、その方々は……」
「彼らは太陽神ルアーが使わした戦士だ。天命は我らの上にある!」
シェイドは――いや、ファマイシス一三世は自らの剣を高く掲げた。駆け出した王の両隣を、戸惑うことなく新たな戦士が剣を抜きながら駆ける。忠実なる王の戦士達は、慌ててその後に続いた。
女王の危機を察し、瓦礫の中で傷つきながらもまだ動ける兵士達が、身を挺しようと横から飛び出してくる。だが、黒い戦士が拳を振るい蹴り払い、白い神官が容赦なく大剣を振るうと、彼らはなすすべもなくなぎ倒されていく。
その二人の間を、自分とそっくりに同じ美しい顔の女王に向けて、若き王はまっしぐらに駆けていった。さっきとは別人のような迷いのなさ、その迫力に、錫杖を握る女王は確かに戸惑っていた。
その女王をかばうように、二人の侍女が立ちはだかった。
白い髪に紅い瞳の侍女が、短剣を手に鋭敏な動きでグランに向けて飛びかかる。もう一人の侍女は、腕に絡ませた蛇を鎖のように空に滑らせた。エレムに向けて。
だが――
「悪いな!」
一度相対した相手だ。間合いも動きも、グランはとうに見切っていた。突き出された短剣をわずかに体を反らしてよけながら、
「決着は、とっくの未来についてるんだよ!」
グランの剣は容赦なく、白い髪の侍女の左肩を貫いた。剣身は深々と柄まで突き刺ささり、肩の骨を砕きながら娘の体を突き飛ばす。抜ける刃に更に傷口を広げられ、血の代わりに赤い光の粒をまき散らしながら、侍女の体は大きく跳ね飛ばされて背中から地面に叩きつけられた。
一方でエレムは、牙を向いて自分に向かう蛇の頭を剣で叩き潰し、その勢いのまま、蛇の主である侍女の体を横なぎに払った。刃のない剣に脇腹を打たれ、小柄な侍女は折れ倒れた神殿の柱に叩きつけられた。意識を失ってぐったり横たわる主のそばで、頭を失った蛇が戸惑ったように身をうねらせていたが、その動きも急速に緩慢になっていった。
そして――
「この時を待っていた! 姉上よ、あなたに排された兄妹達の無念を思い知れ!」
とうとう玉座に達した若き王の剣を、女王は錫杖で受け止めようとしたようだった。だが、人心には強大な力を持っていたはずの黄金の錫杖は、実際の剣の前にはなんの力もなかった。竜の鱗のような文様と光沢を持つウーツ鋼の剣は、錫杖の柄を両断し、女王の胸を大きく切り裂いた。
「お……おのれ……」
黄金の首飾りがはじけ、神を模した白い装束が血に染まっていく。両断された錫杖の、赤い石を咥えた蛇の頭が地面に落ちる。すがるものを喪った女王は、ふらふらと数歩後ろに下がると、足を取られて玉座に座り込んだ。
「我は滅びぬ……レキサンディアは我の棺……」
「あなたは今、ここで死ぬのだ」
若き王は、剣を握った手を今一度後ろに引きながら、玉座で呪詛を続けようとする女王に向かって踏み出した。
「レキサンディアはくれてやろう。だが、あなたには棺はない。復活もない。あなたはいずれ海に溶け地に還る」
女王の目に、初めて恐怖の色が見えた。
エディトの神を信じるレキサンディアの民にとって、復活こそが死者の最大の救いだった。王は剣を握った手を後ろに引きながら、穏やかに微笑んだ。
「その代わり、死後の苦しみもない。女神レマイナは、すべての命に等しく死の権利を与えた。カーシャムはどんな咎人も、その懐に迎え入れるだろう」
その言葉の意味を、女王は理解できなかったろう。言葉と供に、若き王の剣は、女王の胸を貫いた。
レマイナとその属神の名が大陸中に広まるのは、レキサンディアの滅びから更に時を待たなければならない。
倒れたままの白い髪の侍女が、グランの姿を目に映して、唇を動かそうとしているのが見えた。だがそれが声になる前に、彼女の体全体が、赤い光の粒に包まれて霧のように散っていく。
「……時間みたいだな」
女王の最期を見届けたグランとエレムの体も、青みを帯びた銀の光が取り巻き始めていた。背後で海の水をせき止めていた大蛸も、そろそろ形が崩れはじめている。
もう動かない女王の体から剣を引き抜き、王は――シェイドは、悲しげな、しかし晴れやかな笑みで振り返った。
「ありがとう、グランバッシュ殿、エレム殿。あなたたちへの恩は、必ず遠き未来に」
「いいから、今は死ぬなよ」
「そうですよ、生き延びてください」
光に包まれ、徐々に薄れていく二人に大きく頷くと、若き王は、呆然とことを見守っていた忠実な部下達に向かって声を張り上げ、剣を掲げた。
「女王シペティレは滅びた! まだ間に合う、皆、生きてこの場を逃げ延びるのだ!」
呼応する部下達の声。彼らは駆け出した。
押し寄せる波を遮っていた水の大蛸は、形を喪う寸前に、いくつもの小さな蛸に分離して、互いの足をつないで最後の最後まで波を食い止めていた。だがそれも、やがて山のような大波に呑まれて砕け、死者の玉座とともに濁った海に溶けていった。




