好きな男より大事な仕事はこの世にない
好きな男より大事な仕事はこの世にない
樹
「上条君、たまには他課の飲み会にも参加しなさいよ。ロスの話聞かせて」
「すみません」
じっとお姉さんの顔を見る。もといた映画の制作部の人です。
「お金がないので」
「は?」
赤い口紅。派手な人。でも、結構さばさばしている人で嫌いじゃない。
「いい社会人が何言ってんのよ。貧乏学生じゃないでしょうに」
「遠恋してるんです。きついんですよ」
「え?」
目がきらきらした。
「なになに?どこの子?もしかしてロス?」
「はい」
「え~!なになに、どんな人?金髪の人?」
「日本人ですよ」
「なんだ」
ちょっとニュースバリュー下がったよね。ここで。
「学生とかじゃないの?留学してる子とか」
「働いてる人」
「どんな仕事してるの?」
「旅行社です」
ごめんね。里香さん。使わせてもらいます。実在してるし、知り合いだし。本人まで噂が流れ着くことはまずない。
「ということで。お金ないんで。休みにはアメリカ行かないといけないんで」
去ろうとすると、腕つかまれた。
「今日特別あんたから会費取らないから、来なさいよ。話聞かせてよ」
「え~」
嘘だし、根掘り葉掘り聞かれるのやだし。写真見せろとかってなるじゃないですか。里香さんの写真、あったっけ?千夏さんの写真ならあるけどね。でも……
製作部の人って面識ある人いるのかな?いずれにせよ。危険。千夏さんとつきあってるってばれたらまずい。会社に。
「ここまで言って来なかったら、誘ったわたしの面子つぶれるんだけど」
睨みきかされた。
「はい」
まだにらんでる。
「行きます。行きますから」
やっと離れてった。デスク戻ってこっそり、自分のスマホの写真開く。PCに一旦全保存した後に、やばそうな写真をせっせと削除しておいた。何やってんだ。仕事中に。ときどき手を止めて千夏さんの顔を見る。
元気かな。
元気だな。向こうは大人。離れてるからってぼおっとしてるのはこっちだけ。仕事しなきゃ。
「上条」
「はい」
部長に呼ばれる。
「頼んでた資料できた?」
「ええっと、あともう少し」
いかんいかん。写真削除してる場合じゃないって。
「ああ、そうそう。6月はさ、アメリカね。スケジュールちゃんと把握しておけよ。飛行機とかホテルとか。全部お前チェックしろな。ちょっと先だけど」
「はい」
出張で会える。でも、それより前にゴールデンウィークに会いに行く。その日のために今できることがんばらないと。
***
「かんぱーい」
「ね、彼女の写真見せてよ」
絶対こう来ると思ってた。
「勘弁してくださいよ」
「いいじゃない。見せてよ」
「1枚だけですよ」
3月、空港で撮った写真。見送りに来てくれた人たち。里香さんもわざわざ来てくれたんだ。集合写真を見せる。
「この人です」
「え~!なになに年上の人?」
キャーキャー言いながら、女の人たちで見てる。
「なんだよ。上条、お前アメリカは遊びに行ってたのか?」
元上司に言われた。この人いるから来たくなかったんだけどな。
「そんなわけじゃないですよ。研修してきました。ちゃんと」
「女作ってか」
「ちょっと、チーフ。そんな言い方しないでよ。がんばらなくても女から寄って来ちゃう人ってのもいるのよ」
山崎さん、今日誘ってくれたお姉さん。いつも上手に間に入ってくれた。製作にいたときも。
「でも、なんか意外」
山崎さんの横に座ってた別の女の人が話し出す。
「何がですか?」
「上条君って、遠恋とかなっちゃったら、めんどくさがって別れちゃいそうに見えるのに」
「また、ひどいこと言いますね。僕、そんないい加減な男じゃないですよ」
ちょっとぽかんとした。女性陣。
「なんか変なこと言いました?僕」
「いや」
2人で顔見合わせてる。
「なんか変わったね。上条君」
「どこがですか?」
「前は、あんまり思ったこと口に出さなかったよね」
「え?そうですか?」
「もっと口数少なかった。君」
そうだっけ?よくわからない。
スマホの僕の写真見てた人が、声あげた。
「あ、中條さんだ」
「え?どれどれ見せて」
