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08 フェンちゃんおあずけ

08 フェンちゃんおあずけ


 フェンちゃんから飛び出した衝撃の単語『マーキング』。

 わたしはドギマギしてしまったけでど、よく考えたらフェンちゃんは仔犬のときからずっと、わたしにスリスリするのが大好きだった。

 フェンちゃんはニヤリと笑う。


「どうやら、身の程がわかったようだな……! お前はもう、俺様から逃げられねぇ……! 絶対にな……!」


 フェンちゃんはそう言って、わたしの頬に頬ずりしはじめる。

 その瞬間、わたしは石にされたみたいに固まってしまった。


 白状しよう。

 わたしはいままで、男の人にちっともモテなかった。


 アイシスが流していたという悪い噂で男の人から嫌われていたんだろう、そう思いたいところだが、たぶん違う。

 わたしは陰で鉄仮面なんて呼ばれるくらい、男の人に話しかけられても無愛想のままで、塩対応を貫いてきた。


 そのせいで、父親以外の男の人とは、いままだに手を繋いだことすらない。

 フェンちゃんにお姫様抱っこされたもの、本来ならば記念碑的なまでの出来事だ。


 そんなわたしが、男の人から頬ずりされるなんて……!

 初めて感じる男の人の肌に、わたしはへんな汗と、震えが止まらなくなっていた。


「や……やめ……!」


「や~だね。もう俺様は誰の言うことも聞かねぇ。これからは好き放題にやってやるぜ、お前のことも……」


「お、おあずけっ!」


 わたしはとっさに、犬のフェンちゃんにしていたみたいに叫んでしまう。

 こんなことを言ったらフェンちゃんは怒るだろうと思ったけど、わたしを覆っていた身体はすぐに離れていった。


 見ると、驚愕の表情で後ずさるフェンちゃんがいた。


「く……クソがっ……! か、身体が、勝手にっ……!?」


 どうやら仔犬の頃から厳しい躾をしてきたせいで、フェンちゃんの身体にはわたしの命令が刷り込まれているようだ。


「おすわりっ!」


 続けざまに命令すると、フェンちゃんはその場にぺたんと座り込んでくれる。

 その顔は、自分がしたことが信じられない様子で、ワナワナと震えていた。


「な、なんでだよっ……!? オーディンの死の運命ですら、当たり前にはね除けた、この俺様が……! 人間の女なんかに……!」


 ふとフェンちゃんの腰のあたりから、ぶわっと広がった尻尾がチラ見えする。

 どうやらフェンちゃんは人間の姿になっても、尻尾はそのままのようだ。


 それで気づいたんだけど、フェンちゃんのウルフカットからは三角の犬耳みたいなのが飛び出ていた。

 しかしいまはうろたえているせいか、心なしかしおれているようにも見える。


 わたしは、まだドキドキしている胸を押えながら、フェンちゃんに言う。


「あの……あんまり、わたしに近寄らないで」


 するとフェンちゃんは、ガーン! と音が聞こえてきそうなくらいの、あからさまなショックを受けていた。


「な……なんでだよ!? お前は俺様のものだろうが! あれだけマーキングされまくっといて、いまさら何言ってんだよ!」


「その言い方はやめて。わたしの身体にスリスリしてただけでしょう?」


「人間の女のクセに、生意気なクチ聞きやがって! テメーみてぇな女は、もう守ってやらねーよ!」


 吐き捨てるような宣言と同時に、フェンちゃんの手が飛んできて、わたしはとっさに目を閉じてしまう。

 しかし痛くない。おそるおそる目を開けてみると、そこには、木の上から降ってきたオオグルミを掴むフェンちゃんの手があった。


「あ……この木、オオグルミの木だったんだ……」


 フェンちゃんは、わたしをぶとうとしていたわけじゃなかった。

 頭の上に落ちてきたオオグルミから、わたしを守ってくれたんだ。


 オオグルミは、大人の拳くらいもある大ぶりなクルミだ。

 実が熟すと木から落ち、殻が石みたいに硬いので、当たってケガをする人が後を絶えない。


「ありがとう、フェンちゃん……」


「クソがっ! お前になにかあると、当たり前みてぇに助けたくなっちまう! なんか知らねぇけど、気が気じゃいられねぇんだよ!」


 フェンちゃんは苛立った様子で、オオグルミを握り潰していた。

 オオグルミの実はとても堅くて、ハンマーで割らないと中の実を取り出せないのに……。


 どうやらフェンちゃんは足の速さやジャンプ力だけじゃなく、握力も超人的なようだ。

 フェンちゃんによって握り潰されたオオグルミの実からは、紫色のオーラが立ち上っていた。


 わたしが気づいたことにフェンちゃんも気づいたのか、先回りして教えてくれた。


「俺様は人間の姿になれる他に、こうやって聖なる力を打ち消す力があるんだよ」


 聖なる力というのは、おそらくオーディン様の力のことだ。

 普通のオオグルミの実は毒々しい紫色をしているのに、フェンちゃんの手の中にある実は乳白色になっていた。


「ん? 食うか?」


 しげしげと眺めていたわたしを、実が食べたいのだと勘違いしたフェンちゃん。

 本当だったら邪獣と呼ばれるような存在が、聖なる力を打ち消した木の実なんて、本来は食べたくないもののはずなんだけど……。


 でもわたしは引き寄せられるように、オオグルミの実のカケラをつまんでいた。

 そっと口の中に入れて、ひと噛みする。


 ……カリッ……!


 その瞬間、わたしにとって初めてのもの……いや、確かに知っているものが、口いっぱいに広がった。

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