7.嵐が過ぎて後始末<前>
日中多かった雲も、夕刻前にだんだんと切れて、今夜はとても天気が良くなりそうだった。グランははすっかり乾いた鞘に剣を収めて帯きなおし、エレムの剣を抱えて天幕の入り口を開いた。
エレムは少し厚めに敷かれた夜具の上に横になり、背中にいくつか丸めた毛布を入れてよりかかって本を読んでいた。グランが入ってきたのに気付くと、幾分疲れたような笑みを見せた。
濡れた法衣は介抱の時に着替えさせられ、今は町で調達した夜着をそのまま着せられている。
枕元に置かれた水差しの水は、最初の半分ほどに減っている。水差しの置かれた盆には、一緒に、桜桃の小さな実が皿に盛られていた。少しは食べたらしく、桜桃の種と枝が盆の隅に転がっている。
「起きて平気なのか」
「上を向いて横になっていると、背中にできた傷が痛いんですよね。こうして少し起きていた方が楽なくらいです」
「ああ」
「でも、薬を頂いたおかげで、しばらくは痛みも感じずに眠ることが出来ました」
グランがあぐらをかいて座ると、本を閉じたエレムは気まずそうに頭をかいた。
「なんて、レマイナの神官としてはお恥ずかしい限りです。いざって時にこそ皆さんのために動けないといけないのに、真っ先に体力切れで、自分で自分の面倒も見られなくなるなんて」
「あの状況じゃしょうがねぇだろうが。お前が後ろで盾になったから俺は無傷だったんだから、でかい顔して寝てりゃいい」
「でもそれはグランさんのせいではないですし」
「なんだよしけたツラして。気持ち悪いな」
それもそうですね、本当ならグランさんがここで寝たんですね、くらい言うかと思ったのに、エレムは妙に力ない。まぁ、熱で安静にしている奴が、元気いっぱいなわけはないのだが。
「まだ熱下がってねぇんだろ。少しよくなったからって、無理して本なんか読んでたらまたぶり返すぞ」
「そうなんですけどね……」
曖昧に答えて、今度はため息までついている。今はあまりいじらない方がよさそうだ。グランは持ってきたエレムの剣を差し出した。
「鞘の傷は埋めておいた。明日にでもヤスリかけてやるよ。もう夕方だしとりあえず返しておく」
「ああ、ありがとうございます。そういえばこれを背負ってたおかげで、ひどい傷にならなくて済んだんですね……」
エレムは嬉しそうに剣の鞘を撫でた。顔は笑ってはいるが、やっぱりいつもより精彩に欠ける。晩飯を食わせたら、朝まで薬で寝かしつけておいた方が良さそうに思えた。
鞘の傷を埋めた部分は、周りより少し盛り上がって、まるで人間の皮膚の傷がふさがった跡のようだ。エレムは力ない笑顔のまま、その修理跡に指で触れている。
「……グランさん」
「なんだよ」
「僕達のしたことは、正しかったんでしょうか?」
「はぁ?」
エレムは鞘を見下ろしたまま、顔を動かさない。その横顔から笑顔が消えたので、グランは小さく息をついた。
「なにをだよ?」
「城の動力炉が修復を完了しないまま、動力炉自体の蓄えた魔力が全て失われれば、多少伯爵夫人が魔力を残していたところで、修復も再稼働もできなかったはずですよね」
「理屈はそうだな」
「だったら、夫人を生かしておくという選択肢もあったんじゃないかとも、今になって思うんです。キルシェさんなら、他人の持つ魔力を吸い取る方法も知っていたかも知れないし……」
「なんだ、そんなことか。それはどっちみち無理だったぞ」
グランは水差しからカップに水をついで、勝手に一杯飲みほした。半日、天幕の中で放っておかれた水差しの水は、だいぶぬるくなっていた。
「あの急な歳の取り方を見たろ。あの女の外見は、魔力で無理に維持されてたんだよ。魔力が供給されている間はいつまでも若くて綺麗だが、一旦供給が止まったら、本来の年よりもずっと年を取った。その辺の理屈はよく判らないが、残ってた魔力が失われたら、老化はもっと進んで結局老衰だったろう」
「でも、それでも最期に、ご家族の方に会える猶予くらいはあったのかも知れませんし」
「俺もお前も、警告はしたろうが。その答えがあの火の玉だったろ」
体調が悪いせいで、気分まで不安定になっているのかも知れない。根が真面目な奴だからなぁ。
「あれでよかったんだよ。夫人は若くて綺麗なまま、家族や、領民の記憶の中に生きてられるんだから」
「そりゃあ、死んでいく人はそれでいいのかも知れませんが」
そこで納得するかと思ったら、エレムは予想外に食い下がってきた。