男、女の間で回される。僕のスマホ。なんだ、やっぱり千夏さん製作でも顔売れてるんじゃない。よかった。念入りに写真消しといて。
「うわー。噂にたがわずきれいな人だね」
「きれいなだけじゃなくて、仕事もできるって。英語もぺらぺら」
「本社来ないかな。会ってみたい、実物に」
「千夏さんって、製作でも名前知られてるんですか?」
複数の顔がこっち見た。
「千夏さん?」
ええっと……
「あ、アメリカ営業所はファーストネームで呼び合ってたんで。つい、癖で」
ふうんとみんな納得した。
「ねぇ、どんな人なの中條さんって。同じ会社だけど、最初東京で勤務した以外はずっとアメリカじゃない。アニメの制作の方ではさ、メールとかテレビ会議とかでやり取りあるって」
「どんなって」
「恋人いるの?結婚はしてないんだよね」
「いないと思います」
ここにいますけど、ほんとは。相手が。
「なんでいないの?興味ないのかな、男に」
「なかなか釣り合う人がいないんじゃないですかね」
「やっぱり外人が好きなのかな?」
「さぁ、どうなんでしょうね」
本当は全部日本人だったみたいだけどね。彼氏。
「あんまり仲良くならなかったの?上条君」
じっと見られた。山崎さんに。
「はぁ、仕事は一緒にしてましたけど。プライベートのことはあんまり……」
これ、いつか社内にほんとのことばれたときに、僕どうなっちゃうんだろう。こんな嘘八百並べといて。
「ええ?でも、こんな美人なのに、気にならなかったの?」
「いや。上司ですし。それはまずいでしょ。業務上」
「え~。でも、まぁ、そっか。しょうがないよね。社会人としては」
「そうですよ」
ははははは。どんどんどつぼにはまっていく。
「ねぇ、ロスって言えばさ」
街の話題に話がそれた。僕はみんなで回しみていたスマホを回収する。
千夏
「千夏、どう?シングルに戻った気分は?」
「え~。どうも何も、ずっと1人でやってきたんだもん。前に戻ったって感じ」
「でも、休みには会いに来てくれるんでしょ?」
「一応ね。約束はしてるけど」
「ふうん」
里香が、両手をテーブルの上で組んでその上に頭のっけて下からわたしを覗き込む。
「日本ついてっちゃえばよかったのに」
「ええっ」
「別にたいした仕事してるわけじゃないんでしょ?」
ピンクのグレープフルーツしぼってわったウォッカ飲んでる。仕事がない限り、里香の飲み物はアルコールなの。
「わたしがいつ、たいした仕事してないってあんたに言った?」
「好きな男より大事な仕事なんて、この世にあるの?」
ある意味尊敬した。この人のこと。今。
「里香って、なんか迷いがなくていいね」
「え?そう?別に普通じゃない。中途半端じゃなくって好きならついていけばいいじゃん。迷ってるなら別に勧めないけど。あ、てことは」
「なによ」
「結局は決定打にかけるわけだな。上条君が。やっぱり年下だし。若造だし」
ぐいっと飲む。ため息が出た。
「なんか、里香ってさ。そのシンプルにずばっといくとこ、うちのお母さんに似てる」
「え?そうなの?」
「あの人迷わない。これって決めたら、ぐいぐいいっちゃう」
「ふうん」
自分に似た他人に興味も関心もない。それは人の真似をしないでも生きていける人の癖だ。
「別に決定打にかけるとかそういうのじゃないよ」
「じゃあ、なんでついていかないの?」
「あのさ」
少し間をおいた。息を吸う。なに、気合い入れてんだ?わたし。
「いきなり仕事辞めて、それも10年近くやってるのをだよ。日本についていったら、相手ひくって。重いよ」
「え~」
里香が眉をしかめる。
「そこは、感謝感激雨あられじゃないの?」
「里香ならかわいいかもだけど、わたしがやったら重いって」
「同じ条件じゃん。30過ぎじゃん。アメリカ帰りじゃん」
「でも、違う。重い。じと~ってさ、ほれ、仕事辞めたぞ。ほれ、責任取れって圧力かけてることになるさ。三十路ってそういうもんだろ」
「はっ」
すごい顔で笑ったよね。里香。
「あんたはほんと、一歩進んで二歩下がる」
なんかの歌の歌詞だったっけ?それ。無視して酒を飲む。
「ていうか、そういうとこ上条君も同じ。一歩進んで二歩下がる」
「は?樹君?」
