05 オーディン様登場
05 オーディン様登場
ちょうど1年前と同じ場所に、わたしは立たされていた。
格好は1年前のウエディングドレスと変わらないくらい質素だったけど、天井から降り注ぐ光は血のように赤い。
わたしはひざまずかされ、少し離れたところにはフェンちゃんがいる。
フェンちゃんは鉄の首輪と口輪をはめられ、暴れ馬のようになっていた。
複数の衛兵たちが取り囲み、フェンちゃんを大人しくさせようと棒で殴りつけている。
フェンちゃんを殴るように命じている聖機卿様の顔は、もはや悪鬼のようだった。
「きょうっ! ええい、いまいましい! もっと、もっと打ち据えるのです!」
「おやめください、聖機卿様! フェンちゃんはいい子なんです! どうか、お許しを……!」
「うるさいっ! 聖女が邪獣をかくまうなど、絶対にあってはならぬこと! 貴様は自分がなにをしたのかわかっているのかあっ!?」
聖機卿様のビンタを受け、わたしは吹っ飛ぶ。
フェンちゃんは自分が殴られた時以上に、よりいっそう暴れだした。
「このことが知れたら、オーディン様はどれほどお怒りになるか! 貴様は両親だけでなく、この卿の顔にまで泥を塗ったのだ! せっかく拾ってやった恩を忘れて、この仕打ちとはっ! この悪魔めっ!」
わたしが聖機卿様に踏みつけられると、フェンちゃんは火だるまになったかのように暴れまくる。
「あのお方が教えてくださったから、こうして秘密裏に始末できたものの……! もし公になっていたら、大変なことになっていたわ!」
「あ、あのお方……?」
わたしの問いに答えるように、聖堂の入口のほうから、懐かしい笑い声がした。
「きゃはっ! やってるやってるぅ~っ!」
そこにいたのは、いまや正室となった、くるくる巻き毛のアイシス……。
いや、アイシス様だった。
アイシス様が巻き毛をバネのように弾ませながらわたしの元へとやって来ると、最初からひざまずいているわたしと、フェンちゃん以外はみんな膝を折る。
しかしアイシス様は、わたし以外には目もくれていなかった。
「きゃはははは! やったやった! やったーっ! またその表情が見られたよぉ!」
「アイシス様、まさかあなたが……」
「あったりぃ! 側室のヤツらをいびってもすぐに泣いちゃうから、アイシスちゃんずっと退屈だったのぉ! お城の展望台から、おっきい望遠鏡を使って覗いていたの、気づかなかったぁ? やっぱアンタのものを台無しにするのって最高っ! きゃはははははははっ!」
アイシス様は1年前と同じように、わたしの前でしゃがみこむ。
蛇のように長い舌を垂らし、これ見よがしにベロベロさせていた。
「んべろべろばぁ~っ! きゃはっ! フレイアちゃん、まだ泣いちゃだめでちゅよぉ~! ここからメインディッシュがあるんでちゅからぁ~!」
アイシス様は……いや、アイシスは立ち上がると、祭壇に掲げられていた聖剣を取る。
これから盛大なイタズラをする子供のように、テヘペロと笑った。
「フレイアちゃんの目の前で、犬っころの首を跳ねちゃったりしたら……! そしたらフレイアちゃんってばきっと、ケッサクの顔になっちゃうよね! きゃはっ! 楽しみ~っ!」
わたしは、一瞬で全身の血が抜かれたかのように動けなくなる。
「そ……そん……な……! そ……それ……だけ……は……!」
なんとか絞りだした震え声に、アイシスは腹をよじって大爆笑。
「きゃはははははははっ! あの鉄仮面が真っ青になっちゃってる! 結婚式でやらかしたときも、ここまでキョドらなかったのにぃ!」
「お……おね……がいっ! わたし……から……! もう……奪わ……ない……で……!」
わたしは多くのものを奪われた。
生きる目的と婚約相手、両親と一族、そしてたったひとりの友達……。
そのうえ、フェンちゃんまで奪われてしまったら、わたしはもう……!
這いつくばってすがるわたしに、アイシスは大好物のバナナをもらったサルのようにぴょんぴょん飛び跳ねて大喜びしている。
「きゃーっきゃっきゃっきゃーっ! いままででいちばんのリアクション! よっぽどこの犬っころが大切なんだねぇ! 首チョンパされたら、ついに泣いちゃうかもぉ~っ! んじゃ、さっそく……!」
「それは、あなたがなすべき必然ではありません」
聖剣を引きずってフェンちゃんに斬り掛かかろうとしたアイシスを、聞き覚えのない声が呼び止めた。
「チッ! だぁれ? トリステイン王国の次期王妃の、アイシスちゃんに意見するのはぁ~?」
舌打ちとともに振り返ったアイシスは、その人物を認めて聖剣をぽろりと落とす。
彼女だけでない、わたしも含めたその場にいる全員が魂を抜かれたように唖然としてしまう。
わたしはその人物……いや、そのお方を実際に目にするのは初めてのこと。
しかしすぐに、誰だかわかった。
このアースガルド大陸を統べる神にして、万物の長といわれる存在……!
お……オーディン……様……!
わたしのその言葉は、声にならなかった。
なぜならばオーディン様が、ため息が漏れるほどに美しく、漏らした息を吸うのを忘れてしまうほどに神々しかったからだ。