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いつも空を見ている③  作者: 汪海妹
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同じ家に帰りたい













同じ家に帰りたい













千夏













次の日は、彼が車を出して、奥多摩へ連れて行ってくれた。奥多摩湖。鍾乳洞があるの。夏だけどひんやりして気持ちよくて。それから、湖の周り散歩して、浮橋があって、夕方夕焼けの中きれいだった。空と湖がどっちも。


きれいな自然の中に好きな人といて、きっとその日2人で見た風景は、わたしはずっと忘れないと思う。いつかまた未来に、また違う日に一緒に来たい。その時、2人じゃなくて、そこにわたしたちの子供が一緒にいたらどんなに幸せだろう?


5年後も10年後もこの人と一緒にいたい。ずっと、それから先もずっと。神様が許してくれる時間の間ずっと。


「千夏さん」


呼ばれて振り向いた。


「なに考えてるの?」


口を少し開けて、言いよどむ。もったいなくて言えない。本当のことは。言うと魔法が解けちゃって、本当にならない気がする。


「おなかすいた」


笑った。彼の笑った顔が好き。


夜、古民家に泊まった。おもしろい宿だった。次の日、滝を見に行って写真いっぱい取って、お昼は山の中のカフェ行って、それから渓谷に行って、ちょっとぶらぶらした後で、帰路につく。


「満足した?」

「うん。満足した」


お父さん以外の人の運転。一緒に帰る帰り道。好きな音楽ならして、特に話さない。これは、夜抱きしめてもらって寝るのの次に安心するかもしれない。安心して助手席で寝ちゃって、起きるともう暗くなっていてそっと目を開けて運転している樹君見てた。外が暗くて、小さな車の中に閉じ込められて、車はずっと一定の速度で前へ向かっていて、眠って起きるとふいに自分が何歳なのか、どこにいるのかわからなくなる。そして、どこへ向かっているのか。そういうときにたまらなく一瞬不安になって、でもその次の瞬間にめちゃくちゃ満たされて幸せだと思う。

運転している人が好きな人だと、絶対にどこか安全なところへ連れて行ってくれるとわかっているから。自分は何もせずにこの座席に座っているだけで、ずっと送り届けてくれる何度だって、一番安心して一番いたい場所に。それがわたしたちの家だったら、どんなにいいだろう?


「あれ?起きてたの?」

「ごめん。運転手ほっといて寝るなんて」


はははと笑った。


「女の人はさ、いいんだよ。別に。そんなんでひもにもペットにもならないじゃん」

「なんか、そう考えると世の中って不公平だね。男性が損してるじゃん」


働かないで暮らしていきたいとか、安定した未来がほしいとか、子供を産みたいとか、女の人が結婚したい理由っていっぱいあるんだと思う。年頃になれば、そういう感情が普通にわいてくるんだと思ってた。


今までだって結婚したいなって思ったこと何度かある。なんというか、それは、年頃になれば結婚ってするものだからだった。周りのみんなに聞かれるし、うちはとにかくお母さんがうるさいし。


でも、今日初めて、そういうのじゃなくて、そう思ったんだと思う。初めて。樹君と同じ家に帰りたい。一緒に遊びに行って一緒に家に帰る、こういうことを何度でもやりたい。数えきれないくらい何度でも。他の人とじゃなくてこの人と。