「そうだよ。2人ともなんでそんなにお互いに気を使ってるの?」
「樹君が何に気を使ってるっていうの?」
「彼からあんたに仕事やめてついてきてっていうのは、100年待ってもない」
「は?100年?」
「ええっと、言い過ぎた。50年」
いや、もうそれじゃ死んでるって下手したら。
「なんで?」
「やっぱり待ってるんだ」
「……」
里香の誘導尋問にひっかかったよね。
「仕事が好きってわけでもないんでしょ?」
「いや、好きだよ。仕事。責任もってやってるし。わたしいないと会社困るだろうし」
「それで、自分犠牲にするの?女が結婚して子供産める年齢には期限があるよ」
ちっ。自分だって同じなくせに、言いたいことをよくもまぁずばずばと。
「ねぇ、ぐじぐじ悩んでても結局日本に帰るならさ、さっさと日本に帰ったほうがいいって。時は金なりだよ」
「そういう里香はどうなのよ」
「うーん」
指先をとんとんと合わせながら、上を向く。
「もう、10年好き勝手したし、あたし、日本人だし。もう日本帰ろうかなぁ」
「え?うそ」
「それこそ、別に自由な生活とロスが好きなだけでさ。仕事はここにいるための手段だし。辞めても平気」
音楽を聴きながら、里香のことばを聞く。生き生きとした彼女の表情を見ながら。
「どんなに自由で楽しくても、いつまでも続かないってわかってる。しがみつくのは嫌だし。潮時かなぁ」
「帰ってどうすんの?」
「理想は帰るまでにこっちで運命の人!的な出会いをしたいけどね。現実的には日本帰って、婚活でもするのか?」
「あんたが、日本で、婚活するの?」
思わずひとつひとつの単語に力が入った。
「なんであんたが泣きそうな顔すんのよ」
「外国人と国際結婚するのが夢じゃなかったの?かわいいハーフの赤ちゃん産むんじゃなかったの?」
「はははは」
顔を覆う。里香。
「その、昔、若気の至りで言ってた恥ずかしい話をまだ覚えてるのね、千夏。酔いが覚めたわ」
ぐいっと飲む。
「20代ってさ。自分を飾る技術を覚えて、なんか一生懸命自分にくっつけてさ。本来の自分を隠すことに終始してた気がする。でもね。今、そういうのを1つずつはがしにかかってるのかな」
「よくわかんないね。どんな話?」
「結局は、欧米にひたすら憧れた10代から20代だったけど、わたしは糠漬けくさい女だって気がついたってことよ」
「はぁ」
「人は変身できるけどね。でも、元の自分の色を生かした変身でないと、塗りつぶしちゃいかんのだよ」
「うん」
ときどき哲学的なこというのね。里香って。
「つまり、糠漬けは糠漬けのままに」
「はぁ」
でも、こんなこと言ってわざと自分のこと落としてるけど。この子ほんとにきれいな女なのになぁ。てれやさん、里香ちゃん。
「そうじゃなくて。わたしの話じゃなくて」
「ん?」
「だからさ、千夏はそんな絶対ずっとアメリカで仕事していきたいって思ってるわけじゃないんでしょ?それ、上条君分かってないと思うよ」
「え?そうなの?」
「千夏はこだわりもって働いていて、それを自分なんかのためにやめさせることはできないって思ってると思うよ」
「なんで、わかるわけ?まさか、また本人から聞いたなんて言わないでしょうね」
「思考パターンが読める」
ずずずとすする。すするな。酒を。里香。
「あんたたちって似てるよね」
「どこが?」
「自分の言いたいことを言う前に相手がどう思ってるか、言ったらどう思うかを」
「はい」
「考えすぎ」
「……」
「大事なことはいわなきゃわからない。当たって砕けろ。Byりかななせ 肝に銘じろ」
「そういうとこも、うちの母親に似ている」
きょとんとする。
「どういうとこ?」
「ぶつかるのを恐れないところ、かな?良くも悪くも」
「千夏はお母さんに似てないの?」
「どうなんだろ?」
お母さん、元気かな?久しぶりに電話してみよっかな。
樹
空港の到着ロビー、出て行ったところに千夏さんがいた。ずっと真顔で出てくる人たちを眺めていて、先に僕が見つけてちょっとすると彼女が僕を見つけた。そして、 そのそっけなかった顔を一面の笑顔に変えた。サンタさんにお願いしていたプレゼントを朝、見つけた子供みたいな笑顔。思わず足を止めた。この人がこんな笑顔をするなんて、知っているのは世界で多分一握りの人しかいない。会社ではこんな顔しない。知り合いや友達の前でだって。ここまでは笑わない。
