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いつも空を見ている③  作者: 汪海妹
6/13

因果応報













因果応報

























「うわぁ、眺めいいじゃん」

「初めて来たの?」

「家の近くまでは何度か来てたけど、上げてもらったのは初めてかなぁ」


千夏さんがちょっとだけ変な顔をした。すぐ消えた。


「なんか用か?」

「用がなきゃ来ちゃいけない?」


用があってもここには来るなと何度も言った。それでも、最初にふらりと来てからときどき現れるようになってた。最近。


「ねぇ、なんでスーツケースなんてあるの?」

「ああ、それ、わたしの」


きょとんとする。


「アメリカで働いてて、夏休みだから帰ってきてるの」

「え?うそ?かっこいいですね。じゃ、何?お兄ちゃんたちって遠恋なの?」


こうやってると普通の女の子なのにな。


「夕飯作るけど、お前も食べてく?」


梨花がこっちを向いた。その顔が、驚いていた。


「お兄ちゃんが作るの?」


千夏さんが何を思ったか、


「わたしが作ります」


立ち上がった。思わず笑ってしまった。止まらない。


「なによ」

「いや、ほんとに外づらを大切にする人だと思って」


作るって何を作るんだろう。ほっといて見てみたい気もするんだけど。


「疲れてるでしょ。時差だってあるんだし、いいから座ってな」


大人しく座った。そのやり取りを梨花がぼんやり見ていた。













千夏













「お兄ちゃんって料理できたんだ」


梨花ちゃんがそうつぶやいた。


「家にいるとき、作ったりしてなかったの?」


わたしのほうを見た。若い子だな。何歳なんだろう?もちろん学生だよね。


「家にはほとんどいなかったから。寝に帰るくらいしか」


驚いたのが顔に出ないように注意した。複雑な関係だったんだよね。普通のわたしと太一みたいな兄弟じゃないんだよね。2人は。


「梨花ちゃんは、今、学生?」

「大学生です。大学三年生」

「ああ、じゃあ、もうそろそろ就職とか準備し始めるのか。今時は」


そういうと、ちょっと自嘲するような笑い。


「わたしは、そんなふうではないですよ」

「そんなふうって?」


ふっと笑って、回答を拒んだ。彼女。


「中條さんは、お仕事何されてるんですか?」

「ああ、あの、お兄さんと同じ会社なの」

「お兄ちゃんってどんな仕事してるんですか?」


また、驚いたのが顔に出ないようにする。


「日本で製作された映像作品の販売です。わたしたちは海外販売を担当していて、わたしはアメリカ向けに。主にアニメの販売になるんだけど」

「じゃあ、兄とはどこで会ったんですか?だって中條さんってアメリカでずっと働いているんでしょ」


わたしは樹君にそのときちょうど背中を向けていて、だからわたしの顔は見えなかったはず。正直、ちょっと驚いていた。兄弟なのに、この子、樹君のこと何も知らない。


「お兄さん、この前の3月まで1年間アメリカで研修していたの。その時に知り合って」


キッチンで料理する音が聞こえる。彼はどんな顔をしてわたしたちが話すのを聞いているんだろう?でも、ちょっと振り向けなかった。

梨花ちゃんがちょっといたずらっぽく笑った。


「中條さんってお兄ちゃんより年上ですよね。失礼ですけど、おいくつですか?」


うーん。やっぱり聞かれるよね。


「31です」

「ええっ?」


これは多分素だな。ときどき演じてる感あるけど。この子。


「すみません。あの、20代に見えます。20後半」

「いや、気を使わないでいいですよ。もう、30ですから。すみません」


なにに謝ってるんだ?わたし。とちょっと思う。


「ほら、できたよ」


気がつくと、樹君がテーブルに料理運んでる。


「簡単なものしか作んなかったけど」


チャーハンに簡単なサラダ。食べてみたら、味付けが変わってる。


「なんか、カレーの味がするよ」

「カレー粉で味付けしてるの」

「カレーだけじゃない気がするんだけど」

「他にもちょっとスパイスが入ってるの」

「へぇ~。おいしい」


梨花ちゃんは何も言わないで食べてる。大人しい。急に。樹君も言葉少な。この兄弟大いに変。変だけど、盛り上がってほしいよね。折角の出会いの場なのに。大切な人の家族と初めて会った日なのに。


