空しいがわかるのは大人
自分がソファーで寝るというのを断って、一人でソファーに横になって、昔のことをぼんやりと思いだす。自分が中学生の頃。手をつなぐのが精一杯だった。それなのに大学生くらいの人とそんなことあったら……。個人差はあるんだろうけど、やっぱり怖かっただろうな。梨花ちゃん。
そんなことを樹君がしたなんてやっぱり想像できない。よくわからないけど、自分の知らない顔を持っているということが、なんか、怖かった。わたしが信じていた彼って、作り物なんだろうか?出会ったばっかりの頃、いつも作り物めいていて、彼の本当の顔がよく見えなかった。時間をかけて本当の顔をお互いに見せ合えるようになったと思ったのに、それがわたしの錯覚だったのかな?
無理しているって言ってたな。あの子。樹君は無理してわたしに合わせている。
翌朝、まだ彼が起きてこないような時間に、でも、もしかしたら起きていて部屋から出てこなかっただけなのかもしれないけど、わたしは、静かに身支度して、荷物まとめて、彼の部屋を出た。ばたんとドアが閉まる音を聞いて、脚を一歩前に出すとまた、しゃんとした。
結局、わたしはこうなんだ。
わたしは1人なんだよね。1人で生きてくみたいに運命づけられているんだよ。昔、言ったことがあるじゃん。わたし恋愛運も結婚運もないってさ。じゃあ、仕事運とかはあるのかなぁ。この際、自分でなんか会社とか作っちゃおうかな。
電車に乗って移動する。空いた車内にぐったりと座りながら。昨夜結局きちんと眠れなかったから、体が重い。
運がないことに向いてないことにがんばったってしょうがないじゃん。
あーあー。神様は意地悪だな。
最終的にだめになるなら、出会いなんていらないじゃん。ずっと一人のほうがどんなにいいか。素敵な夢を見させて、最高に幸せだと思った次の瞬間にずどんと突き落すなんてさ。わたしが何をしたっていうのよ。何もしてないじゃん。
幸せの味なんて知りたくなかった。あんな温かさ。いらない。一生知らなければよかった。
人が少ない早朝の電車の中で、少しだけ泣いた。
マンションについて部屋番号を入力して呼び出したけど誰もでない。出かけているみたい。とことんついてない。でも、鍵持ってる。オートロックをあけて、エレベーターで上る。普段住んでいない人間に鍵を渡すのって、ほんとは管理側からしたらいやかもだけど、これはお母さんの気持ちだった。お守りみたいなの。わたしに持たせた。
わたしには帰る家があるってことを忘れさせないために。
どうしようもなくなったときに、とりあえずひとつは帰る場所がある。いまのところ、わたしには。
「お母さん。どこにいるの?」
「どこって……」
千夏から電話。こんな朝早く。
「あんたこそどこにいるの?」
「お母さんたちのマンション。」
「え?何よ。来るならちゃんと電話しなさいよ。今日だって聞いてないもん。お父さんもお母さんも太一んとこいるのよ。」
「そっか。わかった。」
声が寂しそう。変。
「今日からさ、泊めてね。それだけ。」
「え?なんで?」
「…なんでも。」
ぷつっと切れた。どうしたんだろう。変。彼氏んとこ、上条君のところに泊まるはずなのに。休み中ずっと。
「ねぇ、せいちゃん。」
「なに?」
夏休みに太一んとこまで遊びに来ていた。孫たちと息子夫婦とキャンプ。太一は埼玉に住んでいてここも埼玉だから、東京帰ろうと思えば、お昼になるかならないかで帰れる。
「千夏が、帰ってきてるってわたしたちのマンション。」
「なんで?」
「何も言わないのよ。今日から泊まるってしか。」
「ああ、そう。」
それしか言えないのか、うちの旦那は。
「帰る。わたし。」
荷物をまとめにテントの方行こうとしたら手つかまえられた。
「やめなさい。」
「だって、心配だもん。」
「お前が帰ったら、千夏が気をつかう。」
「な!」
一気に頭に血が上る。
「どういう意味よ。」
「そのままの意味だよ。」
涼しい顔してる。
「なんで、そんな落ち着いていられるの?」
「あのさ。その、お前がこの前会った彼氏とやらとけんかでもしたのかもよ。でも、ほっといたら頭冷やして仲直りして、彼氏の家に戻るかもしれないじゃない。いずれにせよ。お前が帰って何の役に立つんだよ。」
「だって」
「だって、何?」
「心配なんだもん。」