「なに考えてるの?」

「……」


もう一度おなかすいたっていったら、絶対どっかよって何か食べるはめに。そんなことしたら太っちゃうなぁ、この時間は。


「千夏さんが、なかなか答えずに言いよどむときって」

「なに?」

「本当は、きっと頭の中で僕が聞いたら喜ぶようなこと考えてるんでしょ?」

「なんでそう思うの?」

「だってこの前言ってたじゃん。頭の中では何度も僕のこと好きだって言ってるんでしょ」

「……」

「それは図星だから黙ってるの?」

「あのね。樹君はさ」

「なに?」

「わたしがぺらぺら好きだとかなんだとか言い出し始めたらね。つまりキャラ変したら」

「うん」

「がっかりして別の女の人探しに行く気がするわ」

「え?」

「そういうもんでしょ」

「あくまで、つまり、それは、頭の中でしか言わないってこと?これからもずっと」

「そんなことはない。それはそれで、がっかりして別の女の人探しに行っちゃいそうだし」

「いや、本当に意味が分からないです」

「それがいいんだって。君はきっと」

「どういうこと?」

「分からないから分かるまでは離れられなくなるじゃん」

「……」


ふあーとあくびして体ちょっと伸ばした。


「ほんと、千夏さんってずるいとこあるね」

「ないない。そんなとこは。どこ切ってもわたしは優しい」


どこ切ってもニコニコした顔が出てくる。千歳あめみたいな女だよ。わたしは。


***


次の日は遅くまでのんびり寝て、特に何もしないでだらだらしてた。夕方、彼が学生時代の友達と集まりがあるとかなんかで、鍵渡されて、


「予備の鍵だから。僕も持ってるし、何かあったらそれ使って外出てね」


出かけて行った。テレビでも見ながら、ぼけーっとしてるつもりだった。でもチャイムがなって、のぞき穴から覗いたら、


「あれ?梨花ちゃんじゃない」


ドアを開けた。


「ああ、あのさ。ごめん。お兄さんいないわ。今晩は出かけちゃった」

「そうですか」


ちょっと寂しそうにした。そうなのよね、なんかこの子いつも基本、寂しそうに見えるんだよなぁ。


「あ、そうだ。わたしは暇だからさ。よかったらごはんでも食べない?一緒に」


顔をあげてわたしを見た。もちろん、家で何か作りますとは言えません。


「どっか、その辺で」


にこっと笑う。梨花ちゃんはわたしをじっと見た。


「じゃあ、もし、ほんとに迷惑じゃないんなら」

「いや、別に、全然何も予定とかないし」


かばんと鍵持って、携帯かばんにぽいっと入れて、サンダル履いて外に出た。もらった鍵でドア閉める。


「あ、そうだ。携帯の番号聞いてもいい?週末にはアメリカ帰っちゃうけど、なんかわたしで手伝えることとかあったらさ。ロスにいるから。連絡して」


料理注文して待っている間に、わたしが携帯出してそんな話をすると、彼女また、じっとわたしを見た。


「中條さんって、簡単に番号とか交換する人ですか?」

「ええっと、ごめん。聞いたらまずかったのかな?」

「いや、そういうわけじゃないです」


彼女はそう言って、番号を教えてくれた。


「ただ、どういう人なのかわからないから」

「はぁ、そうだね。そんなに簡単には教えないけど。仕事関係なんかで会う人全部で交換してたら、すごいことなっちゃうし。でも、梨花ちゃんはやっぱり樹君の家族だから」


彼女はじっとわたしを見た。


「中條さんって、優しい人ですよね」

「え?ああ、どうも。ありがとう」

「会ったばかりのわたしにも優しくできる人ですよね」

「うん」

「わたしの中で、そういうことが無理しないでもできる人って、今までいろんな人から愛されてきた人なんです」


それから、彼女こう言った。


「わたしとは違う。お兄ちゃんとも」


その時、わたしは彼女がこれからどういう話をしていくのかが、話の道筋がちっとも見えなかった。先の見えない暗いトンネルの入り口みたいだった。彼女のことばも、そして、彼女の瞳も。


「お待たせしました」


飲み物がテーブルに届いた。でも、陽気に乾杯するような雰囲気じゃなくて。わたしたち。


「お兄ちゃんは中條さんが思うような人間じゃないです」

「どういうこと?」

「あなたと一緒にいたいから、自分を作っているだけ。わたしたちみたいに小さい頃に満たされなかった人間って、中條さんみたいに自然にやさしくできるような人に憧れるけど、そうは、同じにはなれないんです。だから、憧れの人と一緒にいると結局最後は傷ついて疲れるんです。自分がそうはなれないって最後にはわかっちゃうから」


壁を、思い切り、作られちゃってるな。わたし。線引かれて、こっから入ってくるなって言われている。今。


「お兄ちゃんと結婚したいとか思ってるんですか?」

「そういう話はまだ……」

「やめてあげてください。無理させないで」


無理なの?無理させてる?


