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邂逅

作者: マドノユキ

兄は高校を出て、どうするのかと思っていたら突然就職を決めて一軒家を借りて暮らし始めた。

抜けているようで、行動力のある兄。


去年の冬、両親と一緒に兄の新居に遊びに行くことになった。

坂のある団地を暫く散策したが見つからない。

少し吹雪いてきた中、しばし遭難。

目的地の辺りを何度か行ったり来たりを繰り返していたら、窓から顔を出した兄に声をかけられた。

塀もあるような家だとは思っておらず、気が付かなかった。

コンクリートの小さな階段を上ると、そこには庭もあり梅が咲いていた。


家に上がると、兄はリビングのストーブに火を入れてくれた。

リビングの奥には大きなソファがあり、それが一軒家の一番の楽しみとして買った家具だそう。

疲れていたらそのまま寝れるんだと、兄は自慢げに寝転がってみせた。

私も見ていると嬉しくなって、一緒に寝転がる。

私が笑うと兄も笑う。

家探しはさんざんだったが、もうその家が好きになっていた。


しばらくくつろいだ後、さりげなく頼んだ。来年、大学に入れたら私も住まわせてくれないかと。

兄は少し逡巡しているようだった。

いつも私を可愛がってくれていた兄だから、喜んでOKしてくれるものあと期待していたのだけど。

彼女がいるのかな。いや今から作るのかな。

いきなり難題を突き付けてしまったことを申し訳なく思った。


母の一言が空気を換えた。


「洗濯機はないの?」


来る途中に泥で汚れた衣類を洗いたがっている。


「コインランドリー使ってる」


「ドラム式のいいやつ、買ってあげようか?」


「え、いいの!?」


「瑞希を来年ここに住まわせてくれたら、今買ってあげるよ」


それを聞いて、兄はあっさり承諾してくれた。

抜けているようで、ちゃっかりしている兄。


ーー


4月。

空気はひんやりとしていたが、雲の間から差し込む光は暖かだった。

昨日降った雪はまだ解けきれずに、冬の最後の意地を見せていた。

冬は今日で終わる。


団地の坂を男たちが連れ立って歩いている。

彼らは示し合わせた時刻丁度に、目的の家にたどり着いたが、呼び鈴を押しても応答がない。

仲間の一人が電話をすると『買い出しに出ているから、勝手に上がってて』そう言われた。


カギはかかっておらず、ノブは易々と回ってドアが開いた。

男たち三人は靴を脱いで上がり、廊下を左に折れ、リビングにたどり着き、奥のソファに並んで腰かけた。


共通の友人の家ではあったが、皆初対面だった。

一軒家が仲間内にあるのはありがたいことで、次第にたまり場になり始めていた。

知った家ではあったが、家主がいない間は落ち着かない。

水一杯でも、勝手にもらうには気が引ける。

一人が「あぁ」と自分の家のような声をだした。


(ガタンッ)


誰もいないはずの家の中から、冷蔵庫を開けるような音がした。


「お兄ちゃん、牛乳買って無いの?」


足音が近づいてくる。

左手の壁から、バスタオル一枚は折っただけの少女が現れ、目の前を横切った。


「私のパンツどこ?」


腰を屈め、ドラム式洗濯機の扉を開けて探し始めた。

見つけたらしく、取り出して確認する。

立ち上がると同時に、パタリとバスタオルが床に落とされた。

片足を上げ、通そうとしたとき目が合う。


川端

一枚の白樺が剝かれ現れた生木は、既に加工されたかのように滑らかで、その危険なきらめきが瞼を押し破って飛び込んできた。同時に彼女の視線との交差する。見てはならぬものを見た。いや目を背けることなどできようか。


大江

バスタオル一枚で守られていた清純が解かれたとき、この部屋の中の小社会の秩序が崩壊を始めた。僕は彼女の裸身を見たつもりはなかった。しかし、彼女にはまだ成熟しきらない胸の膨らみがあったことを、僕は認識している。意識は事実の後から生じる。ならば、僕は見たのだ。


芥川

狼狽した。バスタオルで隠されていた時には保ていた平静が、いとも簡単にその姿を保てなくなった。可憐なる裸体が露になると、私の目は勝手に状況を追った。浅ましく。人間とはかくも脆弱な生き物なのか。



瑞希は、自身の軽はずみな行動をこれまでになく後悔した。兄が出かける、兄の友人が来るということは重い瞼の隙間からでも聞いていた。でもそれが、日曜の遅い朝ぶろをしてはいけないということに繋がるとは。それは経験として脳に深く刻まれた。しかしいくら刻んでも、今は手遅れである。


できるだけ平常心に、何事もなかった様に、いつもの様に…。

瑞希は彼らに軽く会釈し、ゆっくり片足をくぐり抜けさせ、もう片方も同様のプロセスを消化させた。そして立ち上がり、左右前後を整える。バスタオルを拾い上げ胸を隠して、笑顔で「ごゆっくり」そう言って舞台裏にはけた。