ため息つかれた。
「何歳だと思ってるの?千夏のこと。」
「千夏は……」
言い返せない。
「でも、あの電話の声は普通じゃなかった。普通のけんかじゃない。確かめる。」
電話かけようとした。
「やめなさい。」
「なんで?」
「そっとしといてあげなさいよ。もし、小さいけんかならそれでいいし。大きい何かあったんだとしても、今更親の俺たちに何ができるっていうんだよ。何もできないよ。」
「そばにいてあげることぐらいできる。1人ぼっちにしないくらい。」
せいちゃんもう一回ため息ついた。キャンプ場に二泊。帰るのは明日になる。今晩千夏を1人にするのが忍びない。
「俺が帰るから、お前はここにいなさい。」
「どうしてわたしが帰るのじゃだめなの?」
「お前が帰ったら、千夏より泣くだろ?この前だって自分のことみたいに喜んではしゃいで。お前が落ち込んでんのみたら、千夏もっと落ち込むよ。」
「ごめん、太一。急用できちゃって。帰んないと。お母さんだけ残してくからよろしく。」
「え?仕事?」
「うーん。千夏が、一大事?」
「お姉ちゃん、なんかあったの?」
昨日、彼氏ができたと騒いじゃってたな。なつのやつ。
「彼氏となんかあったのかも。でもよくわかんないよ。」
太一、心配そうな顔をする。
「え~。おじいちゃん帰っちゃうの?久しぶりに会ったのに。」
孫の香音が怒っている。
「ごめんね。今度またゆっくりくるから。」
「そんなこと言って、おじいちゃん、いっつも忙しいじゃん。お仕事で。」
「おばあちゃんは残してくからさ。許してよ。」
ふと思いつく。
「香音はおじいちゃんが残るのとおばあちゃんが残るのとどっちがいい?」
「え?」
香音が何か死にかけた動物が目の前にいるのに助けられなくて葛藤するような顔をして悩む。
「お父さん、香音、そういうの真剣に悩むからからかうのはやめて。」
「お前のちっちゃいころそっくりだな。」
ちょっと笑えた。
「京香さん、すみません。折角だけど千夏が、なつ曰く一大事みたいなんでね。」
太一の奥さんに声をかける。
「お義姉さん、大丈夫ですか?」
「なつが大袈裟なんですよ。いつも。」
なつが憂鬱な恨みがましい顔で僕を見る。
「お父さん、行こう。」
「タクシーかなんかで行くよ。」
「こんなとこ、タクシーなんかつかまらないって。東京じゃないんだから。」
太一の運転でもよりの駅へ向かう。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「どうだろうなぁ?」
暑い東京を離れて、山の中腹の高台で過ごす朝は気持ちよかったな。緑に囲まれて。子供が幸せそうに親してるのを横で見て。でも、もう片割れがな、まだ、こういうものを手に入れてないんだよね。
「お姉ちゃんにもお前に来たみたいな幸せが来るといいのにね。」
「いい人そうだったって。お母さんが喜んでたのに。」
「お母さんはいつもフライングするな。」
少し黙る。太一は優しい子だから、今、きっと姉のために胸を痛めている。
「京香さんにお前からも謝っておいて。折角いろいろ準備してもらったのに。ごめんな。」
「いいよ。僕たちは。気にしないで。お姉ちゃんを1人にしないであげて。」
太一は別れ際にそう言った。電車の中で考える。
お父さんがそばにいてあげてもな。もう、足りないんだけどな。それでも、誰もいないよりはましなのかもしれないけどね。
千夏は太一とまた、真逆だな。太一は早すぎるくらいの結婚して、千夏はゆるゆると遅くなってきたな。まぁ、今時30過ぎで独身の女の人なんてごろごろいるか。
昼過ぎに家に着いた。ドアを開けても反応がない。そっと家にあがって千夏を探す。ゲストルームのベッドの上で、うつぶせになって眠っていた。服のままで。そっとドアを閉めた。
リビングで、ドアにささってた朝刊を広げて読む。千夏は夕方まで寝続けて、ふと起きてきた。
「あれ?帰ってたんだ。お母さんは?」
「お父さんだけ先に帰って来たよ。」
冷蔵庫に行って、麦茶を出してコップに注ぐ。千夏。
「なんで?」
「お母さんが千夏を一人にできないって大騒ぎするからさ。」
「じゃあ、なんでお母さんじゃなくてお父さんが帰ってくるの?」
こっちを見た娘の顔を見て、さすがに胸が痛んだ。泣きはらした顔をしていた。