梨花ちゃんは、グラスを傾けて、お酒を飲んだ。ふと自分ものどが渇いていることに気がついて、ビールを飲んだ。


「中條さんみたいな人なら、お兄ちゃんじゃなくたって他にもいっぱい相手みつかるでしょ?」

「そんなことはないよ」


料理が来ても、梨花ちゃんほとんど食べない。わたしもあまり箸をつける気になれない。


「梨花ちゃんはお兄ちゃんが好きで」


ぽつりぽつりと話しかける。この子に嫌われたくなかった。普通だったら、相手が自分を嫌ってもわたしあまり気にしない。別に気に入ってもらうために媚びを売るような人間じゃない。でも、この子は好きな人の妹だから、嫌われたくなかった。


「だから、急に現れたわたしがお兄ちゃんを取っちゃったみたいで、おもしろくないのかな?」


彼女はわたしをまっすぐ見て言った。


「たしかに、わたしはお兄ちゃんを好きですよ」


その次、彼女が言った言葉の意味がわたしはわからなかった。聞き間違えたのかと思って。耳がおかしくなったのかと。


「お兄ちゃんはわたしの初めての男の人ですから」


店のざわざわしている他の人の話し声が聞こえて、手に触れているビールのジョッキの冷たさを感じて、自分は椅子に座って、若い女の子と向かい合っていて……。一瞬失った自分の全ての感覚がひとつひとつ戻ってきて、そして思考能力が戻って来た。


「わたしのことがよっぽど嫌いだから、そんな冗談を言うの?」

「冗談じゃないんです」


きっぱりと彼女はそう否定した。


「お兄ちゃんに聞いてみてください。直接。わたしが中学生のとき、お兄ちゃんが大学生だったとき」

「だって、あなたたちって、血のつながった兄弟でしょ?」

「一緒に育ってないから、そういう感覚あんまりなくって。初めて会ったときはもうお兄ちゃん大学生だったから」


わたしの頭の中に一昨日、一緒に手をつないで夕焼けのうつる湖を見ていた彼の笑顔が浮かんだ。すぐ横にいて温かかった彼の手のぬくもりが。


「正直、ちょっと、突然そんなこと言われても信じられないんだけど」

「途中で……」


彼女はゆっくりとひとつひとつ言葉をかみしめるように言った。囁くように。その声は小さいのに、どうしてだろう?小さいのにわたしの耳に届いてしまう。聞きたくないのに。


「やっぱり怖くなっちゃって。わたし中学生だったし。止めてっていったけど、泣きながら、お兄ちゃん止めてくれなかったんです」


それは、本当なの?嘘に決まってる。そんなことは。


「痛かった」


わたしだって、女だもの。その痛みは知っている。自分が望んでいないのに、される場合の抵抗感も。まざまざと想像することができる。


「どうしてそんな話をわたしにするの?」

「中條さんとお兄ちゃんは長く続けられないですよ。お兄ちゃんはわたしにずっと冷たかった。ああいうことしたのだって、わたしが好きだからじゃないですよ。そういう人なんです。本当は。中條さんが知らないだけ」

「お兄ちゃんが好きだから、わたしと別れさせたいの?」

「いいや。今となってはどうでもいいです」


急にそこで、ぱっと身を引いて背もたれによっかかって、バッグから細いたばこ出して火を点けて吸った。ふーと煙を吐く。梨花ちゃんにはたばこが不思議とよく似あった。そして、その様子。その背もたれによっかかってじっとこっちを見る様子。なんでだろう?出会ったばかりの頃の樹君と似てた。かぶった。あの人もあの頃こんな目で、こんな警戒した目でわたしのこと見てた。


「お兄ちゃんは、そんなふうにわたしのこと傷つけて、平気でいられるような冷たい人なのに、まるで別人みたいにいい人になって、中條さんみたいな人と幸せそうにしてるのが癪だっただけ」

「癪だった?」


そんな小さなことなのか。わたしたちの少しずつ時間をかけて大切にしてきたキラキラしたものや、わたしが昨日生まれて初めて心から思えた結婚したいという気持ちも、この年下の女の子の癪だったって感情で、壊されてしまうものなのか。


「わたしもお兄ちゃんも、おんなじような人間なんです。忘れて1人だけ、違うとこへ行くなんて許さない」


そう言って吸っていたたばこをもみ消す。そして、わたしをにらみつけた。

でも、その顔を見て思った。やっぱりこの子は寂しそう。


「わたし、帰ります。もう、話したいこともないんで」


彼女が灰皿に残して行ったたばこの吸い殻についている口紅の色を見ながら、ぼんやりとした。


わたしってあの子からみたらすごく、間抜けな人間なんだろうなぁ。

幸せぼけした、ばかな人に見えるんだろうなぁ。お人よしの。

樹君は、やっぱりわたしを間抜けなお人よしだと思うだろうか。

ほんとうに彼はそんなに、冷たい怖い人?


