誤ったスタートライン
誤ったスタートライン
樹
「この部屋を自由に使いなさい。狭いし、もともと書斎として設計してるから使いにくいかもしれないけど」
父親についていって案内された部屋は小さな窓が奥についていて、天井から肩の高さぐらいまで作り付けの本棚が片側についていて、その下に板が渡されて、机として使えるようになっていた。そこにベッドをむりくり入れた感じ。狭いのがいやだとかそういうのはなかった。この家に入ること自体がいやだったから、自分の部屋が狭いのなんてほんとに些細なことだった。
父の奥さんは、初めて会ったんだけど、一番最初に顔を合わせたときから、むき出しの敵意を向けてきた。痩せたきつい顔の女の人だった。不思議だった。どうしてこの人はこんなに不幸な様子なんだろう?1人でずっと男っ気もなかった母の方がもう少し、幸せそうに見えるくらいだ。
おかしいだろ?勝ったのはあの女のはずなのに。僕と母さんは負けたはずなのに。勝った人間が不幸そうなんて。
あの女が作るものをおなかに入れるのにひどく抵抗があって、出来る限りその機会を減らしてた。朝は食事をしないで出てく。昼は外、夜はバイト先で。毎日、できるだけバイト入れて、遅く帰るようにしてた。金もたまるしちょうどよかった。
そのうち、言い寄ってくる女の子がいた。いつもみたいに。
「一人暮らし?」
「え?」
嬉しそうに恥ずかしそうに笑った。今までだったら、今までの自分だったら、たぶんこんなことしなかったと思う。でも、僕はあの部屋以外に泊まれる部屋がほしかった。別に好きじゃない、でも、嫌いってわけじゃない女の子とつきあって、部屋に入り浸った。
3日か4日に一度家に帰る。あの女は、何も聞かない。汚い物でも見るような目で僕を見ていた。どうしてここまで嫌われるのかわからない。でも都合がよかった。べたべたと優しくされても、話したい話なんてないから。
「お兄ちゃん」
でも、梨花はつきまとってきた。
「ねえ、お兄ちゃんなんかにおい変わったね。雰囲気も」
中学生の妹は、一件真面目そうな優等生だった。あの女が、直子さんが、厳しい親で、とにかく勉強しろとうるさかったみたい。でも、それは表向きの顔で、
「女の家に泊まってるんだ」
真っ黒な髪で、まっすぐな、もちろん化粧だってしない。誰がこんなこと言う子だって思うだろう?大人から見たら立派な優等生だ。真面目な。
「ねぇ、セックスって気持ちいいの?」
「自分でしてみれば?」
「じゃあ、相手してくれる?」
誰も見ていないところで、大人のいないところで、こんなこと言う女だった。
「勘弁してよ」
「20代男子って性欲を持て余してるもんじゃないの?」
「女は間に合ってるから」
「じゃあ、せめてキスしてよ」
ため息が出た。
「なんで?」
「どんなものか試してみたい」
「……」
顔はおさなかった。こんなこと言ってるときも。
「学校に行けば、ごろごろ男がいるだろ。その中のどれかに頼め」
「いろいろめんどくさいんだよ。学校は」
「俺とお前は、父親が同じで腹違いの兄弟だ」
眉ひとつぴくりともさせずに、聞いていた。
「勘弁して」
「ずっと離れて暮らしてたんだもん。兄弟だなんて思えないよ」
梨花はそう言った。
「わたしにとってはある日突然、ひとつ屋根の下に男の人が来たの。キスしたくなるようなかっこいい人が」
本気で言ってるのか、嘘を言ってるのかわからないような顔してた。たった14歳なのに梨花は、純粋でもなんでもない。
「昼も夜もこんな近くにいて我慢なんてできないよ」
そして夜中に何も言わずに僕の部屋に来て、ベッドに滑り込んできた。その日、両親は法事で地方の親戚の家に出かけていて留守だった。
どうでもよくなってしまった。あの時、梨花のことだけじゃなく自分のことまで。
ほんというと、途中で最後の最後まで行く前に、梨花はやめてと言った。結局、梨花はやっぱり背伸びしていただけで、ちゃんと14歳だったんだと思う。でも、僕はやめなかった。特にしたかったわけじゃない。別にやめようと思えばやめれたはずなのに、泣いている顔を見て、いじめたくなっただけ。こいつがいなければ、僕の人生は違ったはずなのにと思って。
