42.漆黒の傭兵と炎蛇の女王<2/5>
ホールからの階段はゆるやかに弧を描いて、三階まで続いている。普通に歩く分には不自由はない幅だが、剣を抜いてとなるとやはり動きが制限されそうだ。
グランが先に立ち、階段を上った。らせんの途中で鉢合わせした使用人が、グランに向かって不慣れに武器を振りおろそうとする、その懐に入り込み、利き手を打ち据えて武器を払い落とす。
そのまま腕を掴んで下方に向けて引っ張りおろすと、後は適当にエレムとオルクェルが首筋や胸元を打っては気絶させる。
それを三回ほど繰り返したところで、やっと三階にたどり着いた。
そこでも使用人達が武器を持って待ちかまえている、かと思っていたが、三階の廊下に待ち伏せは全くいなかった。
代わりに、空中庭園に続く扉の前で、二人の使用人の女が抱き合うように座り込んでいる。
彼女たちの背後には、屋上庭園に続く扉があった。半分ほど開かれた扉からは、霧を含んだ風と、外の炎が照り返した赤黒い光が差し込んできていた。
どうやら二人は外に出ようとして、あまりの光景に驚いて腰を抜かしたらしい。グラン達が館の関係者でない事も気付かない様子で、近寄ったオルクェルに、女の一人がガタガタ震えながらすがりついた。
「奥様が……奥様が、得体の知れぬ老婆に」
視線の先には、開いたままの玉座の間の扉がある。この階の廊下は燭台がつけられておらず、小さな窓から差し込むおぼろな光だけが、かろうじてそこに廊下があることを示していた。
その廊下に、玉座の間の扉から異様な赤黒い光が伸びて、そこだけが悪い夢のように揺らいでいる。
「……ほかの女性の方々は、どうしてるんですか? みなさんちゃんと外に逃げてるんですか?」
「いえ、外からの呼びかけは聞こえておりましたが、衛兵達に、あれは奥様を陥れる者の策略だから聞いてはいけないと言われ、女は皆大広間に閉じこもっております」
「大広間というと、昼餐会の行われていた場所であるな」
オルクェルの声に、女は青ざめた顔で頷いた。
「私どもが広間に行く途中、玉座の間をのぞきましたら、奥様の服を着た恐ろしい顔の老婆が玉座に座って、周りに血のような色の炎が……」
それで、驚いてここまで戻ってきたのだ。屋上に出ようにも外もとんでもないことになっているし、かといって玉座の間の前を通るのも恐ろしいしで、動けなくなってしまったのだろう。
「あれは、伯爵夫人ではなく、夫人に入れ替わって城を乗っ取ろうとしている魔物です」
もう一人の背中をさすってやりながら、エレムが真摯な顔つきで言い聞かせた。
「このまま城に残っていたら、皆さんまであの魔物に生気を吸い取られてしまいます。波が落ち着けば外から助けが来てくれますから、立てこもっている方にも建物から出るように、もう一度伝えてください」
「で、でも……」
「お二人とも、玉座に座ってる老婆を見たんでしょう? それがあなた方の奥様なわけがありませんよ、皆さんを騙しているのはあの魔物の方なんです」
さすが、グランが説得するよりも効果はてきめんだった。人の好さそうな顔のエレムに、真剣な表情で諭されて、女二人は青ざめながらも顔を見あわせて頷いた。
「私達が魔女の気を引いてるうちに、広間に急ぐのだ」
オルクェルにも手を貸されて、二人は足元を震わせながらも立ち上がった。
女達の足に合わせて玉座の間の前までたどりつくと、まずグランが中をのぞき込んでみた。
広い部屋の奥で、確かに玉座を囲んで赤黒い光が揺らいでいるのが見える。なにか剣呑なものでも飛んでくるかとも思ったが、特にそういう気配はない。グランは頷き、先に中に入った。
玉座周辺は、陽炎のように揺らぐ光の製ではっきりとは見えない。玉座の中央に、青っぽい影が座っているのが判る程度だ。気配はもう、人とも獣ともつかないが、とにかく生きた人間に近いなにかがそこにいる。
二人の女を廊下の先に行かせてから、エレムとオルクェルもグランの後ろに立った。
ゆっくり近づいていくと、玉座に座った人影がおっくうそうに顔を上げた気配がした。
鮮やかな青い服はそのままだが、陽光のような金色だった髪は今は白くくすんで、美しく張りのあった手指にはいくつもの皺と大きなホクロのような斑点が散っている。オルクェルが息を飲んだのが伝わってきた。
クレウス伯爵夫人は、ほんの数時間で、本来の年齢以上に老いた姿に変貌していた。
「いつまでも若く美しくか……」
グランはふと、美しい妖精の姫との約束を破って一瞬のうちに老人に変えられた若い男の話を思い出した。あれはどこの国の昔話だったろう。
城へ供給する燃料を絶やせば、それはそのまま城の管理者にもはね返るのだ。城と管理者の奇妙な共生の関係に、この一族は長い間縛られてきたのだろう。動力炉の床に人骨の砂があふれるくらい、ずっと長い間。
「もういいんじゃねぇ? いい機会だし、城に縛られるのはあんたで終わりにしちまえよ。普通に年を取って老いていくのが、人の幸せってもんだろ」
「だ……まれ……」
夫人は首を振った。立ち上がろうと手を肘掛けについたものの、体が起き上がる気配はなかった。急速な老化で筋肉まで衰えて、体を支えるのもままならないのだろう。
「あんた言ってたじゃねぇか、大勢の中で一人だけ歳をとらねぇのは、寂しいもんなんだろ? あんたの子ども達に、また同じ思いをさせることはねぇよ」
「だまれ……お黙りなさい!」
言いながら、夫人は片手で顔を覆った。近づいてくる三人に、老いた顔を見られたくないのだ。白く透き通っていた首元はたるみ、くすんで、美しく塗られた唇と指の爪だけが、虚しく鮮やかに赤い光を放っていた。
「あなたもいずれ、衰えていく自分の姿に怯えるのです。まだ若いあなたには、その恐ろしさが判らない……」
「そこまで生きてられるなら、それだけで幸運ってもんだ」
グランは笑った。エレムがなにか言いたげにグランを見たが、一度伏せて開かれた瞳は、哀れみを乗せて夫人にむいた。
「年を取っても美しい方はたくさんいらっしゃいますよ。見た目だけじゃない、重ねた歳の数だけ、魅力的になっていくのが、人の本当の美しさというものではないですか?」
「なにをきれい事を……」
「僕、親がいないのでよく判らないですけど」
嘲ろうとした夫人の声に構わず、エレムは続けた。
「息子さん達は、いつまでも娘のような姿の母親が若い男達と遊び歩くのを見るよりも、相応に年を取ってだんだん弱くなっていく母親を、いたわって大事にしてあげたいんじゃないでしょうか」
赤黒い光の中で、夫人が言葉を詰まらせたのが判った。オルクェルがなにかに納得したように小さく頷いた。
「女人はいつまでも女でありたいのだろうが、子どもは母にはいつでも母であって欲しいものであるよ。そなたはいったい、誰のために若く美しくありたかったのであろう」
「黙れ……黙りなさい!」
叫びながら夫人は右手を振り上げた。周りを覆っていた赤黒い光がその手の中に一気に吸い込まれ、拳ほどの大きさの炎の固まりが現れた。夫人はそのままその手を振り下ろした。