それを僕に見せてくれるんだ。
生きていてよかったと思った。生きていて、この人に出会って、そして、また、再会できた。
「待った?」
「一時間くらいかな」
ぎゅっと抱きしめた。彼女の香りがした。
「会いたかった」
「外人みたい」
「ここ、アメリカだし」
誰も見てないって。周りの人のことなんか。
ゴールデンウィーク。すぐ来た。毎日忙しくて。社会人は忙しい。新しく住むとこ見つけて、新しい街にも慣れなきゃいけなかった。部長はやな顔したけど、日本帰国して間もないくせに有給4日とっちゃった。でも、千夏さんは休みじゃないんだよね。
手をつないで歩き出す。
「東京の生活慣れた?」
「まぁ、もともと住んでたし。慣れる必要もないというか、でも」
「でも?」
「千夏さんがいないのがいやだな。ロスだろうが東京だろうがどこでもいいけど。住むとこなんて」
聞いてるくせに聞いてないふりする。いつも恥ずかしがって。
「どっか寄りたいとこある?」
「いいや」
「まっすぐ帰りたいの?」
「うん。疲れた。のんびりしたい」
会社の車で来てた。千夏さん。
「公私混同」
「ばれっこないって」
「月曜、返すの?」
「うん」
ばたんと助手席に座る。
「なんか、女の人の運転で帰るのビミョー」
「ペットみたい?」
シートベルトをしながら彼女が聞く。
「うん。ペットみたい」
「しょうがないじゃない。あなた、国際ライセンス持ってないんだから」
「この人はペットでもひもでもありません、って僕の姿を見かけた人にテロップが流れればいいのに」
「電脳化してないから、まだ、ムリだって」
ははははは
「他社の作品でつっこむのはよくないよ。千夏さん」
「あれ?知ってんの?樹君、こんなん見たの?」
「最近はいろいろ勉強してるんで」
「ふうん」
僕のことからかうような顔で笑う。赤いルージュの唇で。
「会いたかった」
二回目。助手席から手のばして引き寄せてキスした。久しぶりの感触。浮気とかしてなかったし。
「早く帰ろうよ」
切実になってきた。
「はいはい」
車を発進させた。
「そういえば樹君って、免許持ってたんだっけ?」
「持ってるよ。学生のうちに取ってる」
「ペーパー?」
「実家出るまではときどき運転してたし、製作の時は車出さなきゃいけないこと結構あったから」
ちらりと実家の車を思い出す。
「そうか」
「今度日本来たとき、レンタカー借りてどっか連れてってあげるよ」
そう言ったら、またあの子供の笑顔で笑った。
「ときどき、ほんとなんでもないことでびっくりするくらい喜ぶね」
「そお?」
「ときどき、ほんとなんでもないことでびっくりするくらいすねるけど」
「今のは後ろのセリフがなければ満点だったのに」
久々に千夏さんの軽口を聞いた気がした。
「やっぱり電話で話すのよりこっちのほうがいいや」
彼女が横顔で笑う。ピアスが揺れる。赤い小さい石がきれい。
「どこかの男に買ってもらったの、つけてる」
「そうね」
僕が買いました。日本帰る直前。彼女の誕生日に。
「そういうところ、きめこまやかだね」
「じゃあ、別のところはずぼらなの?」
「ほめてもたたき返してくるんだ」
ははははは
「わたしは照れ屋なのよ」
運転する横顔をずっと見る。髪の毛あげていてきれいな首筋が見えていた。僕のプレゼントつけて迎えに来てくれた年上の人。三度目の会いたかったはさすがにしつこいと思って、芸がないよね。心の中でだけつぶやく。寂しかった。恋しかった。見つめたかったし、触れたかった。千夏さんに。
こんなに好きなのに離れてるなんてばかばかしいなと思う。思いながら時差ボケもあるし、疲れてるのもあって助手席で眠ってしまった。
「着いたよ」
はっと気づく。
「ださい」
「なにが?」
「運転してもらって、しかも、助手席で寝るなんて。ほんとひもかペットだ」
「くだらないこと言ってないで。ほら、荷物」
あ、階段だった。忘れてた。まぁ、でも2階なんだけどね。
「言っときますけど」