浮気をしていた父親と直子さんの間に梨花ができて、それで、父親は僕たちを捨てて直子さんと結婚したんだ。
終わった後に、梨花は泣きながら僕をたたいた。
「自分から来たくせに」
何も言わずに何度も弱い力でたたき続けた。
どうしてだろう?悪かったとか、そういう感情がすっぽりぬけていて、ざまあみろとすら思わなかった。悲しくも嬉しくもなかった。あの時。
変えてしまった。強がっているだけだった梨花を本当に変えてしまったのは僕だったのだと思う。
嫌がってたくせに、泣いて怒ったくせに、僕が家にいるときに、梨花は僕のベッドへまた来た。夜中に。
「今日は親がいるよ」
そう言って背中向けて無視しても、人のベッドの中に入ってきて一緒に寝ようとする。
「自分の部屋戻れよ」
「そういうことしないでもいいから、ここで寝たい」
あの子はめちゃくちゃ不安定だった。あの頃。彼女は過激な話をして僕を誘ったけれど、本当は彼女が求めていたのはキスでもセックスでもなくて、人肌のぬくもりだったんだと思う。彼女自身が混同していた。
「温めてくれる相手なら別で探せよ」
そういうとすごすごと戻って行った。梨花は相手を間違えていた。どうして彼女を憎んでいる俺なんかに声をかけたのか。結局、誰もいなかったからだと思う。親も友達も周りに、ほんとの意味で頼れる人がいなかった。それこそ、ふいに一緒に住むようになった兄弟に助けを求めるほどに、彼女の心は荒れていた。
***
ある夜、バイトの後遅くに家へ帰ったら、玄関に見知らぬローファーがあって。男物の。梨花の部屋の方からそういう音が聞こえた。とうとう忠告にしたがって、別で済ますことにしたんだと思って、それにしても、今日親父はともかく仕事で遅くなることが多かったからいいとして、直子さんはどこにいるんだろうと思った。まぁ、でもいいやと。同じ家にいるのもやなので、もう一回外に出て深夜のコンビニで立ち読みして、一時間ほどで家に帰った。玄関から靴が消えていた。
キッチンへ行って、水を飲んでると梨花が出てきた。
「さっき一回帰って来たよね」
「……」
「ねぇ」
「別に見たことも聞いたことも言わないから、安心しろよ」
急に梨花がからみついてきて、キスしてきた。
「やめろよ。なにすんだ?」
振り払ってもまだからんでくる。おいおい、そういうことした後だからもう足りてるんじゃねえのかよと思って。
リビングの電気が急にぱちんとつけられて、直子さんが帰ってきて、絡み合っている様子を見られた。14歳の娘と大学生の継子が。この場合、もちろん、どっちが悪いかって年上で、男の僕になる。
ショックを受けて立ち尽くしているあの女の顔を見ている時、その顔は少し経って般若みたいに歪んだんだけど。もう一回どっかで思った。
もう、何もかもどうでもいい。
もし、このまま、一旦受け入れてもらったのを拒絶されて、大学に行けなくなっても、どうでもいい。どっかで適当に暮らしていけばいい。俺なんて、もう、どうなったっていい。
少しずつ、穢れてしまってたんだと思う。ホテル代わりにしたくて、女の子の部屋に入り浸り、求められるままにいろいろして。思えば、あの頃彼女にしてやっていたキスやセックスと、僕が梨花にしてやったのと大差ない。梨花の場合は、血がつながっているってタブーはあったけど。愛情も何もないって意味では同じだった。そして、そうやって結局女の子を犯しているつもりでも、自分自身だって相応に擦り切れていた。
ただ、男の場合1つ違うのは、世間は男が穢されるとか、傷つくとはみない。
直子さんはもちろん、100%僕が悪いって思ったろう。
***
「直子がもうこれ以上は樹を置いておけないって」
もともと反対してたんだろうな。直子さん。僕を引き取ること。
「うん」
疲れた顔をした父親と向かい合って、どっかの喫茶店でコーヒー飲みながら。
「今までお世話になりました」