「あ、そうだ。テキーラ飲まない?ライム折角買ってきたし」


立ち上がった。お酒くらい、作ります。わたしだって。


「梨花ちゃんは、お酒飲める人?」


彼女はこくりと頷いた。


「少しなら」


ライムを切って、今日はジンジャーエール買ってきてた。もし里香がここにいたら、高いテキーラジュースで割るなって怒りそうだけど。そうだ。アメリカ帰ったら里香に教えてあげなきゃ、樹君の妹に会ったよって。


「グラスってどれ使っていいの?」


樹君が立って来る。食器棚からグラスを出す。三つ。


「氷使うよね」


そう言って、冷凍庫開けてる。そして、氷のたくさん入った受け皿をわたしに渡す。うきうきしていたわたしは彼の顔を見て、また、驚いた。暗い顔してたから。何かおかしい。どうしたんだろう。気のせいかな?


グラスに氷入れて、ジンジャーエール入れて、お酒入れて、マドラーの代わりに箸でかき混ぜながら思う。わたし、何か彼の気に入らないようなことしたり、言ったりした?さっきまで笑ってたのに。どうしたんだろう?

























疲れてるだろうに無理して、お酒飲んで一生懸命場を盛り上げるために話して、それで、ふと気がつくと眠ってしまってた。千夏さん。テーブルにつっぷして。


「びっくりした。さっきまで話してたのに」


梨花が言う。


「時差ボケなんだよ。疲れてんの」


立ち上がって彼女の横にしゃがみこんだ。


「若くもないしね」


梨花をにらんだ。思い切り。


「なに、怖いよ。その顔」


千夏さんが寝てなくって今のことばを聞いていたらどうしよう、と思った。たぶん大丈夫だと思うけど。


「千夏さん、こんなとこで寝たらだめ。ベッドで寝よう」

「お姫様抱っことかで連れてくんじゃないの?」

「そういうのは漫画の中だけだって」


うーんと声がして、起きた。


「寝てた?わたし」

「うん。無理しすぎ。飛行機の中でなんかちゃんと寝れてないんだから。ベッドでちゃんと寝な」

「あ、梨花ちゃん。ごめんね」


こんだけ疲れてるのに、さっさと帰らないほうが悪いってどっかで思う。勝手に連絡なしで来て…。まぁ、でも、携帯番号教えてなかったわ。

彼女の肩軽く抱いて、寝室連れていく。


「お風呂、化粧も落とさなきゃ、服も着替えなきゃ」

「いいから、とりあえず寝ちゃいな。後で起きてやればいい」

「ごめんね。せっかく梨花ちゃん来てくれたのにね」

「そんなに気使わないでいいよ」


そう言ったら、また眠りだした。しばらく手握ったまま彼女の寝顔を見ていた。いつの間にか、梨花がそっと寝室のドアを開けて、僕たちの様子をじっと見てた。こいつはほんとにこういうところがおかしいと思う。普通、こんなとこ覗くか?


