4.海底の過去、海上の現在<4/4>
グラン達が宿として与えられたのは、領主の邸宅の別棟にあたる。海が望める丘の上に建つ邸宅は広大な庭を有していて、南海の小島のように背の高い木や大きな葉を持った草で彩られていた。
庭の一番眺めのいい場所には、泉からの水を引いた人工の浅い池が作られている。これは海を模しているのだろう。視点を低くすると、眼下に広がる広大な海と一体になったような美しい景観だ。
その池で、ランジュとユカがきゃあきゃあはしゃぎながら水遊びをしている。
池はせいぜい、ユカのすね辺りまでの深さしかない。ランジュは、水を吸っても重くならないという布で作られた水遊び用の服を着せられ、ばしゃばしゃと駆け回っている。
池のほとりでは、休憩用の小さなあずまやの椅子に座り、リオンが半ば呆れた顔つきで様子を見ていた。ユカが一緒に遊んでいるのだから、別に目を配っていなくてもいいんじゃないかと思うのだが、自称世話係としては放っておけないのだろう。難儀な性格である。
「おや、グランもここにいたのか」
南国の開放的な景観の中、いつも通り将官服を姿勢良く着こなしたルスティナが、銀色のマントをひらめかせてこちらに歩いてくる。
「そういえば、オルクェル殿がグランに会いに来ていたと聞いたのだが、もう戻られたのかな?」
「あ? ああ……」
この様子だと、エスツファにまだ会っていないのだろう。オルクェルの話の内容を詳しく言うべきか思案していると、
「この木は城の温室にもある」
背の高い椰子の木を見上げ、ルスティナは感心したように笑みを見せた。
「火をたいて湯を沸かして、温室を蒸し暑く保っているのだが、やはり気候があわないのか葉の先は枯れ気味のものが多いし、実もほとんどつけないのだ。それが屋外でこんなに瑞々しいのだから、やはりここは南国の気候にかなり近いのであろう」
「あ、ああ……」
「ここはまだ対岸に近いが、ラレンス辺りまで行と、対岸がとても遠くなって、海の上に太陽が沈むように見えるのだそうだ。さぞや美しいのであろうな」
ルスティナは、蒼く波打って眼前に広がる内海に目を向けた。
対岸に見えるのは、昨日までグラン達がいたプラサの町だ。あんなに大きかった灯台も、ここからでは指先に隠れるほどだ。その背後に広がる山並みは蒼くかすんで、その遙か先までが広い陸地であることを伺わせた。
この世界、実は大半が海なのだというが、大陸の中央部を中心に行き来している人間達には、地図を見せられてもどうにも実感が湧かない。
「国を出てからさほど経っていないはずなのに、いろいろな場所を見ることができた。世界とは、こうも美しいものであるのだな」
栗色の髪を風にそよがせて、ルスティナは目を細めた。
正直に言えば、とても平穏な旅路とは言えなかったのだが、ルスティナはそんなことは気にしていないようだ。
カカルシャへたどり着いて無事に式典が終われば、そこから先はグラン達はルキルアの部隊と別れて、更に東に向かうことになる。エルディエルとルキルアの部隊は、帰り道にまたこの内海沿いの街道を通るのだろうが、自分たちは今までの行程を再びたどることはない。この地方に戻ってくることがあったとしても、いつになることか。
「海に沈む太陽か……」
グランの呟きは聞こえなかったらしく、ルスティナは海と、その方向の池で遊ぶランジュ達を穏やかに眺めている。その整った横顔が不思議とまぶしく見えた。
近くの小舟の上のユカとランジュは、一つの小箱を交互にのぞき込んでは歓声を上げている。
ユカはもっぱら海中の美しさに感動しているようだが、ランジュはしきりと顔を上げては「あの青いお魚も食べられるのですかー」などと案内人に質問して苦笑いさせている。そのランジュが船から身を乗り出しすぎないように、気を配っているリオン。
