66.空の道、水の路<2/5>
天頂を突き破った炎の力は、泉のある薄い部分を貫いただけではない、その周囲の庭園の地面まで裂き壊したのだ。泉に蓄えられた水と一緒に、泉を渡っていた橋桁や、泉の中心の島だったものと思われる白い塊が、岩土と一緒に中央の小島にいる者たちの上になだれ落ちようとしている。
あんなもの、どうしたって避けようがない。剣を天頂に突き上げた形のまま、言葉も出ないグランの下方から、
「あまねく場所でその力を示すルアルグよ」
「地にあるすべての力を司るレマイナよ」
崩壊した天頂の瓦礫がぶつかり合う音、湖面の波打つ音をかき分けて、二つの声が同時に響いた。
「「その力強き御手で、空への道を開き支えん!」」
奇しくも簡潔に重なった祈りの声と共に、柔らかな力が島の周囲を取り巻いた。周囲を揺るがしていた震動そのものがかき消え、足下からわき上がった力と一緒に、島の側面を沿うように風が吹き上がる。
島の上へ降り注ごうとしていた岩塊は、島を覆った見えない力の筒にはじき飛ばされるように、周囲の湖面へと軌道を変えて落ちていった。そして、空へと吹き抜けようとする風に乗って、グランの目の前を一番に飛び上がっていったのは、“娘”の誰かでも雄の羽蟻でもなく、それまでヘイディアの肩にしがみついていた、水でできたトカゲのチュイナだった。
チュイナは飛び上がりながらその姿を自ら大きなアゲハチョウに変え、底の抜けた山頂の泉から降り注ぐ水しぶきの中に飛び込んでいった。
吹き上げる風とレマイナの守り力にも遮りきれず、下にいる者たちへ雨のように降り注ごうとしていた大量の水は、チュイナに触れると同時にいくつもの蝶に姿を変えた。山頂に向かって吹き出す風に押し上げられるように、きらきらと輝きながら空に舞い上がっていく。
それを追いかけるように、今度は多くの羽音が周囲の空気を震わせて、島の周囲を押し包み、
「えっ、おああああああ?!」
後ろから細い腕に抱きつかれた――と思ったとたん、グランの脚は地から離れ、天頂にぽっかりあいた大きな穴へ向けて飛び上がっていた。
それに気がついた者の多くは最初、山頂から美しい光が吹き上がるのを見たという。
それは水蒸気と光とでできた柱のようにきらきらと輝きながら空に伸びていった。その光に守られるように、黒い霧のようななにかが更に上空に向けて舞い上がったのを見た者も多いが、その黒いものがなんなのかは誰にも見極めることができなかった。
空に高く高く舞い上がっていく黒い霧とは逆に、きらきらと輝く光の柱は薄雲のように一帯に広がり、それが消えて見えなくなる頃には、微かな霧雨が顔や腕に当たるのを感じた者もあったという。
しかし町の住人の大多数は、山頂までをも揺るがす揺れ、そしてふもとの遊水池の方角から響く地鳴りに気をとられ、空を眺めているどころではなかったようだった。
大穴があき、かろうじて庭園の一部と社を残した山頂が、みるみるうちに下方に遠ざかる。光を受けて輝く多くの水の蝶に守られるように飛び上がった羽蟻たちは、更に風に乗り、雲に届くほどに高度を上げている。眼下では、横たわる青々とした山並みと、その斜面に伸びた街道と、中腹に寄り添うサフアの町がまるで地図でも見るように小さく見えた。
そして、サフアの町のすぐ近くの斜面が一部崩れ、そこから水が流れ出して鏡のように広がりながら、空を青く映しているのも見える。
「これは……」
自分を抱きかかえる『イチバン』の首にしがみつく形で、地上を見下ろしていたグランは、状況も忘れて感嘆の声を上げた。
まるで悪者から姫君を救出した騎士のように、“イチバン”は前脚と中脚を使ってグランを横抱きに抱き上げている。人間一人を抱きかかえていながら、“イチバン”はほかの羽蟻たちのどれよりも力強く翅を動かし、飛び抜けて高さを稼いでいた。
先行する“娘”たちを追うように、雄の羽蟻たちが少し遅れて集団を作っている。遠くから見たら、黒い霧が立ち上っているように見えるかも知れない。
ここからは見えないが、エレムもヘイディアも、ほかの”娘”たちが抱えて飛んでいるのだろうか。いくらか考える余裕が出てきて、グランはしがみついた“イチバン”に声をかけようとした。が、それより先に、
「旦那サマ」
四本の脚でグランの体を抱きかかえた“イチバン”は、人間の腕と同じ形をした前肢の片方――人間であれば左手に当たるものを、グランの頬に添えた。グランの唇に、“イチバン”の唇が押し当てられる。
口の中に土の味が広がった。
グランは目を白黒させたが、空を飛んでいるこの状況では暴れることもできない。乙女のように身を固くしているグランの眼前で、椀を伏せたような形の目が一瞬、黒銀の光を放ち、やっと“イチバン”は唇を離した。
「遺伝子情報ノ抽出に成功しまシタ。複製準備へ段階を移行シマす」
「へ?」
「ありがトウございマス、旦那サマ」
「あ、ああ……?」
今の行為と報告が何を意味するのかさっぱり理解できず、グランはただ反射的に頷いた。
文字通り地に足がついていないこの状況で、冷静に考え事などできるわけがない。耳元を吹き抜ける風は次第に冷たさを増し、地はいっそう遠くなって、濃く青い空の下、まるで大陸を取り囲む遠く遠くの海まで見渡せそうだった。