「外に部屋を借りたげるから」
「父さん……」
そういうと、目をあげた。なんて顔してるんだろう。この人、悲しんでるじゃないか。それなのに、その時、それを見ても僕は何も感じなかった。
「もういいよ」
「もういいって……」
「大学の学費だけ貸してください」
「生活費はどうするんだ?」
「部屋の保証人になってください。学生だと保証人なしでは借りられない」
「……」
「母さんがもともと大学のために準備していたお金と、バイトでためたお金でなんとかやってくから」
「バイトで貯めたお金は、留学に使いたかったんだろ?」
驚いた。
「なんで知ってるの?」
「母さんから、翔子さんから聞いてたよ。亡くなる前に」
声が出なかった。全然知らなかった。
「連絡取っていたの?」
「会ってはいなかったけど、ときどきメールでお前の様子や写真を送ってくれてたんだよ。翔子さん」
聞いたことなかった。ただただ憎んでいるんだと思ってたのに。
「なぁ、樹。お父さん今までお前に何もしてやれなかったけど、ずっとすまないと思っていたんだ。だから、大学卒業するまではちゃんと援助させてほしい。お前が気がすまないなら、そのお金は働き始めてから返してくれればいいから」
「梨花にあんなことしたあとなのに?」
梨花はどこまで話したのだろう?それは知らなかった。
「梨花があんなに不安定なのも、お父さんのせいなんだよ。お前のせいじゃない」
そんなことで許される?あんなことしておいて。
「翔子さんが一生懸命立派に育てたのに、お前がだめになってしまったら顔向けできない」
母さんのことを思い出した。今の僕を見たらなんていうだろう。その時初めて、悪かったという気持ちと悔やむ気持ちが沸き上がった。
「ごめんなさい」
「元気に明るく生きていけと言っても、難しいのかもしれないけど」
それ以上のことばを続けられなかった、父さん。たぶん、この人は、言える立場にないと思っていたからだと思う。
僕はずっと被害者だった。被害者としての正当な権利を持っていた。僕の人生に対して文句言う権利を。だけど、このときから僕は加害者にもなってしまった。だから、以前のように加害者である父親を責める権利もないんだ。もはや。
人って傷つけられて嫌な思いをしているくせに、他人を傷つけることは簡単なんだな。ゆっくりゆっくり踏みしめて登った山道を、天辺で崖から転がり落ちた。転がり落ちるのはあっという間だった。
***
「父さん、暇なときに1回時間取ってもらえない?相談したいことがあって。梨花のことで」
留守電にメッセージを入れて置いたら、しばらくしてかけなおしてきた。約束をして2人で会った。いつぶりだろう。アメリカに行く前に1回会っていた。
「久しぶり。アメリカはどうだった?」
「うん。まぁ、よかったよ。いろいろ経験できて」
また、少し老けたように思う。父さん。
「疲れてる?」
「ん?ああ」
笑った。
「何だ、なんか樹いつもと雰囲気が違うな。アメリカで何かいいことでもあったのか?」
何だろう?最近会う人によく同じようなことを言われる。
「どうして?」
「父さんに疲れてるなんて聞いてくれたの、初めてじゃないか?」
ちょっと驚いた。たしかにそうだったかもしれない。
「ああ……」
そういえば確かに自分は父親にそんなこと言ったことはなかったかもしれない。少し気持ちよさそうに笑った。父さん。
「それで、梨花のことって?」
「この前帰ったら、家の前に来ていて」
驚いた顔で見られた。
「本人、家でそんな話してない?」
「してないね」
「外で少し話して、もう来るなって言って帰したけど」
「うん。そうか」
「一応話しといたほうがいいのかと思って」
両手で顔を覆って、ため息をつく。
「わかった」
「最近は、あいつどうなの?」
父がじっと僕を見た。
「お前は気にしないでいいよ。それよりお前は?元気にしてるのか?」
「うん。まぁまぁ、かな」
なんでふいにそんなことを聞いたのかわからない。自分が結婚とか意識するような年齢になったからなのかな?
