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父に見捨てられた、と、私にはそう感じられた出来事から5日後に私は、自分の親指と手のひらの間を斜めにカッターで深く傷つけた。
血がたくさん流れて、意識を失う寸前まで、私はとても、そう、とても幸福だった。
夢を見ていたから。
これからはもうピアノは弾けなくなるから、ピアノで消費していた時間をお母さんと別のことをして過ごすの。一緒にご飯を作ったり、宿題で分からないところを教えてほしい。
きっとテレビも見れるようになるから、そしたら中学で皆がしているテレビの話にも混ざれるから、そしたらきっと友だちだって出来る。
そんな幸福な未来を夢みながら、満たされた気持ちで私は意識を失った。
「昨日読んだ本がとても感動したんです。」
先生と放課後偶然会って、一緒に帰る時間が高校生の私にとって唯一の宝物だった。
先生はいつだって私の話を優しく聞いてくれた。
私には友だちがいないから、専ら最近読んだ本の話とか、たまに家族の話をするくらいだったけど、それでも先生は微笑みながら私の話をちゃんと聞いてくれた。
‥‥‥同情じゃ嫌だ、教師としての優しさなんてもっとやるせない。
私は先生に本気で恋をしてしまった。
龍と本気の愛の話をしてから私の心は落ち着かなくなった。
龍は愛する人が「いる」と答えた。「いた」ではなく「いる」だ。
そんなことは私には些細なことであるはずなのに、私はなぜかとても動揺していた。
動揺している自分に気付きたくなくて、私は自分の唇の感触を確かめる時間が増えていた。
「もう今までみたいにピアノは弾けないそうよ。」
病院で目が覚めた私は、意識を失う寸前まで見ていた幸福な未来が本当にただの夢であったことを知った。
ベッドに横たわる私を見下すお母さんの目は、何の感情も映していなかった。
ピアノの話しかしてこなかったお母さんと私の会話は、私が夢みていたようなピアノの代わりの何かで埋まることはなく、ただただ空白になった。
お母さんは、着替えを持ってくる以外に病院に来ることはなく、私は結局一人ぼっちのままだった。
父が1度だけ私をお見舞いに来た。
「真琴、すまなかった。」
今回は私を見ていたけれど、私は何も答えず、頭から毛布を被った。
父はそれ以上何も言わずに帰っていった。
私はその日から父のことを「お父さん」って呼んだことは、たったの一度もない。