「なに?」


寝室は暗くて、リビングダイニングの灯りを背に梨花は逆光の中に立ってぼんやり僕らを見ていた。


「帰ります」

「そう」


彼女の手を離して掛け布団の中に戻して立ち上がった。


「送るよ。駅まで」

「別に道わかるし」

「いいから」


親切で言ってるんじゃない。千夏さんのいないところで話をしたいから言っている。食事の後をそのままに、寝ている彼女をそのまま残して、妹を連れて外に出る。鍵をかけた。

最初何も話さない。途中からいきなり話し出した。


「なんであんなに大切にしてんの?なんであんな優しいの?お兄ちゃんってそういう人間じゃないくせに」

「じゃあ、どういう人間」

「むっちゃ冷たいじゃん。人でなしだよ」


乾いた笑い声が出た。


「何を演じてるの?いい人ぶって」


傷つけられた人間って、どうしてときにすごい鋭いんだろうな。


「料理なんてしてるの、初めてみたけど」

「母さんと2人で暮らしてるときは、ずっと料理だって洗濯だって掃除だってしてたよ」

「あんな風に笑うのだって初めて見たよ」

「……」

「でも、らしくないよ。あんな人、お兄ちゃんには似合わない」

「どうして?」

「育ってきた世界が違う」


梨花は一生懸命必死に話してた。100m走を全速力で走っている人みたいな真剣な顔。


「お兄ちゃんとわたしは同じような世界で育ってきた。でも、あの人は違う」

「違う?」

「お金も愛も全部たっぷりもらって、そんで、才能もあって、仕事していて、自立している、何だって持ってる」

「うん」

「そういう人にはお兄ちゃんみたいな人の気持ちなんてわかんないよ。お兄ちゃんやわたしみたいな人の気持ちは」

「俺は……」


前から不思議だったことをふと聞いてみたくなった。梨花に。


「俺はたしかにお金が足りなかった。愛だって、父親がそばにいないから足りてなかった。でも、お前はお金の苦労はしてないだろう?両親だってそろってるのに、なんでお前は千夏さん側の人間じゃないんだ?」


梨花は僕にすがりついてきた。両腕をつかまれた。いつもだったら激しくふりほどいたかもしれない。でも、しなかった。


「お父さんはわたしのこともお母さんのことも愛してなんかないよ。これっぽっちも。今まで一度もまともに見てもらったことさえない。わたしは」


驚いた。


「お前の気のせいじゃないの?」


泣き出した。梨花。夜の街灯がぼんやりと彼女の顔を照らす、駅へ向かうゆるやかな下り坂の途中で。


「一日、二日の話じゃないんだよ?生まれてから今まで。こんなに長い間。わたしは思い違いをし続けてたって言うの?」

「お前のために父さんは直子さんと結婚したんだぞ。それがそもそも愛してるってことじゃないか」

「それは、責任。愛じゃない」


言い切った。きっぱりと。


「お父さんは体をわたしとお母さんにくれた。でも、心はお兄ちゃんと翔子さんとこに残してきたままだよ」


なんて変なことを言うんだ。こいつは。


「そんなことはない」

「あるよ」


ため息が出る。


「もし、あるとしたって、俺たちだって何も得てはいないさ。俺には父親はいなかったし、母さんにも夫はいなかった。ずっと二人だけだった」

「だから」

「だから?」

「お兄ちゃんとわたしは同じなの。同じ世界で育ったの。あの人とは違う」


嫌な言い方をする。あの人って。


「あの人って千夏さんのこと?」

「あの人みたいな人、嫌い」


目を軽く閉じた。


「好きな人の悪口言うな」

「お兄ちゃんは今、一時的に違う人間になれたと思っているだけ。長くつきあうときっと疲れるよ。違う世界で育った者同士は理解し合えない。お兄ちゃんだっていい人を演じ続けることはできない」


傷つけられて育った人間は周りの人の感情の機微に、動きに敏感で、そして、空気が動くのをみるように感情が動くのが見えて、そして、鋭い。無駄に鋭いよ。それはきっと、24時間ひたすら緊張しながら生きてきた人特有の、能力なのかもしれない。


「梨花お願いだ。昔、お前との間にあったことを千夏さんに言わないで」


きっとした顔でにらんでいる。梨花。


「初めてお願いしたね。わたしに」

「お願いだ。別れたくないんだ」

「お兄ちゃんがわたしに頭下げるなんて。それだって、お兄ちゃんらしくない。いつも偉そうで、わたしの言うことなんて聞いてくれなかったのに。冷たくて」

「何をしたら、言わないでくれる?」


取引の基本を見失っていたよね。自分のカード全部さらけ出して、相手にひざまずいて相手の良心に訴える?憐みの感情を引き出す?梨花に対してそんなのがききっこないって分かってたはずなのに。僕は理性を失っていた。このとき。


