19.【間話】皓月将軍と白角の王<5/5>
真っ白な体に、美しい金のたてがみ、獅子の尾を持つ美しい馬。そしてその額には、大理石のように美しくも鋭い一本の角が生えている。
「ああ、確かに描かれていた一角獣であるな。なるほど、実際見るとまた美しいものだ」
ルスティナが今になって納得いったようで、感嘆の声を上げる。ジェームズ……だった一角獣は、あっけにとられた様子でルスティナを見やったが、すぐに首を振ってグランを睨み付けた。頭を低め、角の先をまっすぐにグランに向けている。
「せめてひと突きで殺してやろう、我が慈悲に感謝するがよい!」
馬の口でどうやって人語を発しているのか判らないが、言葉と共に一角獣は後ろ足で地を蹴った。間にあるテーブルを踏み砕きながら、グランに向けてまっしぐらに突き進んでくる。かごにもられた果物が飛び散り、水差しが割れ、金銀の細工を施した皿が破片となって一角獣の前に道をあける。
グランは剣を抜きながら、馬の進路を避けるように右斜め前に踏み出した。すれ違いざま、ジェームズの眼前で銀光が一閃する。
硬い音がして、なにかが宙に跳ね飛んだ。
獲物をしとめ損ねても、馬は急には止まれない。いくらか行きすぎたところで足を踏ん張り、大きくこちら異向きを変えたジェームズと、剣を片手にふり返ったグランの間の地面に、
ジェームズの額から切り離された長い角が、ぼとりと地面に突き刺さった。
一人と一頭の間を、夜の気配を含んだ森の風が吹きすぎていく。
「そ、それは……」
ジェームズは、細長い目を寄せるように、自分の眼前を見やった。地に突き刺さった角と、自分の額を見比べたその顔が、みるみる青ざめていく。
「わ、私の角が……角が……」
「まだやるか?」
グランは眼を細め、剣を持ち直した。
「次は首が飛ぶぞ」
「ひっ……化け物……!」
ジェームズは白い全身をまっ青にするくらいの勢いで、恐怖のこもった悲鳴を上げた。
グランがあっけにとられているうちに、あたふたと向きを変え、泉に続く小径に向けて一目散に駆け去っていく。
「……自分こそ馬の化け物じゃねぇか……」
グランは疲れた気分で剣を納め、地面に突き刺さった角を引き抜いた。動物の角は骨が変化したものだというが、これは全体が大理石のようになめらかで美しい。
「さすがグラン、鮮やかな手並みであった」
ルスティナが、心底感心した様子で軽く手を叩いた。馬が踏み散らかしてしまったせいで、豪華な宴席は嵐の後のような惨状になってしまったが、まったく動じた様子がないのもいつも通りだ。
「……あんたもさぁ、絵を見てたら突然別の場所に出たんだろ、もう少し警戒しろよ。あんなのと一緒になって話し込んでるんじゃねぇよ」
「そうだな、どうにも現実味がなくて、ついジェームズ殿の招きに応じてしまった。不用心であったな」
ルスティナは反省した顔つきで頷くと、
「でもきっと、グランが気がついて来てくれると思っていた」
「なんでだよ」
「なんとなくだ」
もう突っ込む気にもなれず、グランは大きくため息をついた。吹き抜ける風がひんやりしていることに気づき、空を振り仰ぐ。
周囲にはランタンが灯っているので気がつかなかったが、すっかり空は夜の色が濃くなり、星が瞬き始めている。
「ああ……日が沈んじまったのか」
「絵の中の世界でも、夜になるのだな」
ルスティナも空を仰ぎ見る。
日没に間に合うように時間をとってきたのに、あの馬のせいで間に合わなかった。目に見えてがっかりした口調のグランをルスティナは不思議そうに見上げたが、すぐに周囲を見渡し目を細めた。
「木漏れ日の中の森も美しかったが、夜は夜でまた美しいものだ」
木々の所々にかけられたランタンが淡く辺りを照らして、宴席の惨状をのぞけば、今の森の姿は妖精の国のように幻想的だ。
「世の中には、不思議で面白いものがまだまだたくさんあるのだな。かような風景が見られるなど、これもグランの……『ラグランジュ』のおかげかな」
「ええ? 今回は俺らのせいじゃねぇだろ」
いや、厄介事を呼ぶという点では、これも『ラグランジュ』の作用なのか? 微妙な顔つきになったグランを見て、ルスティナはくすくすと笑い始める。
「……まぁいいや、戻ろうぜ」
グランは右手に角を持ったまま、曲げた左腕をルスティナに差しだした。ルスティナはいくらか首を傾げたが、わずかに視線を逸らしたグランを見上げ、微笑んでその腕をとった。間近から、椿の花のような香りがグランの鼻に触れる。
「そうだな、あまり遅くなるとさすがに皆が心配する」
ルスティナの触れる腕をいくらかこそばゆく感じながら、グランは元来た道を歩き出した。先に駆けていった一角獣の蹄の跡が、暗くなった地面にわずかに濃い影を浮かび上がらせている。
「本当に、待っているだけでよいのでしょうか。そろそろルキルア軍の方にでも連絡した方が……」
天井近くから差し込んでいた陽の光は、いつしか夕闇に色を変え、誰もいなくなった博物館の中を、壁に備え付けられた燭台が淡く照らしている。「一角獣と乙女」の絵の前で、館長はおろおろと、薔薇色の髪の娘の声をかけた。
