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ラグランジュ ―漆黒の傭兵と古代の太陽―   作者: 河東ちか
 【外伝】 ある翻訳家の失踪 ~あるいは、エレム少年の事件簿~
306/622

17.ある少年の冒険<3/3>

 男は懐から取り出した紙巻きたばこに火をつけ、ぼんやり空を見上げている。エレムは目を閉じて、一つ息を吸った。

「え……ええ?」

 ピラツは思わず声を漏らした。それまで、人形のような冷静な顔つきだったエレムが、急に心細そうな表情を作って、男に向かって歩き出した。

 あっけにとられたまま物陰から様子を見ていると、ある程度近寄ったところで、エレムはか細い鳴き声を上げ始めた。

「お、おい坊主、どうした」

 紙巻きたばこを半分にまで減らしてすっかりくつろいでいた男は、いきなり現れた「迷子」にぎょっとした様子で腰を浮かした。エレムはいくらか顔をうつむかせ、わざとらしく法衣の袖で顔を拭きながら、子どもらしくたどたどしい足取りで近寄って行く。

「なんだ、貴族の連れてきた子どもか……? おい、坊主、お前どうやってここにきた」

「……ぼ、ぼく、うさぎさんを追いかけて……ひっく」

 その後にもなにか言っているのだが、わざとか細い声で答えているのか、男には聞き取れないらしい。男は地面に紙巻きたばこを投げ捨てて踏み消すと、エレムの言葉をよく聞き取ろうとするかのようにかがみ込んだ。

「坊主、誰にも言わないで離れてきたのか? まいったな、こりゃ早めに返さないと、探しに来られたら……」

 うろたえた様子で思案している男の前で、エレムはそれまで自分の顔の前にあった右腕をいきなり後ろに引いた。左足を軸にして右足を踏ん張り、引いた右腕を勢いをつけて突き出す。

 エレムを見下ろそうといくらかかがみ込んでいたところに、見事な掌底打ちをみぞおちに食らって、男は膝から崩れるように座り込んだ。

「ピラツさん、いいですよ」

 自分に倒れかかってくる男の体を、抱えるように支え、エレムが声をあげる。あっけにとられていたピラツは、慌ててその側に駆け寄った。

「頭を打たないように、横にしてあげてください」

「あ、はい」

 支える必要があるのは上半身だけとはいえ、さすがに大人一人の体がもたれかかってくるのは辛いらしい。目を回している男の体をピラツが横たえると、エレムは呼吸を確かめるようにその顔の側に耳を寄せた。目を回してはいるが、特に顔色が悪かったり呼吸がしづらそうなようすはない。

「うまくいきました。ピラツさん、せっかくなので、この人をその扉の内側まで運びましょう」

「はぁ……」

 言われるままに男の両脇に手を入れて、裂け目の間の扉まで引きずり込む。

 山肌の裂け目は、外側から見ると一見自然にできたもののようだが、一歩踏み込むと、奥の方は人の手で広げられたように広がっていた。

 奥に見える出口には、自然の光と思われる柔らかな光が見える。奥は開けた空間になっているようだ。

 扉まで引っ張り込まれても、男は目を覚ます様子はない。縛り上げた方がいいかとも思ったが、ピラツのその提案に、

「今は時間がもったいないです、奥に行ってみましょう」

 エレムは首を振りながら、壁際に仰向けに寄せた男の両腕を勝手に折り曲げ、まるで腕で枕を作るように頭の下にもぐりこませた。これなら誰かが来ても一見、サボって休憩しているように見えそうだ。感心しているピラツをよそに、エレムは襟元から、首にかけたなにかを引っ張り出した。

 紐でぶらさげた、人差し指ほどの長さの細い銀の笛だ。

 エレムはそれをくわえると、木戸の向こうの空を見上げて大きく息を吹き込んだ。

 息の吹き込み方にこつがあるのか、笛は「ぴー・ろー」と微妙な間と抑揚のある間延びした音を立てた。二回。山中でたまに聞く、鳶の鳴き声によく似ている。

「な、なに……?」

「たぶん、ここが当たりなので」

 ピラツの問いに、答えになっていない答えを返すと、笛をしまったエレムはさっさと奥に向かって歩き始めた。


 ★


「あら、鳶なんて珍しいわね」

 従者の沸かした湯で新しくお茶を入れていた婦人が、遠くから響く鳶の鳴き声に気づいて空を振り仰いだ。空にはそれらしい鳥の影はないが、

「狩りに気づいて寄ってきたのかしら。鳶は自分ではあまり狩りはしないと聞くし」

「横取りを狙われるほど今日は大猟なのかしらね」

 敷きものの上で円を描き、菓子をつまむご婦人方が、当たり障りなく答えている。その輪の中で優雅にカップを口に運んでいたキールは、それとなく視線を巡らせた。

 ラムウェジの従者に割り当てられている敷きものには、今は誰の姿もない。エレムの姿はともかく、ピラツまで見当たらない。エレムがいなくなったのに気づいて、様子を見に行ったのかも知れない。それなりに想定していたことだった。

 無事に笛の音が聞こえてきたと言うことは、二人が合流したうえで順調に計画を進めていると判断して差し支えないだろう。

 キールはわずかな間にそう判断すると、うっとりした表情のままカップから口を離した。

「さっきのお茶とは格段に香りが違うわね、なんだか葡萄のように甘い匂い」

「まぁ、よくお判りですね。これはラウダン産の新しい品種なのですよ。今日のとっておきですわ」

「ラウダン産のだなんてお目が高いわねぇ、これはラムウェジ様にもぜひ味わって欲しいわ、エレムちゃんもせっかくだから頂いて……あら?」

 と、キールは大きく辺りを見回して困ったように首を傾げた。

「エレムちゃん、姿が見えないけど、どうしたのかしら?」

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