8.土の記憶<3/6>
いや、立っているのは、古い時代の全身鎧だ。村の広場や塔の前に立つ銅像が着ているものと、ほぼ同じ形をしている。まるで作られたばかりのように美しく、傷も錆もないそれは、燭台の灯りの下でも鋭い銀色の輝きを放っている。
その横には、夢の中で鎧の男が持っていたのと同じ、槍のような武器の柄が立てかけられていた。
ただこれには、剣身をそのままとりつけたようなあの刃はついていない。木製の柄の先に、刃を取り付けるための金具がついていて、それが柄の三分の一を覆っているので、一見しただけだと簡素な杖のように見える。
小柄な大人なら二人は楽に入れそうなほどに大きい鎧を見上げ、ランジュを抱いたままのエレムは目を瞬かせた。
「これは……? あの英雄の甲冑を、わざわざ再現したんですか?」
「いえ、これは本物なのです。数多の戦場を制した英雄ボーデロイが、死の間際まで身につけていた、本物の」
「本物?!」
村長の説明に、グランとエレムは揃って驚きの声を上げた。
幾千という敵を蹴散らした戦士の甲冑だ。多くの武器から主を護ってきただろうし、人や馬の血だって浴びているはずだ。経た年月を考えれば、どれほどまめに手入れしたところで、作られらた時のままのような美しさを保っていられるとは考えにくい。
「その、胸にある飾りをよくご覧になって下さい」
言われて、グランは司祭から燭台を受け取り、鎧に近づいた。
その胸元には、鎧の素材とは別の銀色の丸い飾りが埋め込まれて、ひときわ鮮やかに輝いていた。これは、夢の中の戦士の鎧には付いていなかったように、グランには思えた。
胸元にある飾りは一見すると、紋章のように見えた。だがよく見ると、元から鎧の一部として意匠されたものではないらしい。
それは、銀貨を土台にしたものだった。とても古い時代の銀貨のようで、銀の含有率が今の銀貨とは違うのが光沢からも見て取れる。
銀貨には葡萄の葉を主題にした文様が刻まれている。この銀貨が作られた時代、既に葡萄はこの地方の代表的な産物だったのだろう。
その銀貨の縁には、銀貨には本来あるはずのないものがついていた。
小指の爪先ほどの大きさの淡い茶褐色の石が七つ、等間隔に埋め込まれているのだ。
「これは……煙水晶ですか?」
「そうです」
「煙水晶?」
即答したエレムに、司祭は感心した様子で頷いた。いぶかしげなグランには、
「カーシャムの神官が、死者の弔いの証しに用いる石です」
「カーシャム……ああ」
やっと出てきた聞き覚えのある単語に、グランは改めて甲冑の胸の飾りを見直した。
「それは判ったが、このことと、夢にあの英雄が出てきたのと、どう関係あるんだ?」
「英雄ボーデロイは、今でも自分を殺した者を探しているのです」
不安げな村長に目配せすると、司祭はグランをしっかり見据えた。
「そしてそのボーデロイを斃した者は、黒髪の女であったと伝えられているのです」
グランは思わず、エレムに抱き上げられたランジュに目を向けた。ランジュはそろそろ泣いているのにも飽きたらしく、ぼんやりした顔でエレムの肩に頭を預けている。
「英雄ボーデロイは、もとはこの一帯のどこかの村の、農家の息子です。どの村かはっきりしたことは判っていませんから、近くの村をいくつか訪ねれば、そのどれもが『ここは英雄ボーデロイの生まれた村だ』と言うでしょう」
「この村は違うのか?」
「そうかも知れませんし、そうでないかも知れません。でも、この村にはそんなことよりももっと重要ではっきりした事実があります。この地でボーデロイが亡くなったということです」
教会建屋の司祭の自室に場を移し、温かな蜂蜜湯を供されながら、グラン達は司祭と村長の話を聞いていた。夜もだいぶ更け、本当ならこんな時間はぐっすり眠っているはずのランジュは、エレムの膝の上で蜂蜜湯のカップを両手で抱えて舐めるように飲んでいる。
「ただの平民であったボーデロイは、歩兵という形で軍に徴用されていったと思われます。なんの経験もない、装備の薄い歩兵は本体の盾代わりで、今でも生き残る可能性は低いそうですね。それでも、彼はひとつの願いを胸に、功績を重ねていきました」
「願い?」
「『誰よりも強くある』ということです」
「誰よりも強く……」
グランは夢の中の、一面が死体で覆われた光景を思い出した。あれは夢がなにかを象徴しているものではなく、実際に繰り広げられた光景であったのかも知れない。
「ボーデロイの強さは、自軍だけではなく敵軍にまで伝わり、実際に彼の活躍で、この地は幾たびも敵軍の侵入を防ぎました。そのたびに地は敵の死体と血で満ちて、やがて彼がいるというだけで、一万の敵が恐れて近寄らなくなるまでになったといいます。彼の願いは達成されたはずでした。ですが、強くなると共に、多くの人の命を奪ったことで、ボーデロイの心は確実に蝕まれていたようです。
ボーデロイはいつしか戦場では、敵味方の区別なく襲いかかるようになりました。強さを求めつづけたあまり、周りにいる者全てに死をもたらす、ただの殺戮者になってしまったのです。一度武器を持った彼を、正面からまともに止められる者は誰もいなかったと言います。このままでは兵士だけでなく、周辺の村人まで皆殺しにされてしまうと誰もが恐怖を覚えた矢先に現れたのが、美しい剣を携え、真っ黒な法衣に身を包んだ黒髪の女性でした」
「カーシャムの神官、ですか……」
エレムがどこか納得した様子で呟いた。
カーシャムは、眠りと死を司る神だ。裁きの女神ジェノヴァの兄弟神に当たる。
黒い法衣を身につけた神官達に、法術は与えられていないという。法術の代わりに彼らは皆、卓越した剣の技術を身につけている、というのが通説だ。
戦乱の時代、カーシャムの神官達は戦いの終わった戦場に赴き、死にきれず苦しみ、どう手当てしても長く生きながらえることのできない者たちに、安らかな死という祝福を施したという。最近まで情勢の落ち着かなかった北西部では、常識のように知られている話だ。現在ではその役割は影をひそめているが、並外れた剣の技量を課せられるのは今も変わらない。
彼らは富や権力のために戦うわけではないから、よほどのことがない限り一介の戦士が剣を交えることはない。それでもその強さは、半ば伝説のように各地に知れ渡っている。
神官達が受ける剣術試験は各教会共通なので、それにエレムが通っているのは、実は相当にすごいことでもあるのだ。