46.誰そ彼時、逢禍時<3/5>
小さな島を一杯に使った要塞跡の建物。波が高くなっても建物の中に水が入り込まないように、正面の入り口は半階分ほど高い場所にある。その入り口にかぶるように、レキサンディアの象徴であったファボス大灯台へ続く幅の広い階段と巨大な扉が、淡い緑色の幻として浮かび上がっている。
自分たちが踏みしめているのは現実世界の、クァイト要塞跡の建物へ続く階段のはずだ。しかし、一段一段を上っていくごとに緑の線で描かれた灯台の階段は姿をはっきりと現し、逆に自分たちの今いるはずの石造りの階段が、溶けるように淡くかすんでいくような気がする。
要塞跡の入り口と、灯台の入り口が溶けるように重なり合うその直前まで歩を進め、グランは大きく息を吸って振り返った。
「こいつは……」
目の前に広がるのは、北のメルテ川河口に向けて少しづつ細まってゆく内海と、それに寄り添うラレンスの町、ではなかった。そこには、どんな大型船でも苦なく停泊できる巨大な港、そして織物の目のように東西南北正確に区分けされ、内海を塞ぐように横たわる広大な都市があった。その背後には、内海ではなく左右を山に囲まれた平野が広がり、その中央を割くように伸びるメルテ川が内海に流れ込んでいる。
星の川を抱く鮮やかな夜空の下、翠玉色に縁取られた巨大な街が鮮やかに浮かび上がっていた。小高い島の上にそびえる灯台の麓からは、町全体がよく見えた。目をこらせば、港で作業する水夫や、賑やかに通りを行き来する住民達も見えそうな気がした。
「これが……古代レキサンディア……?」
「とっても広いのですの。今まで見てきた町を全部並べても全然余りそうですの」
唖然としているエレムの横で、ユカが乏しい見聞を材料にして必死で都市の広さを測っている。
「……シェイド殿、女王がいるのはどのあたりでございますか。王宮でしょうか」
「女王は、シース神殿の玉座にいるはずです。自らが神であるのだから、人間の玉座など取るに足らないものなのであります」
ヘイディアの問いに答え、シェイドが指を伸ばす。港を囲むように突き出した堤防の南端、四方を背の高い石壁が覆う四角い建物へ。
灯台のある島から、都市へ向かって細長い橋が伸びている。一旦これを使って都市に入り、市街地を通らないと自分たちはあの建物にはたどり着けない。
グランは改めて夜空を見上げた。まだ月はない。これが現実の夜空と連動しているのであれば、月の出は自分たちに有利に働くだろう。しかし、ここが女王の支配する世界であるのなら、過度な期待はしないほうがよいのかも知れない。
「すごいですね、大灯台もそうですが、レキサンディアの大図書館も、歴史上の大きな謎と言われてるんですよ。ここではそのまま残ってるのかなぁ」
最初の驚きがおさまると、エレムは興味ありげに背後の大灯台を振り返っている。灯台は巨大すぎて、上まで見上げようとすると寝転んだ方が早いくらいだ。
「残ってたとしても、女王が役に立てる気がなさそうだな。死者に学問は要らねぇだろ」
「もったいない話ですよね……」
「そんなことより、早くフィーナさんをお助けにいくのですの!」
一見呑気にも見える二人のやりとりに、しびれを切らした様子でユカが声を上げる。
「シェイド様、連れてこられた人たちは、どこにいるのですの?」
「女王と同じ、神殿内部にいると思われるのですが……」
「では早速向かうのですの!」
シェイドが言いにくそうに語尾を濁したのには気づかなかった様子で、ユカは元気よく右腕を振り上げた。なんにしろ、ここで立ち止まって町を眺めていても仕方ない。グランは先に立って、橋へ降りる広い階段を降り始めた。
それが、数段降りたところで、
「……なんだ?」
足下の感覚が変わった。
波打ち際から海の中に入っていくような、重さをまとった浮遊感。体自体は軽く感じるのに、手足は水の抵抗を受けたように動きが鈍い。
「……水の中、ですの? でも、苦しくないのですの」
「要塞跡の建物の中で一瞬見た幻の中でも、こんな動きになりました。重なって存在する、現実の世界の影響でしょうか」
「そうであります、現実では、ここは既に海面下であります」
