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ラグランジュ ―漆黒の傭兵と古代の太陽―   作者: 河東ちか
 【外伝】 ある翻訳家の失踪 ~あるいは、エレム少年の事件簿~
291/622

2.ある法術師の拾いもの<前>

 なにかがぜる音に、ピラツはうっすらと目を開けた。

 一番に目に入ったのは、白い色だった。室内なのか、背後でぱきぱきと薪が爆ぜる音と共に、自分の影がその白いなにかの上に陰影をつける。

「慈愛深き神レマイナよ、その優しき御手で子どもの傷を癒やしたまえ……」

 柔らかだが弾力のあるなにかに頭を乗せて横たわる自分の、すぐ上から、女の声が聞こえた。意識がはっきりしてきたと同時に、ピラツは自分の背に焼け付くような痛みを感じ始めた。思わず悲鳴に近いうめき声をあげると、

「あら、気がついたのね」

 別のところから、そんな若いの声が聞こえた。

「やっぱり男の子は丈夫タフね。ラムちゃん、なんとかなりそう?」

「生きてればたいていのことはなんとかなるよ、私を誰だと思ってるの」

「そうね、レマイナ教会随一の法術師だものね」

 言葉だけだと女性同士の会話のようなのだが、片方はどう聞いても男の声にしか思えない。しかし、今は背中の痛みでそれどころではない。

「ほらほら暴れないで、余計に血が出ちゃうわ」

 うめきながらのたうち回ろうとするピラツの肩を、力強く大きな男の手が背後から押さえ込んだ。相変わらず、女のようなしゃべり口で。

「大丈夫、すぐに楽になるよ」

 ひょっとして、自分はもう助かる見込みはないから楽に“させられて”しまうのだろうか。頭の上から聞こえる緊張感のない女の声に、逆に不安は増大するが、

「い、いたたた……あれ?」

 灼けた鉄でも押し当てられていたような背中の痛みが、それと自覚できる勢いで治まっていく。ピラツは間の抜けた声を上げた。痛みが引くと共に、多少皮が突っ張ったような感覚と、布に覆われていない肌に風が当たるのを感じ始めた。火の気配もするが、今はただ、寒い。

「やっぱり何度見てもすごいわね、もうふさがっちゃった」

「よし、そろそろいいかな。エレム、背中拭いてあげて」

「はい」

 自分の背後から、今度は子どもの声が聞こえた。

 ピラツがうめきも暴れもしなくなったと判断して、押さえつけていた男の手が離れる。背後から人がどける気配がして、今度は自分の背中に絞った布が押しつけられた。ひんやりとした感覚に、

「うひゃっ、な、なにを?」

「汚れを取らないと着替えられないでしょ。いつまで裸でいるつもり?」

 肌寒いと思ったら、上半身が裸だったことにピラツは今になって気がついた。下半身に身につけたままのズボンも、水にでもつかったのが中途半端に乾いたように重く湿っている。

 いくらか冷静になって見上げると、自分を膝枕している女と目が合った。

 二十代後半か、三〇代始めか、ぱっと見では判断がつかない。少し短めにととえられた髪と、形のはっきりした気の強そうな眉が少し特徴的なくらいで、顔立ち自体は秀でて美しくも醜くもない、ごく一般的な容姿の女性だった。そして白い……法衣。

「レマイナの神官様ですか……?」

「法術師のラムウェジ。きみ、名前は?」

「ピ、ピラツです……」

「よし、ピラツ君、血が足りてないかも知れないけど、傷はふさがったから、注意しながらゆっくり起きてごらん」

「起きてって……」

 そもそも、自分はどうしてあんなに背中が痛かったのだろう。どうして髪や服がこんなに湿っているのか……

 女に手を貸されながらも体を起こす。いくらか頭がくらくらしたが、それもすぐにおさまって、ピラツはぼんやり辺りを見回した。

 どうやらここは、粗末な掘っ立て小屋の中らしい。壁に雨除けの蓑や笠がかけられ、壁際には薪が積まれている。火が焚かれているので部屋の中は明るく暖かいが、ガラスのない窓の隙間から見える空は日暮れの後の藍色に染まって、いくらか星も出始めていた。

