39.溶燦の太陽と道標の月<1/6>
外まで見送りに来たロキュアとラティオに最後の挨拶をして、グラン達は待っていた馬車に乗り込んだ。昼は過ぎたが、日はまだ高い。夕方にはもとの街道に戻れるだろう。
馬車が町を出て、平坦な草原の中の道に出ると、さっき食べていたパンで満足したらしいランジュは、エレムの隣でうつらうつらとし始めた。まったくこいつは、食っているか遊んでいるか寝ているかで一日の大半を過ごしている。夜ももちろん寝ている。
「……えーっと」
ランジュが反対側に頭をぶつけないように、自分に寄り添わせてやりながら、エレムがおずおずとした様子でグランに話しかけてきた。さっきのローサの行動についてなにか言いたいのだろうが、上手い切り出し方が思いつかないらしい。
グランは窓枠に肘をかけたまま息をついた。
「まったく、危なくロズのペースにまた巻き込まれる所だった」
「え?」
「考えてみりゃ、ロズが『ラステイア』を手に入れたことと、ロズが俺の昔の女だったってことには、なんの関係もないんだ。ロズが『ラステイア』の力で望みを叶えて、あとから跳ね返りを受けようが、それはロズ自身の責任で、そのへんは俺にもお前にもランジュにもなんの関わりもない。そうだよな?」
「はぁ……」
「『ラステイア』が昔の俺の姿をとって現れたもんだから、なんだか俺にもあいつらに責任があるような、妙に後ろめたいような気分になってたけど、それは別の話なんだよな」
グランがなにを言いたいのかいまいち判ってない様子で、エレムは曖昧に頷いた。
「今でも俺を忘れてないような感じで、それは正直悪い気はしなかったけどさ……。基本的にロズが男に尽くすのは、自分のためなんだ。“自分が”なくてはならない存在だって思ってもらいたくて、あれこれ頑張っちまうのさ。さっきのあれで思い出した」
あれ、と聞いてエレムは気まずそうな顔をしたが、グランは構わず続けた。
「お前ならさ、自分の死に際に会いに来た昔の女に、『僕のことはいつまでも忘れないでくれ』なんていうか? いくら気持ちが残ってても」
「え? それは……」
「相手が本気で好きな女なら、その分だけ余計にかっこつけねぇか? 『僕のことは早く忘れて別のひとと幸せになってくれ』ぐらい言うだろ、嘘でも。相手のためにさ」
「ああ……そうか」
エレムはやっと納得した様子だ。ローサのあれは、つまりはそういうことだ。
「こんな状況で、自分の命も長くないってのに、やっぱりあいつは変わってない。子ども達に関しては、あれが逆に上手く作用してるんだろうけどさ。もしロズが健康で人並みに長生きしたとして、いずれあの娘達が親離れをするような年頃になったときに、また問題が起きるんだろうな」
「子どものうちは、親からの愛情表現は判りやすいほうがいいでしょうからね。そうか、小さな子どもを愛するように、恋人を愛する人なんですね。それじゃ、グランさんには余計に窮屈に思えたでしょうねぇ、年中反抗期みたいなものだし」
「うるせぇよ」
吐き捨てたグランに、エレムは小さく笑った。
「ローサさんは子ども達のことを心から想っているようすなのに、グランさんにもやっぱり執着してるようだったので、なんだか不思議な感じだったんです。女性にとって、母性と女性性って相反するものではなくて、均衡を保って同じように存在してるのかも知れませんね」
そうなのかも知れない。その均衡が上手く保てなくて、母性の方が切り離されてしまったように見えるのがヒンシアの伯爵夫人で、逆に極端に混ざり合って境目が見えなくなってしまったのがローサなのだろう。
一〇年ローサが立ち止まってる間に、グランは一〇年分を歩いた。もしグランが初めて出会ったとき、既にローサが病を患っていたなら、ひょっとしてあの『グラン』に近い自分がいた、という可能性は否定できない。
でも、もう無理だ。自分はローサの望む理想の『グラン』にはなれない。ローサだけではない、誰の望む姿にもなれない。
ローサは今のグランにとっては古い知り合いに過ぎない。苦労してきた分、最後くらいはできれば平穏に、と思うのは、友人に対して普通に抱く人間的な感情で、それ以上の特別なものはなにもないのだ。
グランを縛り付けようと絡みついていたローサの感情の呪縛も、自覚してしまえばもうなんの効力もなかった。グランはだいぶすっきりした気分で、また窓の外に視線を向けた。
しばらくは特に話すこともなく、窓から入ってくる風の音と、馬車の車輪の音だけが聞こえていた。
街道が、山あいの草原地帯から、木立の中の坂道にさしかかったのは、フスタの町から出て一刻ほど経った頃だった。影が多くなり、窓から入ってくる風が幾分気温を下げたせいか、ずっと眠っていたランジュが目を覚ました。
ランジュが喉が渇いた素振りを見せたので、エレムが荷物袋から水筒を出して飲ませてやった。それで完全に目が覚めたらしく、ランジュはまた一人で遊ぼうと、斜めがけにしていたかばんを膝の上に載せて、はっと顔を上げた。
「うさぎさんが、いないのです」
気に入ってずっと持ち歩いていたうさぎが、そういえば入っていない。でもうさぎは、マルヌの村を出た頃から既に入っていなかった気がする。結局姉妹の小さいのにあげたのか、エレムの荷物袋にでも入っているのかと思って、グランは気にもしなかったのだ。
ランジュはおろおろした様子で、自分の周りに落ちていないか一通り探ったあと、泣きそうな顔でグランとエレムを見た。
「……貸したまま、忘れてきちゃったみたいです」
「みたいだな」
「うさぎさん、いないと困りますー」
そういえば、そこそこ感情表現が豊かなランジュだが、こんなにうろたえたるのは今まで見たことがなかった気がする。
「もうだいぶ来ちまったしなぁ。いいだろ人形くらい、同じようなのどっかで買ってやるよ」
今更戻るのも面倒だ。ローサにまた妙な期待を持たせたくもないし、子ども達の今後の生活も心配がなくなった以上、これ以上ローサの欲を刺激して、『ラステイア』の力の反作用をよりおおきなものにさせたくもなかった。
だがランジュは、グランの言葉を聞くと、信じられないと言うように目を見開いた。
「かわりなんか、ないのです。うさぎさんはうさぎさんなのです」
「え? おい」
それだけ言うと、ランジュは涙をぼろぼろこぼしながら大声で泣き始めた。