「わたしをもう一回抱いてよ。そしたら黙っててあげる」


たんたんとそう言った。


「お前は、俺としたいわけじゃないよね」


こいつは、僕が好きだとか、そういう感情があるわけじゃない。


「ただ、最大に困らせることができることをしたいだけだよね」

「そんなことない。愛してるよ。お兄ちゃん」


ぞくっとした。悪寒。


この子はきっと普通のセックスをしたことがない。お互いに好きで、触れたくて、愛してるとか囁いて、抱きしめあったことはきっとない。そして、壊れたおもちゃみたいに、ふさわしくない場面で、ふさわしくない相手に、ふさわしくないことを言ったりしたりしてきてるんだ。ずっと。


その一番最初のスタートラインのピストルを僕は鳴らした。


そうやって傷つけて、まともに走れないようにしておいて、それは僕だけの責任じゃないけれど。それで、でも、僕は、幸せな時間を持っているんだ。好きな人を抱きしめて。


「梨花。わかった。もう頼まない」

「いいの?千夏さんにいろいろ知られてしまっても。彼女、きっといい人を演じることができなくなったお兄ちゃんの前からは、逃げ出すと思うよ」


大嫌いな相手を崖から突き落とすことができる喜びを、梨花は顔に現している。


「因果応報だよ」

「なに?」

「自分が悪いことをしたことの報いは自分で受けます」


母さんのことをふと思い出した。あの、厳しい人。きっと母さんも僕の話に賛成するだろう。母さんは厳しかったけど、でも、嫌いじゃなかった。だって、正しかったから。


僕はばかだった。梨花に対してしたこと。千夏さんに断罪される前に、母さんに断罪される。絶対に許さない。母さんがいたら、絶対に許さないことを僕はした。


母さんは死んだけど、でも、ずっと僕を愛して育ててくれた。死んだからってその愛が消えたわけじゃない。だから、僕は母さんに顔向けできないようなことをするべきじゃなかったんだ。


過去の愚かな自分のせいで、やっと手に入れたかけがえのない物を失くすとしても、それはやっぱり正しいことなのだと思う。正しいこの世の理。因果応報だ。


梨花は帰って行った。


家に戻って寝ている彼女の顔を見てから、1人でソファーに座ってぼんやりと考える。梨花と僕はきちんと話したことがなかった。向き合って話すことがなかった。僕から父親を奪った張本人だと思って、憎んでいたからだと思う。本当はでも梨花は僕と向き合って話したかったんだと思う。だから、あの夜、僕がすべきだったのは彼女の言うままに彼女を抱くことじゃなくて、ただ、向き合って話を聞いてあげればよかった。自分のほうが年上だった。全然大人だったのにな。妹に比べたら。