ずっしり重いスーツケース抱えてる僕の横から彼女が声かける。
「久しぶりに会う彼氏のために手料理作ってあるみたいな展開はないから」
「人が千夏さんに頼まれたお土産で重くしたスーツケースを運んでる最中に」
「うん」
「そんながっかりするようなこと言わないで。せめて一番上まで運び終わってから言ってよ」
「がっかりするの?」
「した」
「じゃ、作って待ってたほうがよかった?」
「無理にとは言わないよ」
頼んでいやいや作ってもらったってな。
「あなたが料理上手だからいやなのよ。じゃがいもの皮むけないような人だったら作ったって」
「なに?その言い訳」
へへへと笑った。
「知ってるよ。ただシンプルにめんどくさかったんでしょ?」
「いや。そんなことないって」
部屋に入って、スーツケース開いた。
「ほら、しらす」
「ああ~!」
また子供みたいな笑顔。
「それでこれが芋焼酎」
銘柄まで指定されて買ってきたやつ。
「ああ」
「しらすなんかより、こっちのほうが高いんだよ」
「それ、里香が飲みたいのだから」
「ええ?そうなの?」
「樹君来るって言ったら、持たせろって」
「里香さん、芋焼酎なんて飲むの?」
「酒ならたいていのもの飲むね」
嬉しそうにしらすぼしみてる。
「そんなに好きなら次、出張で来るときも買ってくる?」
「いいの?」
この人のこのアンバランスさはなんなんだろう?とてつもなく簡単なことにわざわざいいの?と聞くくせに、時々絶対に不可能な難題をふっかけてくる。
「こんなことくらい。いくらでも」
嬉しそう。その顔見ながら、少し甘やかしたくなった。
「すぐ食べたいなら、ごはんとか炊いてあげようか?」
「ないよ。米なんて」
「……」
「あなたが買ったの食べ終わってから買ってない」
「つまり、僕がつきあう前の千夏さんに着実に戻っているわけだ」
自炊しろってあれだけ言ったのに。
しばらくしてごはんを食べに外へ出る。歩きながらおしゃべりする。
「そういえば僕じゃなくてもさ、部長に頼んだって買ってきてくれるじゃん。千夏さんってさ、部長には頼まないよね」
「ああ」
「なんで?」
「だって、わたししらす食べるキャラじゃないじゃん」
「……」
そんなキャラないだろ。しらすなんて日本人ならたいてい食べるって。
「つまり中條千夏っぽい依頼品がなにかを考えてるってこと?いつも」
「そうなのよ。そうするとよくわかんなくなるからさ。部長には何も頼まない。別に困らないし」
「じゃあ、僕にはキャラとか気にしないの?」
ふいとこっち見てじっと見上げた。僕のこと。
「気にしたほうがよかった?」
「気にしたほうがいいって言ったらどういうキャラを演じてくれるの?」
「ええっ?」
しかめつらになる。
「わたしは外づらと内づらの2つから選んでもらうしかないけど」
「どっちも知ってるから、どっちでもいい」
ほっとして前見た。
「でもエプロンつけて料理してくれるみたいな新しいキャラは出てこないの?」
「え~」
「何度言っても拒否るよね」
「何度拒否っても言うよね。なんでそんなまずいってわかってるもの食べたがるの?」
「まずいの?」
「……」
「千夏さんでもできないことあるんだ」
ちょっと笑えた。くくく。
「いっぱいあるよ。なんで勝手にいろいろできることになってるの?」
すみません。信号待ちで立ち止まる。彼女の頬にキスをした。
「外なのに」
困った顔をした。
「長くアメリカ住んでんのに、日本人らしいよね。そういうとこ」
答えない。つないでる手をぎゅっと握った。
「ねぇ、ごはんなんてさっさと食べて早く帰ろうよ」
食事を終わらせて部屋に戻ったら、彼女の服を脱がして、裸にして、久しぶりにといっても1か月そこらなんだけど、彼女を抱いた。裸なんだけど、耳に僕がプレゼントしたピアスだけつけてて、彼女を抱きながらそれが揺れるのを見ていた。
この人が自分のものだというのが、いまだにどこかで信じられなくて、それを確かめる度に恍惚とする。ずっと長くいたら、千夏さんが自分のものだということが当たり前になってこんなにうっとりすることもなくなるのかもしれない。それはいつくるんだろう?
