15.【間話】皓月将軍と白角の王<1/5>
それは、大人の身長を優に超える高さと幅を持った、大きな絵だった。
木漏れ日が差し込む泉に足首までを浸し、薄絹をまとった乙女が壺で水を汲んでいる。
その傍らに、まるで乙女を守る騎士のように寄り添う、美しく逞しい白馬。いや、ただの馬ではない。二つに割れた蹄、獅子の尾、そして額には、大理石のよう冷たく輝く鋭い一本の角が生えている。
ただの絵であるはずなのに、乙女も馬も、その周囲に描かれた森の木々も、実に生き生きと描かれている。なかでも、現実に存在しないはずの角を持った馬が、今にもこちらに目を向け、絵から抜け出て来るのではと思わせるくらいに生命力に溢れていた。
絵の題名は『一角獣と乙女』。一角獣は、この近辺での伝説の生き物だ。
「一角獣は森の守り神です。非常に気性が荒く、普通は人を寄せ付けないのですが、汚れなき美しい乙女の声には耳を傾け、穏やかに寄り添ってくるのだそうです」
後ろで様子を見守っていた館長が、緊張した様子で客人に向けて説明する。銀色のマントを揺らし、ルスティナは感心したように頷いた。
「気品のある顔立ちをしているな。まるで本当に目の前にいたものを、描いたような迫力だ」
「この絵の作者であるドミニク氏はの描くものは皆、空想画なのに写実的と、各国で大きな評価を受けております。中には、あまりにも現実味がありすぎて、描かれた鳥が絵から飛び立ってしまった、という逸話もございます」
「これだけ生き生きとしていたら、そういうこともあるかもしれぬな」
ルスティナは目を細めた。
「この一角獣も、今にもこちらに歩いてきそうなほどだ」
「一角獣は、美しい女性には自分から近寄ってくるとのことでございます。閣下を見て、うっかり絵から出てくることもあるやもしれません」
「だとしたら光栄なことであるな」
追従の混じった言葉を、ルスティナは微笑んで受け流し、再び絵に視線を向けた。最初の緊張がいくらか解けて、館長の表情も明るい。
ルキルア王国の騎兵隊総司令という話だった。無教養で無骨な軍人がなんの気まぐれでこんなところに、と最初は面倒に思っていた。
しかしルスティナは美しい上に威圧的な雰囲気はかけらもなく、教養も感じられる。芸術や文学、歴史的な学問にも理解があるらしく、博物館の館長とはいえ一介の市民である自分にも敬意を持って接してくれる。
「こちらは、レキサンディアの女王シペティレと、その侍女を描いたものでございます」
ゆっくりと歩を進めるルスティナの後ろに従い、館長は次に現れた大きな絵を示した。
豪華な金縁の額に収まった、蛇をかたどった王冠を頭に載せた美女と、寄り添うふたりの娘の絵。玉座に座り足を組む女王に、まるでこちらが謁見でもされているような、美しいが威厳を感じる絵だ。
「レキサンディアは、王と女王による共同統治でございましたが、周辺諸国の記録にも王についてはほとんど語られておりません。当時は女性支配者が珍しかったこともありましょうし、なにより、実権がほぼ女王にあったことの現れでもありましょう」
「肝心のレキサンディア自体は、海の底であるからな。今は確かめようもない」
絵の中の女王を、臆することなく見返して、ルスティナは大きく頷いた。
「……二階には、レキサンディアの都市模型や、遺物の展示もございますが、そちらもご覧になられますか」
「そうであるな。非常に興味深いのだが、そろそろ連れが来る頃合いなのだ」
ルスティナはいくらか思案するように首を傾げた。栗色の髪が、天井近くの小窓から差し込む日の光に照らされて、金色に輝いた。
「連れと相談してみて、時間があるようなら見せてもらうかも知れない。それまで、もうしばらく私はこの辺りを見せてもらいたいのだが、よいだろうか」
なるほど、それで供も連れずにこんな所まで来たのか。館長は頷いた。それなら、自分がつきっきりでない方がかえってよいだろう。
「私は所用がございますので失礼させていただきますが、お連れ様が来られるまでの間、解説できる者をおつけいたしましょうか」
「いや、特に気遣いは無用であるよ」
「承知いたしました。各場所に係員がおりますので、質問がございましたら遠慮なくお声をおかけください」
「うむ、ありがとう」
ルスティナは鷹揚に頷いた。
ルキルアの公女が訪問していて町が賑やかな分、今日の博物館は観覧者が少ない。ルスティナが一人で中を見回っても問題はなさそうだ。
館長が立ち去ると、館内はそれぞれの場所でそれぞれの作業をしている係員と、昼下がりの空いた時間を利用してやってきた少数の市民の姿が見えるくらいになった。展示物を保護するために、窓は高い場所に小窓が幾つかあるくらいだ。差し込む光が展示台のガラスや金属に反射して、木漏れ日の差す森の中のようにほの明るい。
絵の区画は、三方を壁で囲まれて、中央には彫像が置かれている。ぐるりと見て回ると最初の場所に戻る設計だ。のんびりと歩を進めながら絵の区画をひとまわりしてきたルスティナは、さっきと同じ場所で改めて足を止めた。美しく鋭い角を持った馬が、水を汲む乙女に寄り添う絵。
天井の小窓から差し込む日差しがいくらか傾いた頃、穏やかな陽光をかき分けるように、夜のような青年が歩いてきた。伸ばした黒髪に、黒い瞳。それにあわせたような黒い軽鎧。腰に帯いた長剣の柄で乳白色の丸い石が月のごとくに輝いて、まるで日の光の下に夜が人の形をとって現れたようだった。
今日は珍しい客が多い。絵の区画の近くで作業していた係員は、資料を繰る手を止めた。青年は、こちらの視線などお構いなしに早足で、係員の前を行き過ぎ、絵の展示場所まで進んでいった。足音はその中を一回りすると、今度はまっしぐらに係員に向かって近づいてきた。
「そこにルスティナ……、いや、銀のマントの女の軍人がいなかったか? 入り口で聞いてきたんだが」
これが館長が言っていた将軍の『連れ』か、と、係員は頷いた。
「ルキルアの将軍閣下でしたら、そこにおられませんか」
「いないから聞きに来たんだが?」
係員は首を傾げた。そんなわけはない、館長が立ち去ってからは誰も入っていないし、出て行ってもいない。資料を作業台において、係員は青年の先に立つように絵の区画に入っていった。
中央の彫像がいくらか邪魔になるくらいで、絵の区画は入り口から一目で見渡せる。そして確かに、その区画には誰もいなかった。
「……おや、すみません、出て行かれたのを見逃したかな」
しかしいくらこちらが作業中でも、あの銀色のマントが奥から出てきたら、目の端にひっかかりそうなものだ。内心首を傾げつつも、恐縮そうに係員が首を竦めると、
「まぁいいや、邪魔して悪かったな」
青年はすぐにきびすを返すと、別の区画に歩いて行った。
そんなに広い建物ではない、すぐに見つかるだろう。
それにしても、上級の兵士にも見えないのに、一国の将軍を名前で呼び捨てなど、あの青年はどういう人物なのだろう。きょろきょろと辺りを見回しながら立ち去っていく青年の後ろ姿を、係員は少しの間観察するように見送っていた。




