10 ガルツ領へ
10 ガルツ領へ
そこは、すべてが曇りなき純白だった。
エナメルホワイトの床に、白磁の柱。
天井や壁はなく、周囲は色を失った世界のように、どこまでもどこまでも白い虚無が広がっていた。
奥には玉座がふたつあり、ひとつには光の化身のような男が鎮座している。
もうひとつの玉座は誰も座っていない。
オーディンの足元にはとぐろを巻く蛇のように、女たちが横たわっていた。
みな虚ろな瞳で、オーディンの名を呼んでいる。
女たちを踏み越えるようにして、ひとりの中年女が現われた。
中年女は金色の刺繍が施されたローブを身に着けており、身分の高さがうかがえる。
彼女はきっと彼の前以外ではしないのであろう、深くヒザを折り、頭を垂れた。
「フレイアの除名の手続きが完了いたしました。オーディン様がご承認くだされば、フレイアは聖女ではなくなります。あとはこの大陸じゅうに指名手配をすれば、すぐにでも……」
「その必然はありませんよ、聖機卿」
「えっ?」
「わたくしと婚約を交わした女性が、聖女となる。ということはフレイアさんは、わたくしの大切な婚約者です」
「オーディン様の力の源が聖女であることは存じ上げております。でも、聖女はこの世界に何万とおりますので、フレイアのひとりくらい……」
「いいえ。すべての聖女は、わたくしにとって大切な伴侶です。それに、フレイアさんはわたくしの癒しの力を行使しました。たとえその対象が邪獣だとしても、彼女はわたしと結婚する必然があるのです」
「な、なんと、慈悲深い……! では指名手配のみにして、あの邪獣を……」
「その必然もありません。なぜならば、わたくしにはわかるからです。あの邪獣の考えることが」
「えっ、ではどこにいるのかも、おわかりになるのですか?」
「必然でしょう。あの邪獣はいま、北へと向かっているはずです。それもかなりの北の、寒い領地を目指していることでしょう。おそらくは、ガルツ領……」
「ガルツ領といえば、王都から真北にある領地ですね。でもなぜなのでしょう? フェンリルは寒いところが好きなのですか?」
「いいえ。きっとフレイアさんは、あの邪獣を邪険に扱っているはずだからです」
聖機卿はオーディンの言っていることがまったく理解できていなかった。
「そ、そうですか……。ではガルツ領に、兵士を派遣して……」
「その必然もありません」
オーディンは優雅に脚を組む。
すると這いつくばっていた女たちが、我先にと這いよってくる。
聖機卿も髪を振り乱し、ローブの裾がめくれあがるほどの勢いで五体を投げ出していた。
なみいる女たちを押しのけ、オーディンの履いている編み込んだ靴の間に、必死になって舌を差し入れている。
その様はまるで、蟻の巣を貪るアリクイのよう。
オーディンは眼下の獣たちには一瞥もくれず、遥か遠方の獣だけを見据えていた。
「……わたくしはいつでもフェンリルさんを殺せます。でもそれは、わたくしの必然ではありません。いまは黙って、溺れゆく犬を見物していましょう」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
瞼の裏に冷たい風を感じ、わたしは目を開ける。
ゆっくりと上下する視界の向こうには、白い雨がちらついている。
まだぼんやりしている意識と相まって、なんだか幻想的な風景だった。
「ここ、どこ……?」
そう口にすると冷たい空気が肺の中に入っていきて、一気に目が覚める。
がばっと身体を起こすと、あたりは暗い枯木の林で、しんしんと雪が降っていた。
そしてようやく思い出す。
わたしは高速で走り出したフェンちゃんの背中に、必死になってしがみついていたことを。
でもフェンちゃんの走りは、風のない空を飛んでいるみたいに安定していた。
それでつい安心しちゃって、いろんなことがあった疲れが出てくる。
さらに羽毛のようにふわふわであったかのフェンちゃんの背中という三重奏にやられ、ついウトウトしちゃったんだ。
出発したのは夕方だから、わたしは夜まで眠ってしまったということだ。
わたしは、速歩する馬のような走りを続けるフェンちゃんに声をかけた。
「ここ、どこ?」
「お、起きたか。ここはガルツ領だ」
わたしは聞き間違えかと思った。
「えっ? ガルツ領って、まさかトリステインの北にあるガルツ領じゃないよね?」
「他にあんのかよ」
「ええっ、王都からガルツ領までは400キロはあるんだよ!? 馬で行っても10日はかかるのに!?」
どうりで寒いと思った……!
「へっ、俺を馬なんかと一緒にすんじゃねーよ。400キロくらい、俺様にかかればひとっ飛びだぜ」
「すごい……でもなんで、こんな所まで来たの?」
「そんなことより、そろそろ寝ようぜ」
「え? こんなところで? それに、わたしは起きたばっかりなんだけど……あ、そっか、フェンちゃんはずっと走ってたんだよね」
フェンちゃんから飛び降りると、フェンちゃんは岩のあたりまで歩いていって、ゴロンと横になる。
お腹を見せるようなポーズで、得意気にクフンと鳴いていた。
「来いよ。今夜はここが、お前のベッドだ」