49.凍れる滅国と理越の女神<1/5>
空気が、冷たくなったようだった。
浅瀬の温かい場所から、一つ深みに潜ったような、重たく冷たい“空気”が水のようにのしかかる。門から続く前庭をある程度走ったところで、肩越しに振り返ったユカが足を止めた。
「……入って、こないのですの」
ゆらゆらと揺れて伸びてきた影達は、そこに見えない壁でもあるかのように、神殿の門扉の向こう側で動きを止めている。入ってくるのを禁じられてでもいるかのようだ。
「都市の住人にとって、ここは特別な場所なのであります。自由に入れるのは、神に仕える者達と、神そのものだけなのであります」
「神そのもの、ねぇ」
グランは肩で息をつきながら、やっと立ち止まって門から広がる前庭を見渡した。
遠くから見ただけでは、背の高い壁に囲まれた箱としか言いようのなかった神殿の敷地は、思っていた以上に広く、がらんどうだった。地面は南国特有の白砂で覆われ、背の高い椰子が不規則に生えているほかは、点々とオアシスのような水場が設けられているだけだ。花と緑の壮麗な庭園を想像していたが、レキサンディアは三角州を土台にした埋め立て地の都市だから、もともと緑豊かなわけではなかったのだろう。
その広大な四角い庭の奥、門からまっすぐ南に進んだ場所に、桁違いに大きく四角い建物がある。ほかに建物がないから、あれが神殿なのだろう。建物の正面で、巨大な石柱が等間隔に並んで屋根を支えている。あんなものをどこからどうやって持ってきて、どうやって垂直に立てたものか、全く想像がつかない。
よく見れば、柱それぞれには異国の民族服を着た男女の姿が刻まれていた。しかも、多くは人間以外の動物のかぶり物をしているように見える。
その各々が、壺や剣、錫や本などを手にしている。たぶんあれは、エディト神話の神々で、それぞれの役目に応じたものを持っている姿なのだろうが、グランには知識がないため誰が誰とも判らない。
「まるで、本当に何者かを住まわせるための建物のようです」
錫杖を持ち直したヘイディアが、相変わらず淡々とした表情で呟いた。当時の人間は、実際そう思っていたのだろう。
「信仰の場である以上に、威厳を現すための場なんですね。レキサンディアの神は、人を統治する神のように思えます」
「その通りであります、歴代の王が神の血族を名乗り、神の化身を自称したのはそのためであります」
壁に浮き上がる巨大な神々の像を、シェイドは恐れる様子もなく見上げている。
砂の地面を踏みしめながら、全員は神殿に向かって歩を進めた。中庭は無人……というか、住人の影が、いないわけではないのだが、椰子の根元や泉のそばに佇む影達は、今までとはうって変わって侵入者に無関心だった。最初はおっかなびっくりだったユカも、ここの影達が襲ってこないことが判ってからは、物珍しそうに神殿を囲む壁や、神殿の柱を眺めている。
「この建物の中に、町からいなくなった人たちがいるのですの?」
「ここ以外には、考えられないのであります……」
「早くフィーナさんをお助けするのですの!」
元気なユカとは裏腹に、シェイドはどうも歯切れが悪い。もったりとまとわりつく冷たい”空気”をかきわけ、神殿の正面の階段を昇ると、扉のない内部の様子が見えてきた。
中は、まるで水を満たした水槽のように青白く浮き上がっている。入り口から真正面の所に、玉座が設けられた祭壇があり、そこへ導く通路を形作るように、等間隔に置かれた薪が鉄の器の上で焚かれている。燃え盛る炎は全部青白い色をしていて、熱を感じなかった。
祭壇は遠すぎて、誰がいるにしても、青白くかすんで巨大な玉座以外のものを認識できなかった。はっきり見えないが、周囲に満ちる雑多な気配の方が、グランには気にかかる。
燃えさかる炎の輝きに阻まれて、その後ろから壁際までをぱっと見通すことができないのだ。丸みのある細長いものがたくさん積み上げられているような、奇妙な影が壁に差しているのがおぼろに判る程度だ。しかし、神殿の内部を倉庫代わりにするのも考えにくい。
ヘイディアがいぶかしげに目を細め、エレムも壁際を確認するように、気持ち身を乗り出す。
グランは重い空気を押しわけて近くの照明に近づくと、そのひとつを壁際に向けて蹴り倒した。
器から散らばった炭だか薪だかは、床の上で変わらずに青白く燃え続けている。その炎に照らされて、近くの「丸みのある細長いもの」が視界に浮き上がった。
「これは……?!」
エレムが愕然とした様子で声をあげる。ユカは悲鳴を飲み込むように口元を押さえた。
積み上げられているように見えた細長いものは、まるで海中に産み落とされた魚の卵のように、壁際に沿って漂っていた。孵化を待つ稚魚達を包み込む透明な膜の中に、目を閉じ、胸の前で両手を組んだ人間が、横たわっている。
年齢も性別も様々で、服装も統一性がない。ただの町娘のようなものもいれば、老齢の商人、甲冑姿の兵士もいる。生きているのか死んでいるのかすぐには判別がつかないが、どれも人形のように青白く、ただ眠っているだけのようには見えなかった。
「この人たちは、いなくなった人たちですの……? どうしてこんなにたくさん」
「最近になって起きていたことではないのであります。長い間……、レキサンディアが滅びて、周囲の陸地に新たに町が作られた、その頃から既に、棺に引き込まれていたものはいたのであります。少しづつ、何百年もかけて」
『海で死んだものが出たら、その家の者はしばらく海に出てはいけない』『夜、死んだものが戻ってくるから戸をあけてはいけない』。こんなのは、どこにでもある迷信だ。だがこの近辺では、これはただの迷信ではなかったのだ。
グランから比較的近い場所に、大柄な男を包みこんだ”卵”があった。いかつい顔立ちの黒い法衣の男。グランの視線に気づいて、シェイドがかすかに首を振る。
「フィーナさんは……フィーナさんはどこですの?!」
周囲を見渡しながら、ユカが振り絞るように声を上げた。
「みなさん、死んでいるわけではないのですの? 起きてるなら目を覚ますのですの!」
「あ、おい、やたらに手を出すな」
空気をかきわけ、漂う卵達に手を伸ばそうとするユカの腕を、グランが引きとどめる。卵達は、こちらの動きが伝わったかのようにゆらゆらと位置を変え、遠ざかった。
「これが女王の力のせいなら、女王をなんとかすればいいんだろ、今は触るな」
言い切ったグランに、ユカはなにか言いかけ、結局口を閉ざした。
グランには、中のものが生きているか死んでいるかはどうにも判断がしづらかった。生きていたとしても、あの膜から出た時にどうなるのか。女王が復活に必要な力を集めるために、ギリギリのところで生かしているのだとしたら、あの膜から出てきた瞬間に事切れてしまうことだって考えられるのだ。
逆に既に死んでいるのだとしたら、膜から出してそれを目の当たりにした時の衝撃も大きいだろう。どちらにしろ、今これ以上あれらに変化を与えるのは、得策ではない気がした。
シェイドは唇を引き結んだままなにも言わない。多分、卵の中の者達がどういう状態かは察しているのだろう。しかし今追求してもなんにもならない。
「……律儀に待ってるみたいだぞ、行くぞ」
建物の遙か奥、一段高くなった祭壇を見据えて、グランは歩き出した。
 