「僕は……」

 言いながら振り返る。その眼前に、赤黒く汚れた布を差し出され、ピラツはぎょっとなった。

 差しだしているのは、一〇歳に満たないほどの男の子だ。

 ラムウェジと名乗った女と同じ形の法衣姿に、麦の穂のように柔らかな金髪と青い瞳。だが見た目の可愛らしさとは裏腹に、表情は淡々としていて、まるでよくできた人形のようにも見えた。

 どうやらこれは、自分の背中を拭いた布らしい。赤黒いのは、泥汚れではない、時間が経って変色した血のようだった。しかし灼けるように痛かったはずの背中は、今は言葉通り痛くもかゆくもない。

 金髪の子どもの横には、二〇代半ばほどの若い男が座っている。背が高くそれなりに鍛えているようだが、精悍というよりは洒脱な印象で、いかにも若い女性に好まれそうな整った顔立ちをしている。どうやら彼が、暴れようとする自分をおさえてくれていたらしい。

「あなた、運がよかったわね。わたし達が川で水を汲んでた所に、上流から流れてきたのよ。見たところ学生さんみたいだけど、けんかでもしたの?」

 頬に手を添えて首を傾げるその口調と仕草は、育ちのよい貴族の娘のように柔らかい。容姿との格差ギャップに戸惑って、ピラツは一瞬動きを止めてしまったが、

「……そ、そうだ! 僕、馬車に乗ってた所を、馬に乗って追いかけてきた二人連れに襲われたんです! 御者が先に斬られて……」

「襲われた……? 追いはぎ?」

「僕も殺されるんだと思って、必死で馬車から逃げて、でも、川があって、飛び込む寸前に後から……そうだ、馬車の扉をあけたところで、御者が、背中から斬られて、僕は」

 一気に記憶が蘇る。同時に、不安と恐怖が黒い渦のように胸に押し寄せてきて、ピラツは自分を支えようと思わず床に手をついた。ラムウェジと名乗った女と、女言葉の若い男は、ピラツの頭越しに目を見合わせた。

 その肩に、乾いた毛布がかけられた。

 目を向けると、相変わらず淡々とした表情のまま、エレムと呼ばれた男の子が、かけた毛布をおさえるようにピラツの肩に手を添えている。一度に蘇った記憶と感情の中で混乱しかけていたピラツは、はっと我にかえって声を押しとどめた。

 こんな小さな子に心配させるような振る舞いを、大人がしてはいけない。

「……大変なめにあったんだね。もう、大丈夫だよ」

 ラムウェジは目を細め、湿ったままのピラツの頭に手を伸ばした。よしよし、と子犬をなだめるように、ピラツの頭を撫でている。

 なにを大丈夫と言ってくれているのかよく判らないが、妙にほっとさせられて、ピラツは泣き笑いのような笑顔で小さく頷いた。



 どうやらこの小屋は、山中に入る猟師や山菜採りの者が休憩のために用いているものらしい。町と町をつなぐ道からは明らかに逸れていて、どう考えても旅の神官が、それも子連れで偶然通りかかるような場所ではないのだが、

「まぁ、いろいろと理由があるの。それを踏まえて、あなたは運がよかったのね。こんなところで人に拾われるなんて、普通ならあり得なかったんだから」

 そう答えたのは、女言葉が妙に板についた青年、キールだった。キールははらわたを取って囲炉裏で焼いた山魚を、刺した枝ごとピラツに差しだしてきた。

 一方で、エレムは囲炉裏の上にぶら下げた鍋を使い、細かく裂いた干し肉と刻んだ山菜でスープを作っている。なかなか手慣れた様子だ。小屋の中は火の暖かさだけではなく、食べ物の香りがふんわり漂って、それにもまたピラツはほっとさせられた。

 椀で配られたスープで体が温まる頃には、ピラツは山中での出来事をあらかた話し終えていた。手当の後、エレムとキールが川で洗ってくれたピラツの服も、壁に掛けられてだいぶ乾いたようだった。

「……馬の男は、きみが乗っているのを確認してから馬車を停めさせたんだよね?」

 外はすっかり暗くなり、囲炉裏の炎が今はこの小屋の中の唯一の光源だ。その炎を見つめながら、黙って話に耳を傾けていたラムウェジは、少し考えた後確認するようにピラツの顔を見返した。

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