35.継がれし世界<2/5>
グランは反射的に剣の柄に手をかけた。だが体の動きは、水の中のようにもったりしている。
一方で、蛇は鋭く首を巡らせ、グラン達を見据えた。持ち上げた首を一瞬すくめ、それを反動にして、水を割いて泳ぐ魚ような勢いで、蛇の頭が急速に近づいてくる。船一つ容易に飲み込みそうな大きな口が開かれ、牙がのぞく。避けようにも迎え撃とうにも、こちらの動きは重く緩慢で、おいつかない。
突然、目の前で大きな光がはじけた。
まっしぐらにこちらを目指していた蛇が動きを止めたのが、光に塗りつぶされた視界の向こうでかすかに見え――
「おうぁ?!」
がくん、と右のかかとが落ちるような感覚に、グランは思わず声を上げた。後ろで、べたんと手のひらが壁を打つような音がした。均衡を崩したエレムが壁に手をついたのだ。
「ど、どうしました」
上の階にいた衛兵が、戸惑った様子で踊り場から声をかけてきた。階段の途中で、大の男が二人、揃ってめまいでも起こしたような格好で体勢を崩したのだ。驚かないわけがない。
「な、なんだ、今の……」
さっきの光景はそれこそ幻のようにかき消え、グランは柄にかけていた手を離し、額を押さえた。エレムも夢から覚めたばかりのような顔で、壁に手をついたまま目を白黒させている。
「グランさんも、見えたんですね。あれは一体……」
階段の先に広がるのは、当然ながら、上の階とさほど変わらない、石壁の通路だ。今の現象は一体何だったのか、突然始まって突然途切れてしまっただけに、意味がまったく判らない。
声をかけてきた兵士には気にするなと片手を振り、グランは階段を降りきった……ところで、つま先になにか当たった気がして床に目を向けた。
同時に、グランの肩から小さな影が飛び降りた。
グランの髪に隠れていたチュイナが、水跡を残しながら床を駆け、すぐに動きを止めた。
古い床石の上に転がる、くすんだ色の小さな小さな石を鼻先でつついている。
ただの小石かと思ったが、燭台の炎を反射して表面が鈍く輝いている。床や壁が欠けたものとは違うのがすぐに判った。
グランはかがみ込んで手を伸ばし、小石をつまみ上げた。その腕に飛び乗ったチュイナが、素早く肩まで駆け上がり、グランと一緒に小石をのぞき込むように首を伸ばした。
爪の先ほどの大きさの、灰色の石だ。完全な丸ではないが、水際の砂利のように角がない。
「なんだこれ……ガラスか?」
「水晶ですね、煙水晶かな……あれ、ヒビが入ってますけど」
確かによく見ると、丸い石の中央に、亀裂が入っているのが判る。グランは近くの燭台にそれをかざしてしばらく眺めていたが、階段の上からさっきの兵士が不安げに様子を見ているのに気づき、小石をポケットに突っ込んで歩き始めた。腑に落ちなそうな顔で首を傾げていたエレムも、遅れて後をついてくる。
なんだかこの階は、上の階とはまったく違う雰囲気に思えた。
上の階より、だいぶ天井が低くなったせいで、圧迫感があるのだろうか。更に地下に降りたから、湿気が強まったのだろうか。しかし目に見える壁や床は、上の階と特に変わったところがない。
時折すれ違う衛兵達にもおかしな様子はない。だが、どうも部屋の隅や物陰から視線を感じるような気がして落ち着かないのだ。エレムも釈然としない様子で、頻繁に首を巡らせている。
ひととおり見終わった最後の部屋も、ゴミ以外はなにもなかった。もちろん、衛兵以外の何者かが潜んでいられるような場所もない。
「やっぱり、特に変わったものはないですねぇ」
エレムはため息のように言いながら首を振った。言いながらも、寒気を払うような仕草で自分の腕を撫でている。
「……なんだったんでしょうね、さっきの」
「うーん」