ルスティナの馬は未だ、外の停馬場につながれたままだ。建物から出て行った様子はないのに、後から現れた黒づくめの青年も姿が見えなくなってしまった。日没も過ぎたというのに、さすがにまずいのではないかと心配しているのだが、二人の知り合いだという娘は特に心配した様子もない。ぷらぷらと、同じく額に飾られた絵を見上げている。レキサンディアの女王シペティレと、その二人の侍女の絵だ。
キルシェは女王に寄り添う侍女の、片方を指さした。
「……こっちの侍女って、白い髪に赤い瞳なのね。この時代、こういう人って割と多くいたの?」
「いえそれは、異国の文献に残る、シペティレに謁見した商人の話が元になっているようです。雪のような髪に太陽のような赤い瞳を持ったこの侍女は、参謀さながらの叡智で女王の危地を何度も救ったとかで……いや、それよりも、今はルスティナ閣下のことを」
思わず蕩々と解説を始め、館長は慌てて首を振る。キルシェは自分で話を振っておきながら、続きには特に関心を払わず、
「あ、そろそろかな」
「え?」
キルシェの言葉と共に、風が動いた。
窓でも扉でもない、絵の掛かった壁から、風が吹いてくる。遠くから、馬が蹄で地を蹴るような音も。
キルシェの視線を追って振り返った館長は、美しい一角獣と乙女が描かれた大きな絵から、突風を伴って白い影が飛び出してくるのを見て思わずのけぞった。風が唸り、白い影はまっしぐらに反対側の壁に向かって駆け抜け――られなかった。
ぐぉん、という音がして、一帯に大きな振動が走る。壁が揺れ、飾られていた絵がいくつか傾ぎ、あるいは床に落ちる。白い影は風と共に壁から跳ね返され、風を周囲にまき散らしながら霧散していった。
突風を全身に浴び、息を詰まらせながらもかろうじて耐えていた館長は、収まっていく風の中でやっと我に返った様子で、
「な、なななななんですか今の……」
「おお、やはりここに出るのか」
館長の声に答えたのは、突風の中でも髪一本乱さず平然と立っていた薔薇色の髪の娘ではなく、それまではそこにいなかったはずのルスティナだった。夜のような青年の腕に寄り添うように現れたルスティナは、顎が外れそうになっている館長に、鷹揚に微笑んだ。
「あ、あの、あの……」
「あーら、仲良くお帰りなさい」
「うむ、グランが来てくれて助かった」
キルシェの冷やかしの声にも、ルスティナは全く動じない。冷やかされていること自体に気づいていないのだろう。
「キルシェ殿がグランを通してくれたと聞いた、ありがとう」
「そうよ、あたしのおかげよ。グランにはこれで貸しが……」
「うるせぇよ」
これ見よがしに胸を反らすキルシェに、グランは仏頂面のまま右手に持っていたものを放り投げた。大理石のようになめらかで透明感のある、細長い角。キルシェはそれを受け止めると、目をきらきら潤ませて胸の間に挟み込むように抱きしめた。
「やだ、ほんとに持って来てくれたの?! さっすがグラン!」
「借りどころかお前には出会った時から貸しだらけだからな、どっかで役に立てよ」
「一角獣の角なんか出されたらしょうがないわねぇ。よし、グランにはこれを使って、三日くらい寝なくても頑張れちゃうようなすっごい強壮剤を……」
「そういうのはいいから」
胸で挟んだ角に頬ずりしているキルシェにグランがしっしと手を振る。三人の様子を呆然と眺めている館長に、ルスティナは穏やかに声をかけた。
「もう日も暮れてしまったか。すっかり長居してしまったようだな」
「な、長居って……」
今の今までこの建物のどこにもいなかったはずではないか。その青年といい、一体どこから現れたのか。口をぱくぱくさせている館長の肩を、キルシェがしたり顔でぽんぽん叩いた。
「まぁ良かったじゃない、この建物の中で異国の将軍が行方不明になって建物の管理不行き届きを追求されて責任問題に発展、なんてことよりは」
「そ、それはそうですが……」
「用事は済んだしあたしは引っ込むわ。グラン、またね」
「またねじゃねぇよ。つーか、人前でそういう芸をするな!」
言われているそばから、キルシェは足下に法円を描き、揺らぐようにいなくなってしまった。思考が追いつかないのか、館長はあっけにとられたまま声も出ない。ルスティナはグランの腕から手を外すと、まったく平然とした顔で、
「騒がせてすまなかった。私たちはもう暇することにしよう」
「え……あの、あの……」
「ところで、なにやら周りが散らかっているようだが、どうしたのであるかな」
聞きたいのはこっちの方だ。何事もなかったように歩き去って行く二人の姿を呆然と見送っていた館長は、しばらくしてからやっと我に返って、傾いだ絵、床に落ちた額縁をぐるりと見回した。そして、どう考えてもその原因である風が吹き込んできた場所――一角獣と乙女が描かれているはずの絵に顔を向け、あんぐりと口を開けた。
泉で水を汲む乙女に寄り添っていた一角獣は、まるで絵の中から抜け出たかのように、綺麗に姿を消していた。




