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17.【間話】皓月将軍と白角の王<3/5>

 段差があるのに気づかず足を踏み出した、微妙な浮遊感に、それは似ていた。ひんやりと湿った空気が顔を撫でる。

 森の中の開けた場所で、小さな泉が目の前にあった。差し込む木漏れ日が水面を輝かせ、泉の周りに茂る芦や草木を柔らかく照らしている。

 絵に描かれていたのと、そっくり同じ場所だ。だが、今は水を汲む乙女もなければ、鋭い角を生やした一角獣もいない。

 少しの間立ちすくみ、グランはゆっくりとふり返った。

 背後にあるのは、自分がたった今潜り抜けてきたであろう絵の額縁ではなく、泉から森の奥へと続く小径だ。そして、湿った土の上に残る、まだ新しい足跡。ひとつは人間のもので、もう一つは、蹄の跡のように見えた。

「マジかよ……」

 グランは半ば呆れる思いで呟いた。ここまでの旅でさんざん驚かされてきたのに、まだ未経験の事柄があるのだ。

 グランは首を回して自分の姿を見下ろした。いつも通りの軽鎧に、いつもの剣。柄に埋め込まれた月長石が、木漏れ日を受けて白く輝いている。

 木々の間からわずかに見える空が、そろそろ夕刻が近いことを告げていた。絵の中と思われるこの光景も、時間は現実のものと連動しているらしい。この先がどこに通じているか判らないが、日没までには戻りたい。

 少し歩いて泉から離れたことで、湿って柔らかかった地面が、いくらか乾いた歩きやすい土に変わっていく。森の中なので先は見通せない。

 キルシェに騙されているんじゃないか、と思い始めた頃に、道の先がいくらか開け、明るさが増した。木切れで作った小鳥の巣のような可愛らしいランタンが両側の大木の枝にかけられ、火が燃えるのとは別の色をした、青白い光が灯っているのが見える。まるで通る者を誘導するように。

 明らかに誰かがいる気配だ。いくらかほっとしかけて、グランはここが絵の中の世界であるはずなのを思い出した。今までの道程が、現実の森の中とまったく大差なかったから、自分がこんなところを歩いている理由を忘れる所だった。

 ランタンの掛かった木々の間を通り抜けると、その先には小さな家がひとつ経ちそうなほどの広場になっていた。

 しかし、建物はない。無いのだが、緑の芝を絨毯代わりに、豪華な石造りの大きなテーブルが置かれている。貴族が晩餐会にでも使いそうな立派なものだ。

 その上には、鮮やかな南国の果物が盛られた大皿や、牛の乳の満たされた水差し、鶏を丸ごと焼いてソースをかけたもの、様々な色形のパンのかご。様々な種類の酒瓶。これから大人数の宴会でも始めようかといわんばかりの料理が並んでいる。ランジュなら目を輝かせて、止める暇無く駆け寄って行きそうな光景だ。

 しかし、そのテーブルを囲んでいるのは、大勢の貴族でもなければ、絵の中という幻想的な設定にはありがちの森の動物じゅうにんでもない。

「ほう。ルスティナ殿は騎兵隊の総司令であられるのか、なるほど、美しい中にも強さと気品が感じられると思ったが、人間のなかでも重んじられている御方なのであるな」

「いや、私は皆に助けられて、今の役職を預かっているに過ぎぬよ」

 上座に座る男と、その斜め前の椅子に腰掛けたルスティナ。見る限りでは人間二人だけが、この宴席の参加者のようだった。

 上座にいるのは、癖のある金髪をいくらか伸ばした、美しい顔立ちの男だった。ルスティナが上級軍人の兵服姿なら、金髪の男は王族や貴族が結婚式にでも着込みそうな、真っ白い上着に金の装飾品がつけられた正装だ。一見、ただの物好きの貴族のように思えなくもない。

 しかし周りには、給仕する従者や、護衛の騎士の姿は見られない。三〇人は参加できそうな宴席なのに、いるのは二人だけなのだ。

 用意された豪華な食事も、手を付けているのは金髪の男だけで、ルスティナ自身はテーブルに並んだものに手を伸ばす素振りはない。目の前に置かれたグラスの中で、淡い桃色の水が揺れているが、酒ではなさそうだ。

「ジェームズ殿は、どういった御方なのであるかな。かような森の中で、このような豪華な食事会など……」

「私はこの森の……いや、この世界の主であるのだよ」

 手に持ったグラスを傾けながら、ジェームズと呼ばれた男は優雅な仕草で自分自身を手で示した。

「ここでは、私が願えば、かような食事も、いかような豪華な館も、思いのままなのだ」

「ほう、領主殿ということであるか? さぞや力のある御方のようだが、使用人や兵士はどこに控えておられるのであるかな」

「いや、『願えば』と言うのはそういうことではなく……」

 ルスティナの問いに、どう答え直せばいいのか困った様子で、ジェームズは笑顔をこわばらせた。

 こんな森の中にこんな宴席を用意すること自体既におかしいが、そもそもここは絵の中ではないのか。あの絵の中なら、いるのは一角獣のはずではないのか。あの男はどこから湧いてきたのだ。

 いや、こうやって考えていても仕方ない。グランはわざと大きく足を振り上げ、足元の草を踏み倒した。

「……なにやってんだ一体」

「おお、グラン」

「な、何者?!」

 微笑んだルスティナとは対照的に、ジェームズは驚いた様子で立ち上がった。重たそうな椅子が派手な音を立てて後ろにひっくり返る。

「貴様、どうやってここまで来た!」

「どうやってって、歩いてだよ」

「だからそういうことではなく!」

 事実をさっくり述べたグランに、ジェームズは叫ぶように声を張り上げた。

「ただの人間が、どうしてここに来られたのだ!」

「まるで、自分はただの人間じゃねぇようなモノの言いようだなぁ?」

 グランは面倒そうに眉を上げ、椅子にゆったり座ったままのルスティナに目を向けた。

「で、あんたはこんな所でなにやってんだ」

「いや、博物館で絵を眺めていたはずなのだが、いつの間にか絵に描かれていた泉とそっくりな場所に出てしまったのでな」

 ルスティナはのんびりと答えた。

「夢でも見ているのかと思って歩いて来たら、ジェームズ殿がこうして宴席を設けられているところに出くわしたのだ。休んでいくように親切に勧められたので、しばし厄介になっていた」

「いや、こんな所でこういう用意をしてるのをまず不審に思えよ……」

 迷い込んだ森の中に、やたら立派な家があり、そこの住人が謎の宴会をしていた。などという展開の昔話、相手の正体はほぼ妖魔に決まっている。

「そういえば、そうであるな。かような森の中では準備も大変であったろうに、一体この宴は、なんのために催されるのであるのか」

 ルスティナは、うっかりしていたとでもいうように、ジェームズに顔を向けた。ジェームズ自身、ルスティナもグランもやたら冷静なために、どう答えていいかとっさに思いつかなかったらしい。少しの間おろおろと胸の前で両手を泳がせていたが、すぐに我に返った様子で姿勢を正した。

「それはもちろん、我が花嫁を迎えるためであるよ」

「ほう、結婚の宴であるか、それはめでたい席にいきあったものであるな。ジェームズ殿は花嫁を待っているのであるか」

 ルスティナは穏やかに微笑んだ。グランにはこの時点で、ジェームズがどう台詞をつなげるか予測がついてしまったのだが、ルスティナはまったく気がつく様子がない。

「いや、もうとうにここについている」

 ジェームズはルスティナに向き直ると、左手を胸に当て、優雅に微笑みながら右手をさしのべた。

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