川端

少女の去った空間。しかし白い影がまだそこに残っている。『ごゆっくり』その言葉は私の焦りなど見透かして笑っているような気がした。白雪を見ても人は美しいとだけ思うだろう。だのに私は。


大江

僕は、自身の存在の軽さを感じていた。『ごゆっくり』。彼女の機転ある対応は、むしろ僕の無力を際立たせた。この偶然の邂逅における彼女の主体性と、僕の受動性。僕が安穏として享受してきた男性の特権的地位が、この瞬間いかに脆弱なものであるかを思い知らされた。


芥川

苦笑した。少女の見事な対応ぶりよ。『ごゆっくり』という言葉には、気まずい状況を一瞬で日常に戻す力があった。よくもまぁ、ただただ感心した。



瑞希は、部屋の扉を何とか静かに閉め切ったが、しぼんだ二日目の風船のように布団に倒れ込んだ。

思い出したくなどなくとも、彼らの驚いた表情が脳裏に浮かんでしまう。『驚いた顔』と思ったがそうでもない。そう感じたのは、彼等の動向が広く開いていたからだろう。幸いなことに三人とも、卑猥な視線ではなかった。彼等もまた『何事も無かった』ように振る舞ってくれていたのだ。

瑞希はそう考え、傷ついた自尊心を緩やかに回復につとめた。


しかし、私は彼らの前でゆっくりと両足を上げ下げしていたのだ。この是非はどうだろう?

姿見の前で同じポーズを試すと、まぁ見えている。


もし慌てて視線をそらしていたら、私が何か恥ずかしいことをしてしまったことになる。彼等も内心穏やかでなかったはずだが、気を使って…じっとしていてくれた。最悪の事態だったが、冷静に対応できたことにむしろ自信が湧いてきた。すると、突然正反対の気持ちも湧いてきた。良かったんじゃないか?そう考えると同時に、胸の中に解放感が広がった。


川端

友人の帰りを待ちわびながら、庭の梅に心を寄せる。泥と雪が混ざり合ったその地面。罪悪感と白い肌が、胸の奥でまじりあっている。彼女は白雪を纏った梅だ。彼女に罪はない。


大江

僕は視線の持つ暴力性について考えざるを得ない。僕はソファに埋もれたまま、自身の視線の記憶を検証していた。あの瞬間僕は確実に加害者の位置にいた。しかし同時に被害者でもあった。無垢なる美しさ、それは一つの暴力ではないだろうか?もっとも驚いていいはずの彼女の眼は、冷静だった。その視線は、僕の心を一方的に蹂躙しているのだ。


芥川

煙草を取り出した。落ち着いて考えてみれば、なんてことはない。人間は最も困難な状況で、その本性を見せる。少女の本性は優雅であった。そしてその身体もまた…優雅であった。然るに私はどうだろう?煙草の煙は穏やかでない邑が生じている、それが私の本性なのであろうか?



(カチャリ)


扉の開く音がした。


「兄のお友達ですか?」


瑞希は、すっとんきょうなくらい大きな声でそう言って、客人の前に現れた。


「コーヒー飲みます?紅茶もあったかな?ミルクはないからブラックだけど」


そう言ってなにがおかしいのか、ケラケラと朗らかに笑う。


男たちは皆、珈琲を所望した。


瑞希は部屋に籠もり続けようと最初は思っていたが、兄が帰ってきたら挨拶はさせられるだろう。その時に変な空気が出たらたまらない。

それで兄が帰ってくるまでに、この場を解決してしまおうと画策した。

彼等は敵ではないのだ。見ないふりをしていてくれている仲間だ。しかしその絆は脆く、酔って面白がって話してしまうかもしれない。まさか「お前の妹。草むら、薄いな!」などと言う破廉恥な人達ではないとは思うが、男はノリで話を膨らませたがる。いや、膨らませる必要がないなら尚危険ではないか。その時の兄のショックはいかほどか。

そんなことを考えて、できるだけ清楚に見える服装をしてこの場に挑むことにした。


襟付きの白のブラウス。ほんのりフリル。アイロンを軽く当てて折り目を付けた。

ベージュのミモレ丈スカート。座った時でも膝が出ない長さにする。

露出を減らしたかったからズボンにしようかと思ったが、逆に意識しているように思われるのを心配した。

白のくるぶし丈のソックス。靴下はまぁなんでもよい。

ゆるめのポニーテールを作る。アクセサリーは無し。ごく自然ないつもの部屋着。そんなコンセプト。

最後に姿見の前に立ち、前髪を整え、袖口をちょっと引っ張って手首は隠した。「よしっ」


川端

小さなフリル、ゴムバンドの髪留め。彼女の朗らかな笑い声。部屋の空気を一足先に冬から春にした。黒い珈琲が、二つの恥じらいを包み隠してくれたように思う。


大江

僕は、彼女の戦略的な振る舞いを観察していた。服装選択、明るい表情、全てが計算されている。「何事も無かったでしょう?」彼女はそう心に語りかけた。僕にもこの欺瞞を受け入れよと。それは唯一の正しい答えであることは分かっていたが、その提案に腹を立てている僕がいた。


