9.海から来しもの<1/6>
「噂のきっかけになったのは、半年ほど前の夜の出来事でございます。町外れに住む老夫婦の家に、深夜訪ねてきた者があったのです」
食堂の一角、応接用のテーブルをはさんで向き合って置かれた長椅子に、腰掛けたヘレナが話し始めた。その後ろに立ち、シェイドが神妙な顔で耳を傾けている。
その老夫婦が住んでいたのは、昔は居住区の一角として賑わっていた海沿いの場所だった。
すぐ裏手の崖が風化でもろくなって危険になり、住人はその居住区ごと別の区画に移転し、その際に、成長した彼らの子ども達も皆引っ越したのだが、老夫婦は『自分たちは先が見えているし、家には思い入れもある。どちらかが体を壊すか亡くなるかするまでは、ここで暮らさせてくれ』と引っ越しを拒んだのだ。
町側も子ども達もそれを尊重し、崖に少しでも異変があったらすぐ引っ越すのだと念を押して、しばらく好きにさせていた。少数だがそうした者はほかにもいて、区画がまるっきり無人になるわけでもなかったから、何かあったらすぐに対応できるだろう、とも子ども達は思っていた。
それが、ある月のない夜に、二人の家を訪ねてきた者があったのだという。
扉越しに問いかけても、戸を叩くだけで返事はない。これは人間だとしてもそうでないにしてもよからぬものだろうと、二人は扉を開けず、気配が立ち去るまで息をひそめるように閉じこもっていた。
しかし夜が明けて外に出た老妻は、扉の前に落ちていたものを拾い上げ、愕然となった。
「……それは、麻で編まれた腕輪だったそうです。ずっと昔、奥様が子ども達のためにと揃いで編んだものによく似ていたといいます。奥様は、昔海に落ちて遺体も帰ってこなかった次男が身につけていたものだ、と思ったそうです」
「ええ……」
ヘレナと向かい合い、エレムとユカが腰掛ける長椅子の後ろで、のぞき見るように話を聞いていたリオンが情けない声を上げた。ユカの冷ややかな視線に気づき、すぐに表情を取り繕った。
ランジュはユカとエレムの間におさまって、テーブルにあった絵本を勝手に読んでいる。もちろん話などまったく聞いていない。
「奥様はしばらくの間、『せっかく戻ってきたのに扉をあけてあげなかった』と、非常に悔やんでおられたそうです。ご主人や周りの方は逆に、『今更戻ってくるなんておかしい、なにかよからぬものが化けているのだろう、相手にしてはダメだ』と言っていたそうなのですが、数週間後の夜、たまたまご主人が留守にしていた時に同じことが起きたようで……」
「『ようで』?」
エレムの問いに、ヘレナは目を伏せて首を振った。
「家にいたのが奥様だけだったので、その時何が起きたのか判る方がいないのです」
「いないって……」
「ご主人が明け方、家に戻られたときは、家の扉は開いていて、家の中には誰もいませんでした。玄関先には海水の水たまりと、それを踏み越えて出て行った足跡が海に向かって点々と残っていたそうです。奥様はそれっきり、今も行方が判りません」
「海に……」
リオンは怯えた様子で、椅子の影に顔を半分隠した。一方でユカは、光景を想像しようと一生懸命考えている様子だ。食堂の一人掛けの椅子に座り、少し離れた場所で話を聞いていたグランは、露骨に疑わしげに片眉を上げた。
「足跡が残ってるなら、自分から歩いていったってことだよなぁ……? 水たまりっていうのは、なんなんだ? 海からやってきたなにかが残していったってことなのか」
「そうだと考えられるのですが、日が昇ってしばらくすると、玄関先の水たまりも足跡も乾いてしまいました。本当に奥様が海に向かっていったのかも、今となってははっきりとは判らないのです」
「そりゃそうだろうな」
血痕や泥水なら乾いても痕跡は残るが、海水では乾いてしまったら後は塩しか残らない。しかもここは港町なのだ。海沿いの場所ではなおさら、あっという間に痕跡はかき消えてしまう。
「それがきっかけになったかのように、月のない夜、人がいなくなる事件が起るようになりました。失踪した人の家の前には決まって、海水で濡れた誰かからしたたって溜まったような水たまりが残され、時には海藻や珊瑚、貝のかけらなどが落ちていることもありました。それで、海から戻ってきた死者が連れて行ってしまったのではないかと、噂が広まったのです」
「“戻ってきた”、ですか」
胡散臭そうに聞いているグランをちらりと見やり、エレムが声を上げた。
「ということは、いなくなった方はみなさん、それ以前に海で近しい方を亡くされているのですか?」
「その通りです。とはいえここは港町です。もし『身近な人が海で亡くなったことはないか』問われたら、親類縁者だけでなく、知人やその家族まで連想するでしょう? そうなると、町の者はみなそれなりに思い当たることがあるのです」
「そうですね……。山奥の村で、山で死んだ知り合いはいないかと聞くようなものですね」
ヘレナは頷いた。
「また、いなくなりはしなくても、『誰それの家で、夜中に玄関が叩かれた』『小窓からのぞき込む気配があった』という話が出始めました。今では、月のない夜は誰が来ても扉を開けてはいけないと、町で噂になっております」
エレムはいくらか思案するように首を傾げた。
「その『誰か』は、扉を壊してまで入ってきたりはしないんですね」
「そのようです。最初の老婦人の時もそうでしたが」
「家は、結界のひとつなのですの」
一生懸命耳を傾けていたユカが、唐突に声を上げた。グランが面倒そうな顔で足を組み替える。
「なんだそりゃ」
「住んでいる人を護る結界なのですの。悪いものも良いものも、家の人が招き入れなければ簡単に中には入ってこられないのですの」
「歩いてこられるなら戸だって開けられるだろ。変な本読みすぎじゃねぇ?」
「精霊や悪霊のことを知るのも巫女には大事だって、サバナさんに教えられたのですの!」
胡散臭そうに眉をひそめるグランに、ユカがむっとした様子で答える。
「彼らには彼らの手順や法則があるのですの。魔法が呪文を正しく唱えないと発動しないのと同じですの」
「なにやら難しい話でありますな」
放っておくと延々横にそれていきそうなユカの話を苦笑いで引き戻し、シェイドが話を引き継いだ。
「とにかく、理由は判らないながらも、月のない夜に人がいなくなっているのは事実なのであります。カーシャム教会は、事態が一段落するまで、ラレンスの教会建屋に奉仕する神官方を保護して欲しい、可能であれば原因を突き止めて欲しいと、アンディナ教会の統轄支部から依頼を受けたのであります。それで、一番近いサイスの町にいた自分がやってきたのであります」