結局、僕はいびつに育ってるんだと思う。だから、余裕がなかった。心に。

梨花の言う通りかもしれない。あらゆる意味で豊かに育った千夏さんにはかなわないし、一緒にいるのは無理なのかもしれない。

最初はよくても、いつか疲れるのかもしれない。


「肌の調子が悪い。最悪」


朝からパックしている。


「お手入れしないで寝ちゃうなんて」

「たまにはそういう日もあるでしょ」

「そのたまの日のミスをリカバリーするのに、一週間はかかるわ」

「そうなの?」

「普通の状態になったところで、休み終わりじゃん」


なんか無茶苦茶かりかりしてるね。


「ねぇ、もう起こっちゃったことでイライラするのやめたら?ストレスも肌には悪いんじゃないの?」


こっち向く。ちょっと笑いこらえるのに苦労した。こういう時の女の人の顔って間抜けだよね。もう見慣れたけど。隣に座った。


「一週間がもうちょっと短くなるように、リラックスすることしてあげようか?」

「なに?」

「それ外すまではできないな」


世界広しといえども、この笑える状態の女の人にキスする男なんているんだろうか。


「梨花ちゃん、昨日、呆れてなかった?」


一気に気持ちが下がった。


「大丈夫だよ。疲れてるときに押しかけるほうが悪いんだよ」


立ち上がった。


「コーヒー、淹れたら飲む?」

「うん」


お水を入れて薬缶を火にかけた。


「あのさ」

「なに?」

「その、もしかして樹君って、梨花ちゃんのことあまり好きじゃないの?」


彼女を見た。


「そう言われればそうかもしれないね」


少しショックを受けていた。


「梨花がお腹の中にできたから、うちの父親は出て行ったみたいなものだから。やっぱり、どっちかといえば嫌いだと思ってしまうのかも」

「梨花ちゃんはでも、あなたのこと好きだから遊びに来るんだよね」


普通だったらそうだろうな。普通だったら。


「あいつも、ただ、単純なお兄ちゃんに対しての好きとかじゃないだろうね。普通の兄、妹の間にあるような感じではないね。うちは」


難しい顔してちょっと考えてる。お湯が沸いた。セットしておいたドリッパーにゆっくりお湯をかける。


「千夏さんとこは?弟さんと。どんな関係?」

「普通かなぁ。あの子は、すごいおっとりしてる子だから。わたしはじめみんなとけんかなんかしないわよね」

「そうなの?」

「いまどき珍しいと思う。ちょっと世間の荒波に出して大丈夫かと思うくらい。おっとりしてる」

「もう、結婚してるんでしょ?」

「うん。2人の子のパパよ」


ぱっと笑った、みたい。顔にくっつけてるもののせいで見えない。カップを傍らのティーテーブルに置いて、ぺりっとはがしてやった。


「あっ」


怒ったみたい。ほっといてキスした。もう、昨日から邪魔入りっぱなしで一回もしてなかったんだよ。夜は寝ちゃうし。


「リラックスすることってこれ?」

「他にもあるよ」


抱きしめる。朝からシャワー浴びたばかり。いい香りがする。千夏さん。


「あのね」

「うん」

「今日は特に予定いれてなかったよね」

「うん。疲れてるかなって思って」

「あなたに会いたいって人がいて、嫌なら無理にとは言わないんだけど」


体を離した。


「誰?」


言いにくそうにしている。そんな嫌な人?


「お母さん」


ちょっとぼんやりした。


「ああ、はい。喜んで」


ちょっと棒読みになったよね。


「嫌だよね。なんか、こういうの」

「いや。嫌じゃないよ」

「ごめん」


謝るくらい恐縮している。


「そりゃ、ちょっと緊張するよね。でも、もともとどんな人なのか興味あったし。千夏さんの話にときどき出てくるから」

「うーん」


千夏さん両手で顔を覆った。


「どうしたの?」

「会わせていいのか、わたし自身も正直悩んでる」

「なんで?」

「いろんな意味で強烈な人で、その、好き嫌いがはっきり分かれると思うんだよね。うちのお母さん」

「そうなの?」

「あ、でも、見た目は普通よ。普通のおばさん」


ふふふふ、笑えた。


「なんで、笑ってるの?」

「いや。千夏さんと一緒じゃん。それ。包装は普通なんだけど、中から何が出てくるかわからないってことだよね」

「一緒にしないで」

「なんか楽しみだな」


午後、行きたい美術館があるって彼女が言うのと、夜はお父さんを1人にするわけにいかないから、ランチをしようと言う話になったらしい。美術館の近くで待ち合わせをする。お母さん、そっくりだった。顔ではなくてふとした部分の行動というか。待ち合わせして待っている人を見つけたときに無防備に笑って、小走りになって駆け寄ろうとして、あとちょっとでこけそうになった。びっくりした。ほんとに。駆け寄って助けられる距離じゃなかったから。


