20.月と共に去りぬ<1/6>
「ユカさんは、私よりも年下なのに、大変な経験をされてきたんですね」
食堂の窓際に向かい合う長椅子で話を聞いていたフィーナは、ひととおり話し終えたユカに、同情的な相づちをうった。ヘレナも感銘を受けた様子で、何度も大きく頷いている。シェイドも今は食堂の椅子に座り、飽きた様子もなくユカの話に耳を傾けていた。
「アンディナが真の道を示されたというなら、ぜひお役に立って差し上げたいものです。……そういえば、フィーナ、サイスの町はどのような様子でした?」
「ええ、あちらの町はここよりもずっと大きくて、賑やかです。カーシャム教会建屋のあたりは、町外れなこともあってもあってひっそりしていましたが、レマイナ教会は港の近くにあります。この街よりも大型船がたくさん寄るので、異国の方もひっきりなしに祝福を受けにいらしてました」
「まぁ」
「カーシャム教会の神官は、強いだけでなく、みなさんとてもお優しいのです。……そういえば、カーシャム教会でお手伝いをしている方に、シェイド様のお話も聞きましたよ。大きな体なのに、とっても小食なのがおかしいでしょう、それに、漁師の方がお魚を持ってくると、自分は可哀想だから食べられないって涙目でおっしゃるって。そういう所が可愛らしいって」
「え、そ、そうでありますか」
突然自分の名前が出てきて、それまで聞き役に徹していたシェイドは驚いた様子で顔を上げた。
「そ、そんなことを言ったでありますかなぁ。確かに魚を捌くのを初めて見たのがサイスの町の建屋に所属になった時だったので、あんなに色鮮やかで美しいものを食べるのには抵抗があったのでありますが、すぐに平気になったのであります。よっぽどその時の印象が強かったのでありますかねぇ」
「そうですよね、シェイド様、ここでもなんでも食べてくださいますし、小食そうにも見えませんもの」
ヘレナに言われ、シェイドは恥ずかしそうに頭を掻いている。ユカも不思議そうにシェイドを眺め、
「それに、そんなに大きな方には見えないのですの。エスツファ様など、グランバッシュ様の倍くらい大柄なのですの」
「エスツファ様とは、ルキルア軍の偉い方という話でありましたよね。さすが軍人さんは鍛え方が違うのでありますね」
「でも面白くて親切な方なのですの。ルスティナ様はとってもお綺麗でかっこいいのに、ちょっと天然なのですの」
「ユカ殿は、自分などより、いろいろな知り合いがいらっしゃるのですなぁ」
シェイドは心底感心した様子で話を聞いている。同じように穏やかに聞いていたヘレナが、シェイドの椀に茶を継ぎ足そうとして、持ち上げた陶製の水差しの中をのぞき込んだ。
「あら、からになっておりました。お茶を入れ直して参りますわね」
「あっ、ヘレナ様、厨房は暗いですわ。私が」
「でも……」
ヘレナは、弾んでいる話を中断させるのを躊躇しているようだ。だがフィーナは有無を言わせず腰を上げた。
「……お兄さんの一件から、ずっとあの子はふさぎ込んでいたのですけど」
厨房に消えていくフィーナの背を見送ると、ヘレナはユカに微笑んだ。
「こんなに明るくおしゃべりする姿を見るのは久しぶりです。ユカさんが来てくださったおかげかしら」
「そうでありますね、ユカ殿から元気を頂いているようであります」
ユカはうまい返しが思いつかなかったらしく、こそばゆそうに手をもじもじとさせた。ヘレナが続けてなにか言おうとしたところで、玄関のあるホールから、コツコツと叩き金の音が聞こえてきた。
「おや、剣士殿がお戻りでありますかな。自分が見て来るのであります」
シェイドが立ち上がり、ランプ片手にホールに出て行く。会話の切れ目ができて、残されたユカとヘレナは黙り込んだ。ユカは間をつなぐように、
「……ほんとの所、海で死んだ方が帰ってくるって言うのは、この町でどれだけ噂になってるのですの? 町の人はそんなに怖がっているのですの?」
「そうですね……こうした港町ですから、昔から似た話はあるのです。ある方の命日にその家の扉を叩く者があったが、見に行っても誰もいなかったとか。夜釣りの者がすれ違った船に挨拶して、あとから良く考えたら何年前に亡くなった某だった、とか。そんな話は、割とございます」
フィーナが席を外しているせいもあり、ユカの遠慮のない質問に、ヘレナは率直に答えた。
「身内の誰かが海で亡くなると、しばらくその家の者は海に出てはいけない、というしきたりもあります。そうした恐れから町の人たちは、今起きている失踪騒ぎを、海で死んだ者と結びつけて考えているのだろうと思います」
「そうですの……」
「お年を召した方は、自分の身内が帰ってくるのなら悪いことはしないだろうって、どっしりと構えてらっしゃる人が多いのです。騒いでるのは、面白半分の人が多いように思えます。……でも、それとは別に、亡くなった懐かしい人にもう一度会えるのなら、どんな姿であっても会いたいとも思う方もいるようです。あのフィーナのように」
「それも、判る気がするのですの」
「ユカさんも、ご兄弟がいるなら大事にしてあげてくださいね」
フィーナを気遣うように厨房の扉を眺めながら、ヘレナは独り言のように続けた。
「今日は元気でも、明日はなにがあるか判らないものです。亡くなってからではなにも聞けないし、伝えられないのです」
「……」
ユカは返答に困って、ヘレナから目をそらした。立ち上がり、開け放たれた窓から身を乗り出すようにベランダの外に広がる空を見上げる。
細い月がちょうど、東の山並みから顔をのぞかせようとしているところだった。月のない夜にやってくる何者かの話は、やはり無責任な噂話に過ぎなかったのだろう。
海からの風でそよぐ庭の草木の影の上で、星が空からこぼれそうに瞬いている。山の上でひとり、うんざりするほど眺めたはずなのに、やはり星空は見るたびに改めて美しい。
『アヌダ』から予言された使者達が現れてから、ずっと慌ただしくて楽しくて、寂しいと思う暇もなかった。でも、兄弟姉妹達はどうしているだろう。自分のことを少しは思い出すことがあるのだろうか。
思わずしんみりしかけたユカは、窓からの風に乗って強い潮の匂いが鼻に触れたのに気づいて、意識を現実に引き戻した。
風が木の枝を揺らすのとは違う、重さのあるものが草を踏むような音が、庭から聞こえてくる、気がしたのだ。
目をこらして庭の暗がりを見つめるユカの眼前に、ぬっと白いものが顔を出した。
うつろな二つのくぼみ、むき出しの歯。軟骨が失われ、平べったくへこんだ鼻。
ユカは悲鳴を上げた。