いなくなった者達の手がかりを探しに来たはずなのに、それらしいものは全く見当たらず、逆に新たに不可解なことに遭遇してしまった。なにをどう考えればいいのかさっぱり判らない。形だけは視線を巡らせながら、グランが途方に暮れた気分で首をひねっていたら、
「お困りのようだねぇ」
「うゎ?!」
いきなり背後から声をかけられ、グランは思わず剣の柄に手をかけながら振り返った。エレムも同じように振り返り、跳ねるように飛び退いた。
まるで天井からからにょっきり生えたような形で、逆さまのリノが人なつっこい笑みを浮かべている。
いや、よく見ると、天井に四角くあいた穴に、膝を引っかける形でぶら下がっているのだ。
「な、なにやってんだよ! キルシェといいお前といい、揃って心臓の悪い出てき方をするな!」
「"揃って”ってなによ? おいらはお宝の匂いがするから探ってただけよ?」
くるりと身を翻して飛び降りたリノは、服についたほこりや蜘蛛の巣を払いながら、心外そうにグランを見上げた。
「なんでかキルシェの姐さんと同じ枠に入れられてるみたいだけど、おいら魔法使いでもなんでもない、ただの人間だからね」
「ただの人間は、自分を『ただの人間だ』なんて言わねぇよ」
ブツブツ言いながら、グランはリノが降りてきた穴を改めて見上げた。よく見ると、四角い格子の蓋がずらされているのが判る。この階の天井が上の階よりも低く感じるのは、天井裏に通風口が作られているからのようだ。
「お宝って、まさか、灯台下に埋まっているという財宝でも探しに来たんですか」
「あー、その噂知ってる知ってる。大灯台の地下には、ファマイシス王朝の財宝が隠されてるって伝説でしょ。いいよね、浪漫だよね」
リノは明るく笑う。冗談なのか本気なのかよく判らない。
「ありえなくはないよ、もし大灯台の地下に隠し階があったんだとしたら、このずっと下に埋もれてるはずだもの」
「だって、この要塞跡は灯台の瓦礫でできてるんだろ? 下に何かあったら、要塞建てたときにとっくに見つかってるんじゃねぇ?」
「そうだけど、そもそも、レキサンディアって、大波に飲まれただけじゃなく、土地全体が沈下して、結果的に海の底になっちゃったわけでしょ? 今残ってる陸地部分だって、昔はもっと高台だったはずだよ?」
とっさに意味が飲み込めず、グランは首をひねった。後ろで話を聞いていたエレムが、
「つまり、この島も、昔はもっと広くて大きかったってことですね。都市一帯が沈下したとしたら、この島だってある程度沈んでいるはずで……」
「そゆこと、今は地下二階から下は海面下になるんだけど、当時はこの場所も、地下だけど海面よりは上にあったはずだよ。そもそも灯台って、高い場所に作るでしょ」
言いながら、リノは足下をつま先でつついた。
「灯台自体が崩れちゃった上に、土台になってた島も大きく沈んでる。要塞を作るときも、瓦礫を全部よけて地下深くまで探ることはできなかったろうね。かといって、今更この建物の地下を更に掘り下げて遺跡の発掘とか、この町の財政じゃ無理でしょ。空洞でもあればキルシェ姐さんなら転移の魔法で行けるんだろうけど、おいらは普通の人間だからね。潜り込める隙間がないところまでは見に行けないのよ。いろいろ探ってたけど、地下への隠し通路みたいなものはなさそうなんだ、悔しいよねぇ」
もちろん、口で言うほど悔しそうには見えない。リノはカラカラと笑うと、
「魔法と言えば、さっき、階段の方が騒がしくなったのを感じたけど、なにかあった?」
その問いにこちらが答える前に、リノが何かに気づいた様子で目をぱちくりさせた。
「兄さん、面白いもの持ってるね。キルシェの姐さんが扱うのとは別の系統の道具だ。どうしたの、それ」
「なにをだよ」
「その、ポケットに入ってるやつよ」
グランは思わずエレムと目を見合わせた。さっき何気なく突っ込んだ、煙水晶の玉をポケットからつまみ出す。
「階段の下で拾ったんだが、なんだ、これ?」