「もぉ、お母さん。恥ずかしい。いい年して」


久しぶりに会ったお母さんにきついこと言っている開口一番。


「ごめん、ごめん。なんか、気がはやっちゃって」

「もう年なんだから考えてよ。転んで骨とか折るんだよ。若い頃と違うんだから」

「はぁ?そんな高齢者じゃないわよ。失礼ね」


東京の真ん中で、こけそうになって、次に、東京の真ん中で、親子げんかしそうになっている。


「あの……」


2人でこっち見て、顔は似てないんだけど、そっくりだった。表情が。笑えた。


「すみません」


千夏さんマニアとしては、笑いが止まらなかった。


「ああ、お母さん。上条君。上条樹君」


目を真ん丸にして僕のことを見ている。お母さんは一体僕の何にそんなに驚いているんだろう。


「初めまして。上条樹です」

「どうも。千夏の母の中條夏美です」


その後両手で口元隠して、さっきの驚いた顔を修正した。普通の顔に戻った。千夏さんの言うところの普通のおばさんに。こぎれいな格好をした東京のおばさん。


***


「大体、お母さんの年で走ったって、何秒変わるのよ。その何秒早く出会えるので、何が変わるのよ」


店に入って、席についても千夏さんぶつぶつ言い続けている。


「お母さん……」


水を飲みながらお母さん体勢を整える。


「もう、十数年このときを待っていたからさ。その何秒かにお母さんのこの十数年の焦って来た気持ちが現れてるわけ」

「は?待っていたって何を?」

「千夏ちゃん、だって、いつまで待っても彼氏できないんだもん」


笑ってしまった。前で聞いていて。爆笑。


「ちょっと。変なこと言わないでよ。彼氏ぐらいいました。今までも」

「でも、お母さん聞いたことも会ったこともないもん。知らないわよ。生まれて初めて娘の彼氏に会うんだもん。気もはやるわよ」

「太一は結婚してるし、孫だって抱っこしてるのに」

「娘と息子は違うのよ」


そして、急に僕のほうを見る。


「美人のわりにもてなくて、この子。絶対にさっさと結婚すると思ってたのに」


にっこり


「余計なこと言わないでよ。初対面の人に」

「お母さんなんかよりバラ色のもて人生で、さっさと結婚すると思ってたのに」

「結婚だけが、答えじゃないでしょ?」


そこでお母さん黙った。そして、また僕に言う。


「わたしとこの子は価値観が違うんですよ」


そして、僕の目をまっすぐに見て言った。


「この子、ときどき難しいでしょ?」


僕はその時、ほんとに油断していた。だって、千夏さんのお母さんって、そんなふうに見えないじゃないですか。警戒しなければいけない刺客には見えない。でも、ほんのわずかな、本当にほんのわずかな時間でいきなり僕の心臓の近くを刺してきた。千夏さんの見ている脇で、僕は、思わず答えてしまった。


「はい」


その後、お母さんは笑った。優しく。


「なんだ。すごいね」

「何がですか?」

「ごまかさずに答えるってことは、君は本当にうちの娘とのこと考えてくれてるんだね」


そして、


「感動した」


涙ぐんでしまった。ええ?


「お母さん、ちょっと何してるの?出がけに一杯ひっかけたとか?」

「飲んでません」

「なんで、そんな輪にかけて涙もろいわけ?」

「更年期かな」


少し涙ぐんで、それ、お店の紙ナプキンでちょいちょい拭いてる。


「千夏のことは、お母さんずっとすごい心配していて。それで、この前あんたが彼氏できたって言ったときから、わくわくしてよく眠れなくって」

「ええ?」

「それに年取ってくると、感情のスイッチみたいのがもっと軽く入っちゃうのよ」

「どういうこと?」

「余計なことをすっとばして、感動しちゃうの」


また笑った。


「もう勘弁してよ」

「別に迷惑かけてないし。警察とかにさ」

「ごめんね。樹君」


こっちに言って、その後に2人で笑ってる。笑いあう顔を見て思った。


どうして千夏さんが今みたいな人になったのかわかった。子供みたいな感性で、なんでもないことに感動する。そして、それに周囲を巻き込んでしまう。一度見つめはじめると、目が離せなくなってしまう。


