18 計算違い
ジュストが二人で暮らすために用意していたという邸の中は、驚くほどに豪華だった。
私の部屋だという部屋に案内され、特別に雇われたというメイド、それに、私好みに造らせたという例の浴室。
底から泡が産まれる特殊仕様の湯舟に浸かりながらメイドに丁寧に長い髪を洗われて、私の心の中に浮かんで来るのは『何故』という言葉だった。
だって、ジュストはこんなにも大金持ちだというのに、サラクラン伯爵邸で護衛騎士として働いていたのよ……本当に信じられない。
我がサラクラン伯爵邸は世間では待遇が良いとされているようで、だからこそというかそこで働く使用人たちも質が良く、そんな人たちに囲まれて働くという環境も良かった。
……というのを、ジュスト本人から聞いたことがある。
けれど、こんなにもお金持ちなのに、どうして私の護衛騎士なんてしていたの……?
ジュストが何を考えているかなんて、これまでに読めたことなんて一回もなかったけど、私が好きだからそうしていたという線を、遥か彼方に越えてしまっていそうな気がするもの。
「……ジュストって、本当に信じられない」
この湯舟だって、細かな泡が底から立ち上り……そんな特殊な加工は見たことも聞いたこともないから、間違いなく特別注文して造らせているはず。
何もかも私のために……? これって、現実なの。本当に信じられない。
……人魚姫を模したという浴室は本当に夢の中のようで、今すぐに夢から醒めてベッドの上に居たとしても全然不思議ではなかった。
◇◆◇
主寝室の扉を開くと、ここで待っているはずのジュストが見えて、私はほっとして彼の名前を呼んだ。
「ジュスト……」
私は身体の隅々まで磨かれ髪も綺麗に乾かしてもらって、つやつやになるまで香油を付けて梳かして貰っていたんだけど、大きなベッドに座っていたジュストはガウンに濡髪のままで、大きな氷を入れた濃い色のお酒を飲んでいたようだった。
「……どうでした? きっと喜んで頂けるとは、思っていたんですけど……ご本人の反応を見るまではなんだか不安で、こんな僕も割と可愛いところがあると思いませんか」
苦笑した彼はベッドの脇にあるチェストへと持っていたグラスを置くと、扉の傍に立ち尽くしていた私へ手を伸ばした。
いけない。なんだか、胸が高鳴って……とても平静では居られない。
さっきまでは、今夜はジュストとそういうことをするけど、結婚するのだから、何の問題もないと思っていられたのに。
「私のために、用意してくれたんでしょう……すごく可愛くて、素敵だった」
私は隣に腰掛けると、とても顔を直視出来ずに、自分の膝の辺りをずっと見ていた。
……いつもジュストと話している時、私ってどんな感じだった? こんな感じの喋り方だったっけ? この状況に意識し過ぎて余計なことまで考えてしまう。
だって、十年ほどずっと傍に居たけど……当たり前だけど、こんな色っぽい空気になったことなんてなかった。
ジュストはいつも私を揶揄って、イライラさせては楽しんで笑ってたし……今だって……今だって、揶揄うでしょう?
「そうですね。けど、ミシェルお嬢様が大人の女性になられて趣味が変わってしまえば、また改装しても良いですし……数ある童話の中でも人魚姫を好まれるなんて、趣味が良いですよね。流石は僕のお嬢様だと思っておりました」
淡々とそう言ったジュストは、私を肯定して揶揄わない……いけない。どうして? 胸が高鳴って何も考えられなくなっていた。
そうよ……ジュストが以前言っていたサラクラン伯爵邸で働くシェフ、ジョンの女装姿でも……私はこの目で見たことないけどね。
想像だけでもわりと落ち着けたわ。ありがとう。ジョン。
「……その……ジュスト……っ」
ドキドキし過ぎておかしくなりそうだから、もういっそのこと、この会話を終わらせて早くして欲しいんだけど!?
そんなことを直接彼にいう訳にもいかず、私はなんと言うべきか悩んだ。
皆……こういう時って、なんて言うの? もうそろそろ私たち……そういうことを始めた方が、良くないかしら?
行為を開始する合図なんかもあるのかしら? 私が知らないだけで。そういう便利なものも、もしかしたら。
「……僕が嫌になりました? けど、もう戻れませんけどね。ラザール様との婚約は解消されてしまいました。残念でしたね。ミシェル」
初めて私を呼び捨てにしたジュストに驚いて、私は彼の顔をようやく見た。今まで見たこともないくらいに真顔になっていたジュスト、その目はとても真剣で……とても冗談を言えるような雰囲気でもなかった。
「ジュスト……? 何言ってるの。それは私が望んだことでしょう」
私はジュストと共に居られる未来が見えて嬉しかったし、その上でここに居るというのに、何を言っているのだろうと不思議だった。
「ええ。ですが、いつか後悔しませんか? 僕は貴女を手に入れたい一心でここまで来ましたけど、ミシェルが僕を好きだというのは、僕の妄想ではないかと心配になるんですよ」
茶色の目は細かく揺れて唇は震えていて、ここに来るまでにジュストは、どれだけの不安を乗り越えて来たのだろう。
私は彼に好意を持っていたとしても、表には出す訳にはいかない。だって、ラザール様という幼い頃から決められた婚約者が居たし、ジュストに気持ちがある事なんて知られる訳にはいかなかった。
私はこれからは彼と一緒に居ると、そう信じて貰えるように、努力すべきだと思った。
ジュストの首に手を掛けて、私は初めて自分から彼にキスをした。
私はジュストは余裕があって常に何もかも把握していて、いつも『全部僕の計算通り』みたいな顔をしているいけすかない性格の男性だと思っていた。
けれど、今目の前に居るこの人は、全然違う。
臆病で愛されていることを信じられず、それでもと勇気を振り絞り私へと手を差し出した。
「……何言ってるの。私が貴方のこと、嫌いな訳ないでしょう。ジュストが私をこんなに好きにさせたのに、僕は自信がないなんて、もう言わせないわ」
私に押し倒されたジュストは幼い頃から、私のことを最優先にしてくれていた。
転んだらすぐに助け起こして慰めてくれたし、私が興味あると知れば、すぐに博士くらい知識を仕入れて冗談混じりに披露してくれた。
可能な限り傍に居てくれたし、嫌なことを言われても、口の上手い彼がすぐに相手をやり込めてくれるので、私はいつ何処へ行くにも不安などはなかった。
そんな彼のことを、私が好きにならない訳もなく……すべての障害が取り除かれたのならば、ジュストと結ばれたいと望むことだって、何の不思議もないと思う。
「……僕はミシェルが居れば、それで良いんです。親も主人も、貴女を手に入れる手段に使いました。正直怖いです。これまで十年ほど願って来たことが、今叶うんです。ミシェル……怖いです。自分が貴女を手に入れたらどうなってしまうのか」
ジュストにいつもの威勢の良さなどはなく、長年想い続けて来た私を手に入れる幸せが怖いと言いたいみたい。
私は筋肉質な感触のお腹の上に座りながら、いつも揶揄っては虐めている彼が、項垂れて元気ないという事態を目の前にして、なんだか楽しくなって来てしまった。
「もう……それで、こんな時になったというのに、私に手が出せないというのね……?」
私は彼のガウンの紐を解き、割れたお腹に手を置いた。
「……ミシェル?」
「それならば、私がしてあげるから、何もしないで欲しいの。閨教育はちゃんと受けているんだから」
私の言葉を聞きみるみる顔を赤くしたジュストは、流石にこの展開は計算出来ていなかったんだと思う。