「ねぇ、父さんはどうして浮気しちゃったの?」
「なんでそんなこと聞くの?」
「いや、今後の参考に」
「お前は、浮気するの前提で結婚しようとでも思ってるの?」
ぷっと笑う。笑った後に真面目な顔に戻った。
「ごめん。たちの悪い冗談だったな」
そう言って、コーヒーを飲んだ。雨が降り出した。外で。静かな雨が。
「真面目な話を聞きたいの?本当の話?嫌な思いするかもしれないよ」
「聞かしてほしい」
ただ、一方的に母親側からしか見て来なかった。本当は2人に何があったのか、僕は知らない。
「母さんと父さんって同じ職場だったって知ってる?」
「ああ。聞いたことある」
2人とも、製薬会社で薬の開発する研究者だった。
「すごい優秀な人でね。翔子さん。本人も望んでたし、結婚してお前が生まれても仕事続けてたんだ。ある時、お前が熱を出して、そんな時にも俺も翔子さんもそばについてあげられなくてさ、彼女随分悩んだんだけど、仕事を辞めちゃったんだ」
疲れた寂しそうな目で昔のことを思い出している。
「その後にさ、社内で 奥さんじゃなくて旦那が辞めればよかったのにって言う人がいてさ」
はははと笑う。
「優秀な女の人と結婚すると、男もつらいよね。まあ、そんなところだ。それで魔がさした。そしたら、直子に子供ができて、それを知った翔子さんは……」
父は横をふいと見た。雨の中を行き交う人たちに視線を向けて、僕から視線をずらして。
「許してくれませんでした。当たり前と言えば当たり前だけど」
そういうとしばらく黙った。
「翔子さんはすごくまっすぐな人だから、そういう曲がったことした僕を軽蔑もしたんだと思うよ。そんで、結局お父さんはそんなに強くも正しくもなかった。ただの普通の平凡な男だったんだな」
「うん。母さんはすごい完璧主義だから」
ときどき、自分にも人にも厳しすぎる。
「自分でもわかってたと思うよ。最後の方は、その、自分や周りに求めすぎてもうまくいかないって」
「そうなのか?」
「職場で苦労してたから、周りと。変わろうと努力していたよ」
「そうか」
もしかしたら母は、僕に言うことはなかったけど、父ときちんと話し合わず許さずに進んできたことを後悔する夜もあったのかもしれない。
「翔子さんにも会わないうちにちゃんと時間が経っていたんだな」
そう言って笑った。
「優秀な女の人と結婚するのって大変?」
「そうだなぁ。優秀な男の人には大変じゃないだろう。普通の男には、大変だったなぁ」
胃がちくりとした。
当たり障りのない話をしばらくしてから、伝票を取って立ち上がる。
「もうそろそろ行こうか」
「ここは僕が払うよ」
「ああ、ははは」
そう言ってから、伝票をこっちに渡した。
「お前、もう学生じゃなかったな」
駅の改札を出て、分かれるときに父が言う。
「梨花がまた訪ねて来たりしたら、様子を教えてくれないか?お前には悪いけど」
「うん。わかった」
別れ際にお互い手を挙げて、父が立ち去る後ろ姿を見送った。
父と母の構造が、自分と千夏さんの構造にすり替わった。親子って不思議だな。なんで俺は父親と同じ構造にはまり込んでいるんだろう?
そして、進んでいく先まで繰り返すんだろうか?