その前に僕たちはずっと一緒にいられるんだろうか。お互いに飽きてしまうぐらい長く。
千夏
ずっとそんな生活を送ったことはなかったのに、いつの間にか家に男の人がいる生活に慣れていて、慣れてしまってからまた1人で生活するのに苦労した。いろいろな場面で不便さを感じたけど、高い所の物を取りたいときとか、瓶のふたが硬すぎて開かないときとか、でも、やっぱり一番嫌なのは冷たいシーツの間に自分の体を滑り込ませる瞬間。樹君のぬくもりが恋しくなる。夜の青い闇の中で1人目を閉じて、隣に彼がいる様子を思い浮かべる。恋しかった。
もともとは1人だった。幾夜もそういう静かな夜を暮らしてた。だから、きっとわたしはまたそれに慣れることができるのだと思う。次に怖くなったのは、お互いにお互いを忘れてしまうんじゃないかということ。恋しいという気持ちは時間と距離があけばあくほど、きっと小さくなっていく。
「今夜はほんとぐっすり寝られそう」
そういって目を閉じた。わたしのすぐ近くで。ちょっと物足りない。忘れちゃったかな?と思ってると、彼が腕を伸ばして抱きしめてくれた。後ろからいつもみたいに。わたしは息を吸ってそれから吐いて目を閉じた。
安心して満足した。その気持ちはまだ、前と同じくらい。だから、まだ2人はきっとつながってるんだと思う。同じレベルで。
気持ちが同じ強さであり続けるのって難しいと思う。
順調に飛んでいるうちはそのバランスのあやうさに気がつかない。飛行機みたいなもんだ。恋心なんて。離れていて、わたしたち大丈夫なのかな?
それぞれが片方の翼でどちらかが重くなれば、そしてかたわれがその重さに嫌気がさせば、あっという間にバランスを崩して、落ちて行ってしまう。
彼の寝息を聞きながら思う。
30過ぎたから結婚したいとかそういうのもやっぱり人並みにあるけれど、けれど、当面の切羽詰まったものは、ただ、近くにいたい。それができない今がつらい。
そして、この離れた状態がいつまで続くのか、未来は近くにいられるのか、わたしたちにははっきりとした約束がない。
年を取ってしまったからなんだろうか、不安定な状態で飛び続けることが怖い。はっきりとした約束がほしい。未来が見えない。
そして、わたしはそういうことをうまく言いだせない。確かめられない。
この人はまだ26歳。まだまだ自由でいたいんだろうな。
***
仕事をして、定時が終わるとこそこそと毎日残業せずに帰る。どうしても終わらない仕事は持ち帰る。樹君の顔が見たかった。
「千夏、最近とてもおかしい。どうして毎日早く帰る?」
トレーシーに見つかった。
「どうしてって」
「誰か日本から来てるのか?夏美ママさん、また家出でもしてきたか?」
トレーシー古いこと覚えてるな。あのときはときどきトレーシーも一緒に遊んでたからな。
「違うわよ。ま、でも、ちょっと用事があって」
「ふうん」
納得したようなしていないような顔。
「じゃ、また明日」
家に帰ると、
「お帰り」
わたしが仕事で昼やることのない彼は、結局部屋をそうじしたり、洗濯したり、そして夕飯作って待っている。
「もっと、せっかくの休みなんだから、だらっとしたらいいのに」
「読みたい本とか読んで?」
「見たい映画とか見てさ」
微笑みながら、わたしの髪の毛を指で梳く。
「なんか、シャンプー変えた?」
「え?わかるの?すごい」
「なんかにおいが違う」
「やっぱり犬みたい」
しかめつらした。
「犬って言われるのやだって何回言った?」
「あなたが嫌がる様子がかわいいから、言うの癖になっちゃって」
「もういいよ」
ため息つかれた。
おしゃべりしながら、のんびりご飯食べて、ごはんの後にソファーに並んでテレビ見る。日本での話やわたしのアメリカでの話。
ほんの少し前までと同じ生活。
違うのは、わたしの心の中に常に砂時計みたいのがある。大切に過ごさないと、すぐにまた会えなくなるんだから、という焦り。