「お母さんはさ……」
お前のこの顔を見たら、絶対に瞬殺で大泣きしただろうなぁ。
「香音がね。おじいちゃんとおばあちゃんだったら、おばあちゃんにそばにいてほしいんだってさ。」
「ええ?」
「そう。振られたの。孫娘に。」
やだ、もう。と笑った。
「お前、何か食べたのか?」
「え?いや。ずっと寝てたし。」
「どっか行くか。作るの面倒くさいし。」
「わたし、食欲ないし。」
「折角日本にいるのに。日本でしか食べられないもの、食べないの?」
「……」
「蕎麦は?最近、手打ちのおいしい店見つけたんだよ。」
へなへなした娘を無理に連れ出す。
昔のことを思い出す。腕にくっついてきた昔。もちろん今は手をつないだり腕を組んだりはしない。親子で昔のようには。
「なにも聞かないの?」
「話したければ聞くし、話したくなければ沈黙もいいじゃないか。」
「……」
「年を取ると、静けさがいいな。言葉は少ないほうがいい。」
「そうなの?」
「でも、相変わらずぺちゃくちゃ騒がしい世界にいるけどね。」
会社でわいわいがやがやだ。ときどき、ふっと、勝手にお前らやってなさい。と思いながら聞いている。
「お父さん、仕事、楽しい?」
「全然」
「即答だね。」
「まぁ、でも、何か意味があって自分が今、ここでこういうことやってんのかなって思うからさ。必要とされるうちはやろうかなって。」
「そうか。」
「お前は?仕事、楽しい?」
千夏はふいと遠くを見た。2人で川べりを歩いていた。近道にならないんだけど。気持ちがいいから遠回りしてゆくことが多い。最近見つけたばかりの小さなお蕎麦やさん。
「楽しいけど……。」
向こうをむいたままで、こっちを向かずに。
「空しいなぁ。」
こんなこというなんて、千夏らしくなかった。
「お前にも、空しいということがやっとわかるようになったのか。」
こっち見た。
「変な言い方。」
「空しいがわかるのは大人なんだよ。」
「なに?それ。」
「何かを手にしたことがあるから、満たされたことがある人間にしか、空しいというのはわからないよ。」
腕一杯に大切な物を抱きしめたことがある人にしか、その空っぽだという感覚はわからないと思う。
風が出てきて、髪が乱れるのを厭って片手でそっと抑えながら、千夏は僕を見ていた。
「それなら、大人になんかならなくていいのに。一生知りたくなんてないよ。空しいという感覚なんて。」
そう言って、また歩き出す。沈黙を2人で楽しみながら。
空を飛行機が通りすぎていく。夕方の黄金の空の中を、あれはどこへ行くんだろうな。
「人生の味わいは、いい味わいばかりじゃないけどさ。全てを知って死ぬのと、知らずに死ぬのとどっちがいい?」
「禅問答みたい。お父さん。」
しばらく答えない。
「そんなの知らずに死ぬのがいいわよ。いいことばっかじゃないんだからさ。」
「昔の千夏なら、絶対、全部知って死ぬって答えたね。」
千夏がこちらをちらりと見上げる。
「知らずに死ぬのがいいという人は、わりと多くを知っている人だよね。」
なにがあったの?と直接に聞けない。だから、こんな禅問答みたいなことやってる。この子は難しいんだ。ある時期から難しくなった。心のうちを語らないし、そして、表情に出さない。
「やっぱり、暑いし、ザル蕎麦かなぁ。」
食欲ないって言ってたけど、ちょっとは成功したか。目論見が。
「天ぷらとかいらないの?」
「いらない。」
自分は欲しいから頼んだ。ついでに焼酎。紫蘇焼酎。
「お酒飲むの?」
「いけない?成人してるよ。」
娘が笑った。
「誰もお父さんを見て未成年だって思う人なんていないって。」
「アメリカでもだめ?東洋人って年より若く見えるんでしょ?」
「アメリカでもだめ。さすがに未成年には見えないって。整形手術でもしたら?」
「別に未成年に見せたいなんて思わないよ。もう一度やり直すなんてまっぴらごめん。」
ひとしきり笑ったあとに黙った。
「未成年のころと大人になってからって、人って同じ人でも変わるもの?」
「変わると思うよ。」
「いい人が悪くなったり、悪い人がいい人になったりする?」
ちょっと考える。
「例えば、太一はずっといい人だけど。お父さんはちょっと悪かったと思うよ。今より。」
「え?そうなの?」
「ちょっとだよ。ちょっと。」