芥川

少女の見事な立ち回りに、むしろ敬意さえ覚えた。白いブラウスに身を包んだ彼女は毅然とし、この部屋に邪念の居住を許さず、いつの間にか元に引き戻してしまった。あとはただ、安らかなほほ笑みがあるばかりである。



瑞希は、やるべきことを完ぺきにこなして、彼らの動揺も収まったことを確認した。あとは涼やかな印象を残して撤収。


「ごゆっくり」


そう言って、笑顔で自室に帰還した。

しかし、ドアを静かに閉めつつ違和感を感じていた。『ごゆっくり』

つとめて日常的にと思っていった言葉だったが、その言葉はさっき使ったばかり。

瑞希は慌てて、また戻ろうとノブを握った。

ドアノブはいつもよりヒンヤリと冷たく、冷静になれと言っていた。

今飛び出してどうする?お菓子でも出す?あったかしら?一緒に世間話?いや、『ごゆっくり』といった後にそれじゃおかしい。でも何かしなければいけない。

この瞬間にも、彼等はイメージを修復させ始めているだろう。彼らの開いた瞳孔も蘇る。全身が熱くなりだした。無策に飛び出すことは避けねばならぬ、ドアノブを必要以上に強くにぎりしめ自分にそういい聞かせた。

だが策が出ない。時間が流れる。

…まぁいいか。なったらなったまで。悪い友達を持った兄が悪い。

寝転がって、兄の帰宅を待つことにした。


川端

少女の消えた、壁の向こうを見つめていた。二度目の『ごゆっくり』。清らかな白のブラウスと白樺の生木が重なり合う。彼女が清らかであればあるほど、生木のイメージが鋭く鮮明になる。部屋の温度が一度上がった。


大江

『ごゆっくり』僕は彼女の反芻された言葉に、彼女もまた動揺していることを知った。少女の清純の下にある不条理。僕の理性と言う名の偽善の下の獣性。秘密とは人間の不完全性の担保であり、現代社会における無垢の表現なのだ…そう理論武装する。しかし僕の獣身は、僕に逸脱せよと吠えたてる。


芥川

密かにほほ笑みを浮かべた。少女の二度目の『ごゆっくり』に内心の動揺を読み取ったからだ。完ぺきを期したつもりが、かえって化けの皮をはがしてしまう。可憐な狼狽の滑稽さは、むしろ微笑ましいくらいだ。


(カチッ)


川端

静けさの中に木魂する、小さな音。薄い扉の向こうで、彼女はドラクロワの女神のように勇敢に戦っている。珈琲のさざ波が大きくなった。また部屋の温度が上がった。


大江

僕はその音に一瞬救われた。彼女もまた気まずい記憶と立ち向かっているのだ。今や薄い板一枚が、この世界の秩序を保っていた。


芥川

その音で悟った。彼女も同じ記憶に翻弄されているのだ。一枚の扉を隔てて、二人が同じように狼狽している。滑稽、その言葉一つで高笑いしていられた自分の程を知った。私の動揺はもっと滑稽だ。



表面上は穏やかに珈琲を啜る三人。

ソファの上にある窓から注ぎ込む暖かな日差しが、男たちを優しく包み、記憶を整理してくれる。

最初に見たバスタオル姿、バスタオルを落として無垢となった姿、下着を身に着けようと片足を上げた姿、白のブラウス、明るく珈琲を馳走してくれた笑顔、そして今ドアノブを固く握りしめて自身も固まっているであろう姿…


川端

少女の姿が万華鏡のように変化し、蘇り続ける。ぽつぽつと涙がこぼれだす。頬を伝い唇に達したとき、それは辛いだろうか甘いだろうか。それを知るより先に意識が先に遠のき、私の罪もろとも喰らい尽くされているだろう。


大江

僕は彼女の映像の瞬間瞬間を分析し、その意味を見出そうと試みていた。しかしすればするほど生々しい記憶を鮮明にした。知識や論理とはなんと無力なのだろう、理性とはなんとあてにならないものか。弱者は弱者なのだ。今となっては僕に『理性』などという高尚なものが、あったのかどうかも確かとは言えまい。僕は自身の支配力を永遠に喪失してしまった。いや一つだけ残された機能がある。僕の最後を見届けよう。


芥川

記憶は補完され、活動写真のように滑らかに変容する彼女の姿を映し出していた。少女の清楚な装いが、かえってあの光景を私に脳裏にrépéterさせた。衣をまとった人に過ぎない、衣をまとわぬ人に過ぎない。理性で圧殺しようとしても、輪廻で蘇る欲望はより大きくなる。人間の想像力とは、かくも残酷なものか。地平の最後は闇なのか。あぁ!


…そして、薄い草むらの奥。


(パタン)


「ただいまー」


川端、大江、芥川

「おかえりー」


(カチャリ)


「あ、お兄ちゃん、おかえり!」


「おう!起きてたのかー」


「当然でしょ!」


「あれ、瑞希、お客さんにコーヒー出してくれてたの!?」


「うん」


「お前も大人になったなぁ」


―完―


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