水が目に見えるわけではないが、それなりに影響を受けるらしい。水と言うより、時間が全身にまとわりついているような、奇妙な感覚だ。ユカの頭から離れたチュイナが、ふわりと踊るように空中に飛び上がり、すいすいと泳いでグランの髪にしがみついた。元々水でできているから、水の中での動きはどうやらチュイナが一番早いようだ。
「すごいのですの、背中に羽が生えたみたいですの」
さっきまでの勢いはどこへやら、今度は体の軽さを楽しむように、ユカが大きく階段をはね飛ばしながら後についてくる。確かに走るよりも効率が良さそうではあった。
町へ続く橋の上に、所々立っている朧な人影がある。もとは警備の兵士だったなにか、だろう。翠玉に輝く町の中で、形のはっきりしない影が、たぶん町が消滅する直前の状態を繰り返しているのだ。住人でも兵士でもない自分達が橋の真ん中をつっきっているのに、こちらには関心を示さない。町の形も、港に停泊する船も、形ははっきり見えるが、それを世話し、使っているはずの人間達の姿は皆、ここではただのおぼろな影だ。
「死者の国……なんですね。いや、みんな影みたいだ」
「都市自体は死に絶えているのに、思いだけが取り残されているのであります。棺の中では時はほぼ止まっているので、消えることもできないのであります」
シェイドはすれ違う影達を哀れむように眺めている。続くヘイディアは、驚いてはいるのだろうが、相変わらず表情に乏しいため、どういう感想を抱いているかまでは読み取れない。
「神殿へは、大通りへ出て、東へ向かうのが早いと思われます。都市は計算されて造られておりますが、路地裏は市民達が生活のためにいろいろ手を加えていたので、袋小路も多いのであります」
「上から見ると、この街も網の目のように道路が正確に敷かれていましたね。まるで古代人の都市のようです」
「古代人とは、この大陸の、先住者でありますね」
素朴な感想を述べるエレムに、シェイドも頷く。
「南大陸にも、エディト以前に高度な文明を擁していた国があったという伝説が、数多くあります。人間は、長い時間をかけて繁栄と衰退を繰り返しているのでありましょうな」
言っている間に、彼らは灯台の階段を降りきって、両側に黒々とした海を望む堤防を駆けている。
堤防の上では、整列して巡回する兵士達や、縁に腰掛けて雑談しているような水夫達の影と行きあった。もし話ができたら、当時のことがいろいろと聞けるのかも知れないが、彼らは皆、グラン達には無関心だ。堤防の西側、小高くなった陸とその海岸線には当時のレキサンディアにはなかったはずのラレンスの町が、松明の灯りに照らされて陽炎のように浮かび上がって見えるのだが、影のような住人達には見えていないらしい。
都市は、港湾部以外のすべてが背の高い市壁におおわれている。細い橋の先には、巨大な石造りの門扉があり、その両脇に、監視の兵士らしい影が、槍のようなものを手に立っている。夜間なら門扉はすべて閉じられそうなものだが、灯台と行き来するものがあるのか、橋から通じる門だけは開け放たれていた。
警備の兵士は、灯台に荷を運ぼうとしている人夫を誰何しているようだ。近づくグランたちにはやはり関心を示さない。はっきりとした形自体がないから、ひょっとして、触ることもできないのかも知れないが、さすがにちょっかいを出すのはためらわれた。
グランとエレムは、先に立つシェイドに目を向けた。シェイドは黙ったまま頷きかえす。
グランは素知らぬ顔で、門を通り抜けようと一歩踏み出した。
そのとたん。
空気ががらりと変わった。
今まで、こちらにはなんの関心も払わなかった「住人」たちの影。堤防に腰掛けて話し込む水夫、巡回する兵士、門に立ち通るものを誰何する衛兵と、誰何される人夫、そのすべてが。
ぐるりとこちらに首の向きを変えた。
なにもない、ただ虚ろなだけの黒々とくぼんだ目が、一斉に、都市に入ろうとするグラン達に集中した。本能的に察するものがあったのか、後ろのユカが身をすくめる。
「やっべ、走るぞ!」
影たちは水底の海草のように、ゆらゆらと形を変え、近くにいたものと絡み合いながら体そのものを大きく伸ばし始めた。その動きに追われるように、全員は門をくぐり、その先の大通りに向かって駆けだした。




