31 留守中
婚約期間中とは言え、アシュラム伯爵邸で過ごす日々にも、私はようやく慣れて来た。
移り住んだ当初は生まれ育ったサラクラン伯爵邸を不意に思い出し寂しくなることもあったけれど、だんだんと新生活に馴染んで来ると、それも回数が少なくなってしまった。
自分が帰る場所はここだと、そういう認識が、知らず知らずのうちに出来てしまったのかもしれない。
……ううん。
今の私にとって、帰る場所と言えるのは、愛するジュストの居る場所なのかもしれない。
「……おはようございます。ミシェル」
「おはよう。ジュスト……昨夜は遅かったみたいね?」
食堂で朝食を取っていると、ジュストがいかにも睡眠不足の眠そうな顔でやって来た。
「はい。父がまた、新薬を開発しまして、流通について各所と打ち合わせを」
執事から新聞を受け取り苦笑いしたジュストの言葉に、私は驚いた。
「まあ……ドレイクお義父様は、本当に天才なのね。素晴らしいわ」
ジュストの実父であるリュシオール男爵ドレイク様は、難病の特効薬などを開発した功績により、現王陛下から叙爵された方なのだけれど、これまでに世界になかったものを次々に開発するということは、希代の天才に他ならないわ。
「研究馬鹿ですからね。新薬開発をすれば、すぐに次のことを始める。僕はそういう父から生まれたので、幼い頃はあれが普通と思っていたのですが、あまりにも特殊例であると知ったのは、そこそこ大きくなってからですよ」
「だから……ジュストはサラクラン伯爵家へ、預けられることになったのだものね」
「ええ。生活不能者であることは間違いないのですが、通常の人が出来る事が出来ない代わりに、薬学の才能は類を見ないほどに優秀なようです……ミシェル。僕は今日から数日、こちらの新薬の件で家を空けます」
「あら、そうなの。わかったわ。大変よね」
私がお茶を飲みながら頷けば、ジュストは信じられないと言わんばかりの衝撃を受けた表情になっていた。
「え? 私、何か変なこと言ったかしら?」
直前の発言を思い返しても、彼の報告に普通に頷いただけだわ……どういうことかしら。
「ミシェル。僕が数日居なくても、平気なんですか!?」
あ。そういうことなのね。私は納得して微笑んだ。
この前、彼が遠方に行くと聞いて、私も付いて行きたいと言ったのに、今回はどうしてそう言わないのかってことよね。
「だって……ジュスト。私たち婚約もしたし、もうすぐ結婚するでしょう? それに、貴方が遊びで行く訳ではないって知っているもの。アシュラム伯爵邸は快適だし、そろそろ気温が下がるから模様替えも急務だし……ずっと一緒に居なくても、良くないかしら?」
実際、貴族の邸を管理する女主人はやるべきことがたくさんあり、私も遊んで暮らしているわけではない。まだまだ慣れない使用人ばかりだし、季節毎のイベントも目白押しで……はっきり言うと、ジュストのことばかり考えていられないのだ。
「……いえ。大丈夫ですよ。ミシェルはここに居てくれたら、安全ですからね。怪しい者は入れたら駄目ですよ! 良いですね?」
「怪しい者って何よ……もう、心配性なんだから」
ジュストは幼い頃から私の護衛騎士をしていて常に一緒だったし、彼が先んじて危険を回避してくれていたと言えばそうだった。
けれど、私だっていつまでも、何も出来ない令嬢のままではない。公示期間を終えてジュストと結婚するならば『アシュラム伯爵夫人』と皆から呼ばれることになるし、遠出する夫の傍に常に付いてまわるわけにもいかない。
そろそろ成人貴族として、自立しなければいけないのよ。
◇◆◇
ジュストは『怪しい者は絶対に邸内に入れないように』と言い含めて、新薬についての製造場所だったり流通を確保するために、お義母様であるトリアノン女侯爵フィオーラ様と共に出掛け、何日か留守をすることになった。
当の本人であるドレイクお義父様は、研究がしたいから絶対に同行しないらしい。息子がジュストでなければ、お義父様の開発した新薬も世に出ず埋もれていたかと思うと、本当にもったいないことなのでそうならずに良かったと思う。
けれど、怪しい者を邸内へ入れないようにって……そんなことをするはずもないのに、ジュストには、私がまだまだ幼い子どもに見えているのかもしれない。
「……ミシェル様。お手紙が来ています」
「あら。誰からかしら?」
私は執事シモンから受け取った手紙を裏返して、差出人の名前を確認した。
「まあ。オレリー……」
そこには、私が誰よりも大事にしていた妹、オレリーの名前が書かれていた。
……あの時、私とあの子が生まれて初めて本音を言い合ったあの日から、オレリーとは会っていない。
ジュストも父であるサラクラン伯爵も『当分、会わない方が良い』と口を揃えたし、私本人だってそう思った。
オレリーは私の持つ物を、なんでも欲しがった。大事にしている物から、自分が欲しいからと取り上げた。そして、それはどんどんエスカレートして私が本当に愛している人すらも欲しがった。
オレリーが欲しがるのは、私が大事にしている物だけだ。
それは、同じ両親から生まれた同じ血を持つ健康な身体を持つ妬ましい姉に対する、彼女の出来る精一杯の復讐だったのかもしれない。
けれど、私はジュストだけはどうしても譲れないと……そう思ったのだ。
オレリーからの手紙を開けるべきか、どうするべきか私は悩んだ。
けれど、こうして届いた以上家族からの手紙を読まないわけにもいかないし、そのまま突き返すには、私は妹のことをこれまで愛しすぎていた。
『親愛なるミシェルお姉様
お姉様がサラクラン伯爵邸から居なくなって、私の心には大きな穴が空いてしまったかのようです。
あの時のこと、とても反省しています。いえ。これまでのことすべてを、お姉様に謝罪せねばなりません。
お姉様の大事なものを欲しがった私には、もう会いたくないかもしれません。
けれど、お姉様が居ないと私には誰も居ないのです。
どうか、どうか……謝罪の機会を与えてください。
お姉様のことを本当に愛しています。
貴女の妹 オレリー・サラクラン』
手紙を思わず、胸に抱きしめてしまった。ああ……オレリー。私の妹。たとえ憎くても、それを越えるほどに愛した可愛い妹。
オレリーはさみしがり屋で私が部屋に行けば、とても喜んだ。
そして、私が自分の行けない外の世界で、何があったかを聞きたがったのだ。
……幼い頃から病弱で、出歩くことすらも出来なかった。
今はようやく、短い時間であれば出掛けることが出来るようになったのだ。
健康であれば社交にも参加して、友人も沢山居ただろうに、あの子には友人と言えるのは姉である私だけ。
そんな境遇であれば、私が背を向けてしまえば、どれだけ寂しかったことか。
「シモン。手紙に返事を書くわ。サラクラン伯爵家へと届けるように、手配してくれるかしら」
「かしこまりました」
「それに、三日後にここへ客人が来ることになるわ。準備するように伝えて」
「……かしこまりました。ミシェル様」
執事シモンは頷き、部屋から出て行った。
私は机に座り、妹への返事の手紙を書き始めた。
オレリー……私の可愛い妹。あの子が反省して謝罪したいと言うのなら、私は受け入れるしかない。
だって、私はオレリーにとって、たった一人の血の繋がった姉なのだから。




