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ラグランジュ ―漆黒の傭兵と古代の太陽―   作者: 河東ちか
漆黒の傭兵と古代の太陽
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17.風の噂、風の公女

 エレムが教会から紹介されたのは、町に中長期滞在をする者向けの宿の二階だった。

 集合住宅形式なので、ひとつの部屋が広く、炊事場や食事室のほかに独立した寝室まである。泊まっている間、部屋の掃除や食事の用意などは自分たちでしなければならないが、宿屋の人間に手間をかけさせない分宿代が安くつくのだ。

 裏手には井戸と洗い場もあるから、洗濯もできるし簡単に体も洗える。普通は短期の利用客は断られるらしいが、教会からの口利きがあったことで、問題なく部屋を取ることができた。

「脱走したのは四〇人が収容されていた区画のうちの、二五人ほどだったそうですよ」

 炊事場で湯を沸かすエレムが、周辺の様子を見がてら耳にしてきたうわさ話を報告し始めた。話と一緒に焼き菓子のお裾分けまで仕入れてくるあたりが、またエレムらしい。

 窓から差し込む光は既に夕刻の色合いだ。テーブルに広げたルエラの地図を眺めながら、グランは無言で先を促した。

「まだ四人が捕まっていないそうですけど、それでも発生から一刻ほどで、町中に散らばった逃走者をほぼ押さえてしまったのだから、なかなかの手際です。市民にも大きな被害はなかったようですしね」

 湯を沸かした鍋を持ってくると、エレムはテーブルの上の燭台に火をいれ、ついでに窓も半分ほど閉じた。夕暮れ時のひんやりした風が、幾分和らいだ。

「そんなに重罪人の牢でもなかったんだろ。煽られた勢いで逃げちまったんだとしても、命をかけるほど必死になる奴もなさそうだ」

「それが、話を聞いたら、変なんですよね」

「変?」

「最初に鍵を奪って牢を次々開け放ったのは、もとから牢に入れられていたのではなく、どうも外部から侵入した人らしいんです」

「へぇ?」

「それで、牢を開ける際に通路に銀貨をばらまいて、拾おうとした者たちに『うまく街の外に逃げ出したら一人につき金貨三枚を渡す』って煽ったそうなんです。実際に金貨が入った袋をちらつかせたものだから、捕まっていた人たちも話に乗ってしまったようなんですよ。そこまでするなんて、いったいなにが目的だったんでしょうね」

「……捕まってた仲間を逃がすために、周りを巻き込んで騒ぎを大きくしたんじゃないのか?」

「目くらましにですか? あり得ない話ではないでしょうけど……」

 エレムは腑に落ちない顔で首を傾げると、並べたカップに固形の糖蜜を放り込んだ。その上から、檸檬れもんの実を半分に割って汁を搾り、湯を注いで混ぜている。

 どうやらエレムはもらってきた焼き菓子で、お茶にするつもりらしい。

 焼き菓子と糖蜜湯の匂いに誘われたのか、それまで床に寝転がって絵札で遊んでいたランジュが、嬉々とした様子でグランの隣の椅子に這い上がってきた。だがエレムはやんわりと、

「あ、ランジュは先にその樽の水で手を洗っておいで」

 また降りるのが面倒なのか、ランジュが恨めしそうにエレムを見上げた。

 エレムは温和なようで、衛生的な面ではなかなか融通が利かない。紙包みを広げて焼き菓子を皿に取り分けたものの、それをランジュの前に出そうとしないのだ。ランジュは仕方なくまた椅子を降り、ぱたぱたと炊事場の樽まで手を洗いに行った。

「……煽った奴も、まだ捕まってないのか」

「そうみたいですね。でも、だいぶ騒ぎは落ち着いたようですよ。見回りの衛兵がいつもより増えて、かえって安心だ、なんて話も聞きました。やはり街道が近いと旅人の出入りも多いから、夜はなにかと物騒なんでしょうね」

「街を出てるなら、もう放っておいてもよさそうだけどな」

「そういうわけにもいかないんでしょう。……えらいね、ちゃんと洗って手も拭けたね」

 言われたとおりに手を洗って戻ってきたランジュを笑顔でほめてやると、エレムはやっと、小分けにした焼き菓子の皿とカップをランジュの前に差し出した。ランジュは目を輝かせ、さっそくその一つにかじりついた。

 別に腹が減っていたわけではないが、ランジュがやたら美味しそうな素振りを見せるので、グランも釣られて焼き菓子に手を伸ばした。いろいろな木の実が練り込まれた生地を薄く堅めに焼いたものだが、甘みのほかにほのかに塩気があって、なかなかうまい。

 ふと視線を感じて目を向けると、口のまわりに粉を散らして焼き菓子をほおばるランジュが、とても嬉しそうに笑顔を作った。どうやら『おいしい』ということを共感したかったらしい。