ヘイディアはあの狭い小舟の中でも、ほかの従者達とはやはりいくらか距離をとって、日傘をさして座っている。海の上とはいえ日差しがあるのでそれなりに暑いのだが、ヘイディアはいつも通り淡々とした顔つきで、周りの景色にみとれるでもなく、アルディラの様子に気を配っているようだった。
「小さな子はほんと無邪気ね、連れてきてあげてよかったわ」
ユカとランジュの乗った船は、いくらか離れているのにとても賑やかだ。大人の女性を気取っているのか、アルディラが微笑ましそうに目を細めた。お前も変わらない、という言葉が反射的に口からでかかったのをすんでの所で呑み込んでいると、
「騎士殿もいかがでございますか」
騎士どころか兵士ですらないのだが、こちらの事情が判らない案内人は、グランをアルディラのお気に入りの貴族か騎士かとでも思っているようだ。賓客用のものらしい、凝った細工の施された小箱を渡され、グランは微妙な顔のままそれを手に取った。
今こいつにこちらの事情をあれこれ説明していても仕方ないし、海中の光景にまるっきり興味がないかと聞かれれば、別にそういうわけでもない。率直に言えば、いい機会だし見ておきたい。
小箱は、縁に額を押しつけても痛くないように、顔の形に合わせて形も整えられている。グランは説明された通りに持ち手を握り、底のガラス部分を水面につけて中をのぞき込んだ。
波が穏やかな上に透明度が高く、海中は思っていた以上に明るかった。あまり海藻はないらしく、岩とも生き物ともつかない不思議な赤いものが島を作るようにあちこちに群生している。
深さがあって底まで光の届かない部分には、更に濃い蒼が広がっていた。あの底に、古い都市が眠っているのかと思うとまた不思議な気がした。揺らぐ陰影の形を見極めようと目を懲らした。
その瞬間。
「!」
突然の動悸に胸を突かれるように、グランは自分でも驚くほどの勢いで小箱から顔を離した。
昏く揺らぐ美しい水底から、誰かに見返されたような気がしたのだ。
「ど、どうしたの、グラン?」
いくらか青ざめ、胸を抑えて息をつくグランに、アルディラが戸惑ったように声をかけてきた。水面に浮いたまま、グランの手から離れた小箱を回収するのに、従者が慌てて紐を引いている。
グランは呼吸を整えながら軽く首を振り、別の船の上にいるヘイディアに目を向けた。さっきまでいつも通りの無表情さだったヘイディアが、今は幾分険しい顔でグランを見返し、同じ船の従者になにか耳打ちしている。ヘイディアも、なにかに気づいたのだ。
もうひとつの小舟では、抱えていた小箱から顔を上げ、ユカが不思議そうにこちらを見ている。ユカ自身はなにかに感じたわけではなく、グラン達の様子が変わったのを不審に思っているらしい。
「いや……船は慣れないから、少し酔ったのかもな」
「まぁ、下を見てるとだめなのかしら。なにか飲み物をいただく?」
アルディラは心配そうに小首を傾げる。グランは青ざめた顔で作り笑いを浮かべ、頷いた。
気を利かせた案内人が、
「では風が当たるようにいくらか場所を変え、今度は浅瀬の岩礁地帯へご案内しましょう。宝石の谷と呼ばれる、珊瑚礁の地帯がございます」
「まぁ、どんな所なのかしら、楽しみだわ。」
アルディラは社交的な笑みを見せたものの、気遣うようにすぐにグランを見返した。視界の隅で、硬い表情のヘイディアが水底をすかすようにきらめく波を見つめているのが見えた。
※ ※ ※
「――来たか」
星空のように揺れる水面を見上げ、彼は呟いた。小舟は夜空にかかる雲のように太陽の光を遮り、淡く揺らぐ海底に影を落とす。
「長かったが、あっという間だった。とうとう、月が満ちるのか」




