47.誰そ彼時、逢禍時<4/5>
空気が――重なって干渉する現実世界の水の感触が、もったりと全身にまとわりつく。駆けるというよりは、水をかきわけて進むような、緩慢な動きになってしまう。かといって、この”空気”の中を泳いだ方が早い、というわけでもない。浅瀬を飛び上がったり、あるいは段差を大きく飛び降りる分には身軽に感じるが、水の中のように体が浮くわけではないのだ。
大通りは、橋の上よりもさらに人影が多かった。多分、住人達に昼夜の区別はもうないのだろう。通りを駆ける小さな子供達の影、街路で屋台を出す腰の曲がった影、肩を組んで千鳥足で歩く男達の影、整列して巡回する兵士の影、影。
その直前までは、都市での生活をただ繰り返していたであろう住人の影達が、グラン達が近づくと、一斉に動きを止め、首だけを巡らしてこちらを凝視する。
そして、グラン達が通り抜けようとする間にも、彼らは揺らぐように形を変え、絡み合いながら、水蛇のようにこちらに向かってくるのだ。
グランは駆けながら、腰に帯いた剣を引き抜いた。細いながらも、こちらに飛びかかってきた影に向かって、横なぎに剣を振るう。
水の中で動くように、どうしても一拍遅れてしまうのだが、剣身は首を落とすように細長い影の先端を寸断した。水の詰まった革袋を切り裂くような、弾力を感じる手応えがあった。斬り飛ばされた影は、水の中の油のように漂いながら、大小の泡のように分離して、最後には空に溶け消えていった。
「なんなんだあれ、触ったらなにかあるのか?!」
「触れたことがないのでなんとも言えないのでありますが、あまりよいことはなさそうでありますよ。町はすべて、女王の一部なのであります」
「後ろからのが怖いのですの!」
肩越しに後ろを気にしながら走るユカが声を上げる。自分たちが追い越してきた影は、絡み合って互いを飲み込みながら、水蛇の集団が這うように通りを追いかけてくるのだ。そして早さが半端ない。
「とにかく、叩くしかないんですね!」
通りの先で、ゆらゆら形を変えつつある新たな影を見据えて走りながら、エレムは背中の剣を引き抜……けなかった。鞘から少し引き抜こうとしただけで、エレムの動きが、まるで後ろから誰かに襟首を引っ張られたように鈍ったのだ。
「どうした?!」
「す、すごい抵抗が……」
「息こそできますが、周囲は水の中と同じ状態のようです。『世界が重なっている』影響かと」
ヘイディアはいつの間にか錫杖を逆に持ち替え、本来は地に付ける先端部分を杖のように振り回し、追いすがる影を叩き潰している。細い棒なら、水の中で動かしてもあまり抵抗を受けないのと同じ理屈なのだろう。幅広の剣を担いでいるエレムでは、走りながら剣を抜くこと自体が一苦労だ。
「追い風を起こそうとしているのですが、風が動かないのです」
「見えないだけで、やっぱり水の中と同じなのですの?!」
それまできゃあきゃあいうだけだったユカが、目を輝かせた。首にさげた菱形の『法具』の中央、埋め込まれた青い石に手を触れる。グランの髪に必死に捕まっていたチュイナが、反るように身を躍らせた。
グランから離れたチュイナは、飛び上がりながら形を変え、大きくなっていく。菱形の座布団に尻尾がついたような、魚とは思えない大きな体。エイだ。
人間の子供ほどの背丈まで大きくなったエイ――チュイナは、そのまま中空で身を躍らせた。
その周りから新たに水の塊が生まれて、それがみるみると同じエイの形に姿を変えていく。自分たちには濡れた感じはないが、確かに周囲を満たしているのは水のようだ。
最初のチュイナほど大きくはないが、エイの子供達は生まれるそばから幼児ほどの大きさになり、群れをなして迫る影達に向かっていく。体当たりを受け、伸びる影達の頭は蹴散らされ、泡のようにはじけ飛んだ。
「効いてるのですの!」
ユカが歓声を上げる一方で、
「――だめだ、戻せ!」
「えっ?」
とっさによぎる嫌な感覚に、グランは声を上げた。同時に、
エイの子供達に蹴散らされ、そのまま泡のように霧散すると思った影が、飛び交うエイ達の周りを押し包んだのだ。
それまで透明だった、水でできたエイたちが、影を吸い込むように黒く色づいていく。黒くなったエイは、まだ透明なエイの群れに向かって、集団で体当たりを始めたのだ。
「ええ? どういうことですの?!」
「ここは女王の領域なんですね、魔力や生命を持ったものはあれに触れてはいけないんだ!」
要塞の地下でリノに言われたことを思い出し、エレムが叫ぶ。
海草のようにゆらめいていただけの影達の一部が、魚の形を持ってしまった。このままでは容易に追いつかれてしまう。巨大なエイに姿を変えたチュイナが、怯んだ様子でユカの横に舞い戻ってきた。
「あいつらの形を解け、早く!」
「言うことを聞かないのですの!」
ユカは必死で走りながら片手を『法具』に添えているのだが、まだ透明なままのエイは消えていくのに、黒くなってしまったものはいうことを聞かないらしい。それまでグランの反対側で剣を振るっていたシェイドが、左手を懐に突っ込み、なにかを後ろにばらまいた。
ばらまかれた一握り分の小さな黒い石が、背後から追いすがる黒いエイや影達に触れて、閃光を放った。
光の爆発に巻き込まれ、伸びた影と、黒いエイ達が霧散していく。巻き込まれなかったものも、光に怯んだ様子で動きを鈍らせている。
「こんなの初めてですの、あんなのどうすればよいのですの」
「俺が知るか! とにかく走れ!」
さっきまでの勢いが一転、情けない声を上げているユカを、グランが叱咤する。ヘイディアは追いすがる影を錫杖で蹴散らすのに手一杯で、声を出す余裕もないらしい。
どうやら連中を蹴散らすには、ものを使った単純な打撃攻撃か、シェイドの使う光の術くらいしか効果がないらしい。しかし、ただ殴っているだけでは、霧を散らしているような一時的な時間稼ぎにしかならないようだ。
「ちまちまと面倒くせぇ」
グランは横から海草のように伸びてくる影を裂きながら、大声を上げた。後にいるユカとヘイディア……ではなく、左の肩越しの中空に向けて。
「キルシェ、ついてきてるなら出てきてなんとかしろ!」
「えっ?」
「やだぁ、ばれてたの」
剣を抜くに抜けず、走りながらあたふたしていたエレムも、驚いて声のした方向に目を向ける。グランの左肩近くに光の法円が展開し、それこそ蜃気楼のように揺らぎながら、薔薇色の髪の娘が足先から姿を現した。
「うるせぇぞ、これ見よがしに気配だけちらつかせやがって。なにが目的か知らねぇが、いるならちょっとは役にたちやがれ」
「面白そうだから見に来ただけなんだけどぉ」
泳ぐ、のではなく、浮いたままグランの斜め上を飛んでいるキルシェは、グランに睨まれて渋々と、
「しょうがないなぁ、まっすぐに風の通路を作るから、しばらくはそこを走るといいわ。ただ、急がないとすぐに周りの水に押しつぶされるわよ」
「えっ? どういうことですの??」
キルシェは説明の代わりに、前方に指を伸べた。グラン達が駆け抜けようとしている通りの先に、光で描かれた巨大な法円が現れた。
空中に立てかけられたガラスに、光のインクで線と文字が描かれていくような、相変わらず理屈を超えた現象だ。近くを漂っていた影達が、光に驚いて身をすくめ、わらわらと離れ始めた。