「グランさんが、ウァルトさんに伯爵夫人の指輪を渡したら、態度が一変しましたよね。正直、あんな風に泣き崩れるなんて思ってませんでした」
「あ……まぁ、なぁ」
「死んでいく人は、自分の理想に近い死に方ができて満足だったかも知れないです。でも、残されて生きていく人にしてみれば、伯爵夫人は、死に目に子どもである自分達に声をかける事よりも、若く美しいまま誰にも会わずに死ぬことのほうが大事だったのか、後々いろいろ考えてしまうのではないかとも……」
「そこまで考えたらきりがねえ」
グランは肩をすくめた。
「一回剣を抜いたら、俺達にできることは『その場にいる人間の最善』を考えることだけだ。そこにいない人間の後々のことまで、責任は持てねぇよ」
「そうなんですけどね……」
「たとえ夫人を生きたまま連れ帰ったとしても、理想のお別れができたとは限らねぇよ。別の『もしも』が生まれるだけだ。いいんじゃねぇの、生きていく人間は、ちょっと後悔するぐらいがちょうどいいんだよ」
エレムはまだなにか考えている様子だったが、とりあえず口を閉ざした。グランは今になって、エレムの隣でうさぎの人形が、毛布の中から顔をのぞかせているのに気がついた。ランジュが気に入って、かばんに突っ込んで持ち歩いているものだ。
リオンやオルクェル達だけじゃない、人間かどうかも判らないあんなちっこいのにまで心配されてるのに、なんでこいつはこんな時まで他人のことで悩んでやがるんだ。グランはいろいろ面倒くさくなって、エレムの頭の上に右の手のひらを押しつけて、わしわしと髪をかきまわした。
「ちょ、ちょっと」
「うるせぇ、言い足りないことがあるなら、後でまとめて聞いてやる。とりあえずさっさと熱を下げろ、話はそれからだ」
かき回されて乱れた頭を両手でおさえながら、エレムは頷いた。顔は上げなかったが、苦笑いする口元が見えたので、グランは手を離して立ち上がった。
「飯の時間にまた来るからな、本もいいが無理すんなよ」
「判ってますよ」
夏だから日は長い。それでも、炊事と夜の保安用を兼ねた焚き火が、天幕村のあちこちで焚かれ始めていた。見回すと、昼間よりも人影が多い。町に行っていた兵士が戻ってきているのだろう。
聞けば、今夜はエスツファが町に残って、ルスティナとその配下の部隊が戻ってきているらしい。エルディエルとルキルアの部隊が町にいても、もうあまりすることはないはずなのだが、やはりウァルトに対して『目を光らせている』と圧力をかけるのも必要なのだろう。
あのおっさんのことだから、酒場で適当にやっていそうな気もするが。
リオンとランジュは、炊事当番の兵士の手伝いをしている。リオンはともかく、ランジュがいったい何の役に立つのかは判らないが、小さいのがちょろちょろしているだけで、ほかの兵士達も和むらしく、嫌がられている様子はない。グランはすることもないので、ぶらぶらとルスティナの天幕に向かって歩いていった。
天幕の入り口は開けっ放しになっていた。閉じられるのは、不在の時と仮眠の時くらいで、基本的に入り口が開いている時はあまり声をかけるのに気を遣わなくてもいいことになっている。近くにいた見回りの兵士に手を挙げて挨拶してから、グランは中をのぞき込んだ。
かけようとした声を、グランはそのまま呑み込んだ。書類の整理でもしているかと思ったのに、ルスティナはマントも外さないまま、敷物の上に置いた座布団に埋もれるように横になっていた。寝るならちゃんと寝ればいいのに、ちょっと転がるつもりでそのまま眠ってしまったのだろう。
そこで黙って立っているのも変な気がして、グランは天幕の中に入った。
ルスティナは、体の右半分を下にして、まるで遊び疲れた子どものように丸くなって横になっている。将官の服とマントのままなのに、寝顔はひどくあどけない。
特に急な用事があったわけでもないし、声をかけて起こすのも悪い気がする。でも入ってしまったのに、黙って戻っていくのもどうかと、グランはルスティナから少し離れて腰を下ろした。
横のテーブルには、小さな櫛と、香水瓶くらいの大きさの霧吹きが置いてあった。櫛は革づくりの入れ物から出したままだ。どうやら、それなりに使ってはいるらしい。教えられたとおり、霧吹きで少し吹いてから髪を梳いているのか、ほのかに花の香りがする。
他に人がいるわけもないのだが、グランはなんとなく辺りを見回してから、そっとルスティナの前髪に手を伸ばした。