37.継がれし世界<4/5>
「そうそう、兄さん」
見上げると、通風口の蓋を半分閉じた形で、リノが天井裏からこちらを見下ろしている。すばしっこい奴だ。
「夜と、海の中は、相手の領域だよ。気をつけて」
「どういうことだ……って、おい!」
グランの呼びかけには答えず、リノはひらひらと手を振りながら通風口の蓋を閉じてしまった。天井裏の気配があっというまに遠ざかる。グランはため息をついた。
「何だってんだ一体」
「……海の中、ですか」
エレムは考えを巡らすように、顎に手を当てている。
「この階は、もう海面下って言ってましたね。さっきの幻を見たのも、この階に降りる直前でしたから……」
グランはいくらか寒気を感じて、階段の方向を振り返った。相手が何者かは判らないが、あの幻は、自分たちの領域にグラン達が入ってきたと同時に現れた、ということなのか。
「陸地と海中の、接点ってことか……。いや、もちろん相手が文字通りの海の中にいる訳じゃないんだろうが」
「そうなると、いなくなった人たちがここを目指していたのは、相手にとって意味があることなんですね」
重なって存在するいくつもの世界。そのうちの一つを支配する何者かが、自分たちの影響力の強まる場所まで誘導して、選んだ人間を自分たちの世界に引き込んでいるのだとしたら……。
「長居は無用って感じだな。さてどうするか」
「シェイドさんからは一度きちんと話を聞いた方がよさそうですね」
シェイドは、「フィーナらしい後ろ姿を追いかけたが、すぐ見失って、そのあたりをしばらく探していた」と言っていたのだ。港まで出たとは言っていなかった。
一方で、シペティレが通説通りの賢明な女王ではなかったかもしれないと、話していたのもシェイドだった。
カーシャム教会から、この町の騒ぎに関する調査と、町の人間の不安の矛先になっているアンディナ教会の神官達を護衛するために遣わされてきた、と言っていたが。
「とにかく、ここを見終えたら、一度戻ろうぜ。ルスティナ達が、エディト神話に関して話を聞いてるはずだろ。またなにか新しい情報があるかも知れない」
「そうですね」
エレムは頷き、自分たちの周囲を改めて見回した。燭台の明かりが薄れる部屋の四隅の暗がりから、何者かが伺っているような視線を感じるのは、たぶん、気のせいではないのだ。
※
「いろんな絵がたくさんありますの。色がたくさんついてますの」
「色がいろいろなのですー」
壁に掛けられた大きな絵を見上げ、目を白黒させるユカと一緒に、ランジュがくだらないだじゃれのようなことを口走っている。リオンは冷ややかに何か言いかけたが、ルスティナの手前、口にだすのはやめたようだ。
グラン達が要塞跡のある島に出向いている間、エディト神話について解説できる者を、博物館側がつけてくれるという。子ども達もいることだし、一階を見学しながら話を聞くことになったのだ。同じ建物の解説員でもそれぞれ専門があるらしく、今付き添っているのは、中年の実直そうな男だ。
オルクェルは名残惜しそうながらも、グラン達のことを衛兵に伝えるためにまた去ってしまい、今案内を受けているのは、三人の子供達と、ルスティナだけだった。
「レキサンディアは、学者や建築家だけでなく、芸術家や哲学者を多く輩出していた国でもありました。この絵の作者ドミニクは、ファマイシス王朝初期の芸術家アルカヌスの再来と言われるほど、高い評価を受けております」
「都市は滅びても、精神は脈々と受け継がれてきたのであるな」
「この絵の題名は、『一角獣と乙女』なのに、女の人しかいませんよ? なにか意味のある題名なんですか?」
「あ、ああ、それは……」
リオンの他意のない質問に、案内役が困った様子で言い淀み、なぜかルスティナに目を向けた。ルスティナは穏やかに微笑むと、
「そういえば、この絵も気になっていたのだ。これは、女王シペティレを描いた絵であるようなのだが」
ルスティナが指を伸ばした先には、蛇をもした冠をかぶった女王と、それに寄りそう二人の侍女が描かれた絵がある。
「は、はい、左様でございます。女王に当時謁見した異国の商人の手記の中に、比較的詳細に、そのときの光景を記述したものがございます。ドミニク氏はそこから発想を受けたようです」
「では、この白い髪の娘は、当時本当に女王に仕えていた侍女であるのか」
「はい、手記の中に、女王が特に気に入っていた二人の侍女、イラスとカルミオンについて記されているのです。特に詳細に書かれているのが、雪のように白く輝く髪と、夕陽のような赤い瞳をもった侍女カルミオンです。カルミオンはその聡明さで、女王を常に支えていたとのことでした」
「白い髪と赤い瞳……であるか」
ルスティナがわずかに険しい表情を見せる。案内役は不思議そうにその横顔を見返したが、
「あの赤いのは食べ物ですかー?」
いつの間にかルスティナの横にやってきたランジュが、シペティレの絵を指さした。
「赤い……?」
「へびさんが食べようとしていますー」
女王の手にある錫杖の頭は、蛇を模したものだ。その蛇は、大きく口を開け、自分の頭ほどに大きな赤い石を、上下の牙でくわえている。
「ああ、ファマイシス王朝の崇めていたエディト神話に由来しています。エディト神話の主神である生産の神アウセルの象徴が、太陽石と呼ばれる紅玉だったので、王族は装飾品の多くに太陽石を用いていました。特に王冠や儀礼用の杖や剣などには、上等の太陽石が用いられました」
「……しかし、その神の象徴の石を、蛇にくわえさせるとはどういった理由であるのかな」
「エディト神話では、蛇は永遠の象徴であったそうです。別の、代々の王に関する記録では、王尺は、蛇の額に太陽石が輝く意匠であったとあります。この絵は、記録者の誤った記述を、そのまま絵にしたものであろうかと」
「ふむ……」
ルスティナは自分の顎に指先で触れながら頷いた。ランジュは食べ物ではないと判った瞬間に関心を失ったらしく、ふらふらと別の絵の前に歩いて行ってしまった。