お会計をして、1人でとぼとぼ帰る。


彼がわたしに見せなかっただけで、彼の中にもあの梨花ちゃんみたいな鋭さがあるんだろうか?自分を守る必要があるときには、あのくらい、鋭くなるの?わたしはそんな瞬間にも、相手が自分の敵だとしても、相手を傷つけることに躊躇すると思う。だって、それはきっと傷つけたくないから。相手が敵だとしても。そして、傷つけたくないのは、本当に傷つくときにどれだけ痛いかをわたしが知らないからなんだ。だって、今まで、誰にもそんなに傷つけられたことがない。


梨花ちゃんは痛みを知っている。そして、あの子が言うには樹君だって、痛みを知っている。だから、彼女は躊躇なく今日わたしを傷つけた。

樹君だって昔、梨花ちゃんを傷つけたんだ。


ふと涙が出た。


わたしは一度も傷ついたことがない。だから、わたしが彼とわたしの間にみていたのはいつも全部、つるつるとしたきれいなものばかりだった。そういうものしかわたしの周りにはなかった。ずっと。樹君の中にはでも、つるつるとしたものではない傷ついたものがあったけど、彼はそれをわたしに見せたことはない。わたしには見せられなかったんだと思う。わたしは彼の全てを受け止めてあげられていたわけじゃなかったんだ。


そしてわたしにとっての普通を、つるつるときれいな世界を彼に強要していた。無意識に。世界にはそんな人を傷つける人も、ことも、そんな悪い物ないって。自分がそういうものに出会ったことがなかっただけで、この世の中にはきれいじゃないものだって存在している。きたないものだって。


わたしでは彼を受け止められない?

わたしでは彼を理解できないのだろうか。梨花ちゃんが言う通りに。


***


「ただいま」


彼が家に帰って来たとき、わたしはリビングのソファーに座ってた。電気をつけないままで、ぼんやりと。


「千夏さん?」


彼の声は明るくて、少し酔っていた。


「どうして電気つけてないの?」


灯りをつけて、わたしが彼を見て、彼がわたしを見た。驚いた顔をして、寄って来た。


「どうして泣いてるの?」


そう言って、わたしの髪を撫でた。

やっぱり信じられない。樹君が、そんなひどいことをしたなんて。この人が。


「今日、梨花ちゃんが来たの。あなたが留守の間に」


それだけで、彼はわたしがどうして泣いているのかわかったようだった。彼の体から力が抜けて、そのまま床に座り込んだ。


「彼女が言ったことは本当なの?」


違うと言ってほしかった。彼女の途方もない嘘なんだって。


「本当だよ」

「どうして?」


彼はわたしのほうを見なかった。横顔でわたしに言った。


「母が死んだばかりで……」

「うん」

「自暴自棄になってたんだと思う」

「それだけ?」

「ずっと父親がいなくて感じていたひがみのようなものが、母が死んだことで抑えきれなくなっていて……」


言うのが苦しそうだった。


「妹のせいだと思って、妹のせいにして、不満をぶつけたかったんだ」

「……」

「ずっと梨花には会ってなくって。アメリカから東京に戻ってくるまで。あいつに会うまでそんなことがあったことすら忘れてた」


何も言えなかった。何も。


「梨花ちゃんが、あなただけ違うところへ行くのは許さないって今日言っていたわ。あなただけ幸せになるのが許せない。あなたとわたしは違う世界の人間なんだって」

「……」

「あなたもそう思うの?わたしとあなたは違う世界の人間?理解しあえないの?」


床に座った彼の目線はソファーに座ったわたしより少し低くて、わたしは彼を見下ろしていた。すぐ近くにいたのに、とても遠かった。


「わからない」


そうだね。わたしもわからないわ。


「急にいろいろあって、わたしもわからない。今、混乱してる」


透明な静かな落ち着きが戻ってきた。自分の心の中に。どこまでも透明で冷たくて、悲しいのだけれど、でも、受け入れられた。少しだけ。


「明日、お父さんとお母さんの家に行く」


涙が引いた。そして、すこししゃんとした。


「こんな状態でそばにいても、お互いによくないよね。少し落ち着いたら連絡するから」


わたしの中に背骨が戻ってきたんだと思う。ただ無条件によりかかっていた心が、よりかかるのをやめた。


「ごめんなさい」


死んだ人みたいに青い顔していた。樹君。


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