蕎麦が来る。僕はすぐに食べるんだけど、娘は手をつけない。
「今、つきあってる彼がね。」
「うん。」
「今はすごい優しくていい人なんだけど、昔、まだ会う前にいろいろあったみたいで。」
「昔はいい人じゃなかったってこと?」
「家庭がちょっと複雑な人でね。」
娘は頬杖をついてソバ屋の格子窓から外を見る。見ながら話す。
「彼の妹さんに言われたの。わたしみたいに苦労せずに育った人には、彼を理解できないって。一緒にいると彼に無理をさせるって。」
「理解できないって言ったのは本人じゃないんだ。」
娘はこくんと頷いた。
「迷惑な妹だな。」
おいしいのに食べないな。千夏。
「迷惑?」
「お兄ちゃんは、本人は、どう思ってるか聞いてみたの?理解できないって?」
「わからないって。」
「ふうん。」
焼酎は、水割りにした。わざわざロックにするほどの焼酎じゃなかったし。
「育った環境の違う人同士って、理解しあうのは難しいんだよね。きっと。」
しょんぼりしている。
「そんなことないよ。」
「なんでそんなにあっさり言い切るの。」
「だって、お父さんとお母さんはもう30年以上一緒にいるよ。」
顔をあげた。
「どういうこと?」
「君の彼氏の、その、環境についてはよく知らないけど、お父さんの育った環境だって結構ひどいもんだったよね。」
「なんで?だって、お父さんはちゃんとおじいちゃんとおばあちゃんに育ててもらってるじゃん。お金の苦労もしてないんでしょ?」
まぁ、もういいよね。本人も亡くなっちゃってるし。
「おばあちゃんってさ。中條の。」
「うん。」
「2回、自殺未遂してるんだよ。」
「え?」
「2回目を発見したのは小学生だったお父さんなの。」
絶句している。
「太一には言うなよ。必要なければ知らないほうがいいと思うから。」
「なんで?」
「1人目の旦那さんを事故で亡くしてるんだよ。おばあちゃん。その人の後を追いたくてね。」
「……」
「自分の子供なんかどうでもよくてさ。死のうとしたの。」
「知らなかった。」
自分の娘でもね。必要なければ言わないな。自分が母親に捨てられた人間だって言うのはさ。
「理解なんてできないと思うよ。経験してない人には。でも、お父さんはお母さんに理解してほしいなんて思ったことはない。理解したいって思ってくれるだけで十分なんだ。他人のことなんてね。努力したって理解なんかできない。人間は。」
「そうなの?」
「完全に同じ人間なんてこの世にいないよ。他人を理解なんて人はできない。ただ、好きだから理解したいって思いあえればいいんじゃない?大事なのはさ、理解することじゃなくて、一緒にいたいって思いあえることじゃないのかな。」
「……」
「お前はさ、あきらめがよすぎるのが最大の短所だな。本人から言われたことじゃなくて、妹から言われたことで身を引いていいの?」
まだ一口も食べてない。この子。
「そんなんで身を引いてたら、どんなものだってその手でつかめないぞ。大切なものはしっかりつかまなきゃ。自分の手で。お父さんもお母さんも、それは手伝ってあげられないよ。」
「違う人間同士でも一緒にいられる?」
「馬鹿だなぁ。」
思わず笑ってしまった。
「そもそも人間は一人一人違う。同じ人間なんていやしないさ。」
「そうなの?」
「もうちょっというと、いい人、悪い人って言うけど、人間なんていい所も悪い所も中にもってる。それが出るくらい追い詰められたことがあるかどうかだと思うよ。だから、単純にいい人も悪い人もいないさ。お前のその彼氏はいい人でもあり、悪い人でもある。」
「うん。」
「お前自身だってさ。いい人でもあり悪い人でもあるんだ。悪い人を出さないでも暮らしていける幸運を持っていただけでさ。」
「うん。」
少し泣いている。千夏が。
「その人のことが好きなら、そばにいてあげなさいよ。彼がいい人でいられるためにはお前が必要なんだと思うよ。お父さんだって、お母さんがいなければいい人になれなかったんだから。」
「そうなの?」
「そうだね。お母さんとつきあい始める前はさ、お父さんちょっと悪い人だったよ。」
「そうなの?」
そうなの?しか言わないじゃん。この娘。
「ちょっとだよ。ちょっと。」
笑った。千夏。
「無駄にしないで食べなさいよ。結構いいお値段するんだぞ。ここ。」
やっと箸を持った。