 自分も椅子に落ち着いて糖蜜湯をすすりながら、エレムが微笑んだ。

「本当に親子か兄妹みたいですねぇ」

「和んでるんじゃねぇよ」

「親子じゃありませんー。グランバッシュ様はわたしの所有者ですー」

「それはもういいから」

 グランが苦い顔で吐き捨てる。エレムは笑いながら、自分も焼き菓子に手を伸ばした。

「……そういえば、さっきご挨拶に行った教会の方から聞いたんですけど、少し東の国のカカルシャの式典に、大公の代わりに参加するはずだったエルディエル公国の第五公女が、この近くの街道で旅の隊列から姿を消したらしいんですよ」

「へぇ」

 カカルシャは、この国からそう遠くない小国だ。といっても、この南西地区ではエルディエルが圧倒的な勢力を誇っていて、それ以外はほとんどが、同じような規模の小国ばかりなのだが。

「式典に参加とはただの名目で、実際はカカルシャの王子とのお見合いらしいですけど。第五公女とはいえれっきとしたとしたエルディエルの姫君ですから、かなり大騒ぎになってるようです」

「姿を消したって、自分で逃げ出したのか」

「賊に襲われたとか、さらわれたいう話でもなさそうでした。普段からおてんばな姫君として有名な方らしいですから、縁談だと勘づいて逃げ出したんじゃないかって噂です。でも自分の領国内でもないのに旅の一団から抜け出して、盗賊なんかに捕まったらどうするんでしょうね」

「そんな思いきりのいいお姫様が、今の時代にもいるんだなぁ……」

 おとぎ話ならともかく、世間知らずのお姫様が一人で抜け出して気ままに大冒険だなど、現実にできるわけがない。盗賊に捕まって身代金でも要求されるか、敵対国に引き渡されて交渉の材料にされるか。でなければ山の中をさまよい歩いて、餓死だの転落死だのがいいところだろう。

 エルディエルは、小国の林立するこの大陸南西部では一番の大国だ。歴史も長く、周辺に対する影響力も大きい。それにここ何代かの大公が、安定した内政と友好的な外交を重視してきたので、大陸南西部は全体的に情勢が落ちついて旅もしやすいという。

 天空神ルアルグが国家の守護神で、実際にルアルグ教会の総本山もエルディエルにある。大公家とのつながりも深い。

 しかし、一国の守護神として認知されているせいか、ルアルグの教会建屋はレマイナのほど数が多くなく、それも大陸南西部のごく狭い範囲にしかない。必然的に、ルアルグの神官もグランは今まで見たことがないし、法術師がどんな法術を使うのかもいまいちぴんと来なかった。

 まぁ、自分たちに関わりさえしなければ、逃げ出そうがなんだろうが勝手にやっててくれて構わないのだが。

 グランは流しの傭兵だ。それなりに長く旅をしているから、想定外の事件や事故に遭遇することも、ままあった。ただ、今日みたいな集団脱走事件など、さすがに日常茶飯事だと笑っていられない。

 あれはやはり、『ラグランジュ』の影響力のせいなのだろうか。

 自分が『ラグランジュ』を返品するのには、相応の苦労をしなければいけないらしい。そのために『ラグランジュ』自身が厄介ごとを引き寄せているのだとしたら、

「……やっぱりただの疫病神じゃねぇか」

 思わず呟きながら、妙におとなしいランジュを見てみれば、今度は糖蜜湯のカップを両手に抱えたまま、こっくりと船をこいでいた。さっきまで食べていたと思ったのに、なかなか忙しい。

「ありゃ……先に晩御飯にすればよかったかな」

 慌ててランジュの手からカップを外すと、エレムは絞った布でランジュの口元を拭いてやっている。眠りがまだ浅いのか、ランジュは薄目をあけていやいやをするように顔を背け、すぐにまたこっくりしはじめた。

 エレムは、ランジュの胸元やひざにこぼれている焼き菓子の粉を払い落としてやると、小さな体をひょいと抱き上げ、寝台のある部屋に運んでいった。

 戻ってくると、今度はランジュが遊んだままの絵札を片付けている。

 手間のかかる小さな子を世話する、まるで母親のような表情だ。本物の人間の子どもを世話しているような気にでもなっているのかも知れない。

「普通の家の子供は、こういう感じに育てられるんでしょうか」

「んー?」

 自分のような者にくっついていること自体、まず普通ではないと思う。それにあれが子供に見えるのは、絶対外見だけだ。

 そうは思ったものの、グランは結局なにも言わなかった。ラムウェジと旅していた頃の自分と、ランジュを重ね合わせているらしいのが察せられて、さすがに茶化す気にはなれなかったのだ。

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