こういうお母さんに育てられたからなんだって。


***


お母さんと別れた後に美術館行く。現代アート。よくわかんない。でも、まぁつきあって、終わった後の千夏さんの解説をふんふん聞きながら、電車で帰る。


「夜、お寿司とか食べたい?日本帰ってきてるから」

「食べたい」


外食つづきになるけれど。まぁ、いいだろう。


「お母さんって、ほんと、すごい人だね」

「ね、強烈でしょ?」

「お父さんはどんな人なの?」

「うーん。そうだなぁ」

「大人しい人?」

「おとなしくはない。でも、穏やかではあるかな。で、しっかりしているはずなのに変なとこで抜けてるの」

「忘れ物をするとか?」

「う~ん。会う前にこういうこと聞かせるのもよくないのかもしれないけど」

「うん」

「浮気したら即ばれるような感じかな?」

「……」

「よく知らないけど、未遂的なのがあってさ。何年か前に。お母さんアメリカまで家出してきたから」

「……」

「ん?どうした?」

「いや、聞いては行けない話だったような気がする」

「いや、もう、離婚してもいい?千夏ちゃんとか言ってたからね。お母さん。ひやひやしたけど、元さや収まったみたいよ」

「そうなの?」

「うん。そうなの」


そう言って中トロ頼んでる。


「どこの家でもあることなのかな、そういう離婚騒動って」

「どこの家でもはないと思うよ。まぁ、うちはあったけど」

「それでも、最終的に離婚するしないの境目はどこにあるんだろうね」


うーん、と彼女が斜め上を見ながら考える。


「それは、わたしに聞くのが大いに間違っている」

「なんで?」

「結婚したことがないもん。その先の離婚なんて、もっとわかんないよ」


そして笑った。その後ふと2人で見つめ合った。ちょっとまずかったな。この話題。僕、この前2人でいられるように考えるって言ったよね。その後何も具体的に進んでない。


「お待ち」


中トロが来て、話が切れた。













千夏













樹君がトイレに立っている間に電話かかってきた。お母さん。


「なに?」

「ねぇねぇ、千夏。むっちゃかっこいい彼氏じゃん。かっこいいっていうか、かわいい?なんで先に年下だって言わないのよ」

「ええ?別に会えばすぐわかるじゃん」

「こっちにも心の準備ってもんがあるのよ。ぱっと見て分かったときに度肝抜かれたわ。あんたってなんか年上つかまえそうなのに」

「そうなの?」

「そうよ。だから、びっくりした。わたしの思ってた千夏がまた崩れた」

「それだけ?もう切るよ」

「ちょっと、何よつれないわね」


ぷりぷり怒っている。


「ねえ、お母さん。何が言いたくて電話かけてきたの?」

「ええ?」


少しこほんともったいぶった。お母さん。


「おめでとう。千夏」

「え?」


ちょっと動転した。


「彼氏できたぐらいで大げさよ。そういうのは結婚決まったときに言わないと」


そうなんだけどさー、と言いながらへへへと笑う。


「お父さんによろしくね。帰るまでに顔見せるから」


そう言って、電話切った。


「お母さん?」

「あ?なんだ。いたんだ。気が付かなかった」

「なんて言ってた?」


ビール飲みながら、聞いてくる。


「え?ああ、かっこいいねって」

「それだけ?」

「それ以外になにかある?」

「学歴とか年収とか気にするんじゃないの?親って、普通」

「ああ……」


そういうものか。普通。


「それに、育った環境とか」


ちょっとだけ、2人でしんとする。


「うちのお母さんは、そういう人じゃないから」

「じゃあ、どういう人?」


言っていいのかな?判断基準、顔なんだよな。うちのお母さん、昔っから。でも、なんか言ってもいいことないような気がする。


「うーんと、あまり、そういう普通の親が気にするようなことは気にしないかな」

「じゃあ、お父さんは?」

「うーんと」


よくわからん。


「反対に、樹君のお父さんは?」


きょとんとした。


「千夏さんを見て反対するとは思えないけど、別に今更反対されたって、自分が離婚しといてさ」


そうなるのか。


「じゃ、お母さんは?」

「ええ?」

「生きてたら、どうかな?気に入ってもらえるの?わたしみたいなの」


彼が上を向きながら考える。


「口出しはしないな。僕が選んだ人に対して。その代り絶対責任持って幸せにしろって背中たたかれるな」


そういう、人なんだ。


「自分が失敗しただけに、絶対に離婚するな、絶対に裏切るなってさ」


そう言って笑った。


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