32.昔の俺と今の俺<5/6>
薬を飲んで少し休んだからか、さっき見せていた疲れた様子は今はもうなかった。ローサは寝台の上で、たくさんの枕を背中に入れて起き上がっていた。窓からは、外で遊ぶ子ども達の姿がよく見えた。
「ランジュちゃん、仲良くしてくれてよかったわ。この村じゃ、ほかに遊び相手もいないものだから……」
グランが入っていくと、嬉しそうに外を眺めながら、ローサが声だけをグランに向けた。テーブルには、いつの間に持ってきたのか、さっき子ども達が作って遊んでいた花の冠が置いてあった。
こんな小さな村では、当然学校もないだろう。町の教会まで行けばほかの子供達と遊べたり、学ぶ機会もありそうなものだが、この様子ではそこまでしてやれなそうだ。
あの子供達は絵本を読んでいたから、ある程度の読み書きは教えているのかも知れないが、友達までは用意してやれなそうだ。
「ロズの子どもじゃないんだって?」
「……そうなのよ、おかしいでしょ」
近くの椅子に腰掛けたグランに、ローサは自嘲するように唇の端を持ち上げた。
「一生懸命やってるつもりなんだけど、なにかがかみ合わないのよね……。それをなんとかしようと思ってるうちに、余計におかしくなっちゃって」
「でも、可愛がってんだろ」
「ええ」
「じゃあ、それでいいじゃねぇか。ロズらしいや」
グランの答えに、ローサは少し複雑な表情をしたが、すぐに穏やかに目を細めた。
「男の人の一〇年ってすごいのね……。あのグランが、こんなに大人になってしまうのね」
「男か女かじゃねぇよ。人によりけりだろ、そんなの」
「そうね……私はなにも変わらなかったわ」
ローサは笑顔のまま、ため息をついた。
グランは少し考えて、自分の胸元に指を入れ、細い革紐をたぐり寄せた。あまり人には見せないが、胸当ての下にいつも下げているものだ。
革紐を通され、一緒に出てきた真鍮の指輪を見て、ローサは驚いた様子で目をしばたたかせた。
「まだ持ってたの? あなたが持って行ったんだろうとは思ってたけど、たいしたお金にもならないだろうし、もう捨てたものだと……」
女の指に合わせた寸法だから、グランには小指でも難しい。はまっている朱赤の小さな石も、色のついたただのガラス玉だ。
「持っててかさばらないものが、ほかに思いつかなかったんだよ。別に金目当てで持ち出したわけじゃねぇよ」
「そうなんだ……私のことが嫌で出て行ったと思ってたのに」
「あ、持ってるのはこれだけじゃないぜ」
グランはわざと意地悪く笑うと、革紐の残りの部分を全部たぐり寄せた。一緒に、ローサの指輪と同じように革紐を通された、いろいろなものが出てきた。大きさも様々で、指輪以外にも耳飾りや、服や剣の一部だったものもある。もとの持ち主も様々だ。ローサは目を丸くした。
「別に、別れた女の数自慢じゃねぇぞ。一緒に仕事した奴のとか、もう会えない奴のとか、いつかそいつの家族に渡してやろうと思ってそのまま持ってたのとか、……とにかくまぁ、いろいろだ」
「そう……いろいろな経験をしてきたのね」
「生きていく人間ができる一番のことは、忘れないでいてやることだって、俺は思ってるんだ」
ローサは手を伸ばし、やせて骨張った指で、かつて自分のものだった指輪に触れた。ぶつかりあっても音が出たり傷ついたりしないように、錆止めを兼ねた透明な樹脂が塗られている。昔とは手触りが違うのを不審に思うかも知れない。
「覚えてるっていうのは、そばにいなくても、一緒に生きてるのと同じだって思ってさ。そう考えたら、おちおち自分が死んでられねぇだろ」
「一緒に、生きてる……?」
「ここにな」
グランは親指で、自分の胸を示した。ここに来て初めて、ローサの瞳が、淡く揺らいだ気がした。
「これ、俺がもらっといていいか。今更だけど」
「ほんと、今更ね」
ローサは瞳の縁から涙をこぼすこともなく、指輪から離した手をグランにさしのべた。握ってやるべきなのだろうか。ローサがそれを望んでいるのは痛いほど判った。それ以上のことも。
だが、グランは首を振った。
ローサはしばらくグランを見つめ、呆れたように微笑んだ。
「そういう融通の利かないところは相変わらずなのね。グランらしいわ」
「俺が、そう簡単に変わるもんか」
嬉しそうな、がっかりしたような、不思議な笑い方だった。ローサは手を自分の体の上に戻し、首を傾げた。
「グランは今、いい人はいるの? ひょっとして、もう結婚してたりとか?」
問われて、一瞬頭の端をよぎったのは、銀色に夜を染める青白い月の光だった。グランは首を振った。
「まさか……こんな暮らしでそんな余裕はねぇよ」
「あら、今絶対、誰かのことを思い出してたわ」
言葉に詰まったグランを見て、ローサは小さく声を上げて肩を揺らして笑っている。ひとしきり笑うと、少し苦しそうに息を整えながら、ローサは呟くように言った。
「グランが出て行ったのは、やっぱり私のせい?」
「さぁ……」
グランは頭をかいた。そろそろ夕暮れの色が近くなった太陽の色が窓から柔らかく差し込み、空に浮かぶ雲に強い陰影をつけ始めている。
「俺がガキだったんだよ、たぶん、それだけだ」
「で、本当のところはどうだったんですか?」
風呂上がりの三人の子どもの頭を順番に拭いてやりながら、エレムが聞いてきた。さすがにエレム一人では手が余るようなので、グランはタオルをかぶったランジュの頭を、片手でぐりぐりかき回した。エレムとは違う雑な扱いが逆に面白いのか、ランジュは髪をくしゃくしゃにしながら笑い声を上げている。
「グランさん、そんな拭き方したら髪が絡まっちゃうじゃないですか、自分だって髪が長いんだから判るでしょう?」
「めんどくせぇなぁ、乾けばいいじゃねぇか」
小さな姉妹は、揃って不思議そうな顔で、ランジュの相手をするグランを眺めている。自分達の『グラン』と違うのは判っているのだろう、あまりグランには積極的に近づいてこない。