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「龍はどうして私と‥‥?」
何気なく龍に聞いてみたことがある。
「別に。池袋にいた中でお前が一番暇そうだったから。」
龍は興味なさそうに答えた。
「あっそう。でも、あの声のかけ方はセンスなさすぎだからやめた方が良いよ。」
私は精一杯の嫌みを込めて言った。
「うっせぇ。」
龍は笑って私の頭をくちゃくちゃにした。
「‥‥‥お父さん、私、もう、ピアノ‥‥弾きたく‥‥ない。」
3か月ぶりの一緒に食べる夕飯の席で、私は父に訴えた。
私が小さい頃は週に5回は帰っていた父は、お母さんが私にピアノを教える時間に比例して家には帰ってこなくなってきていた。
いつもはピアノ、ピアノ、ピアノ、だったけど、父が帰ってくる日だけは、お母さんはピアノの練習なんて放棄してずっと父の側にいた。
私にはぼんやりと分かってた。ピアノはお母さんが、父を引き留めるために必要だと思っているものなんだと。プロのピアニストを目指していたお母さんは、私を妊娠して夢を諦めた。だけど、父の心は少しずつ離れていって、だから、ピアノがあれば、ピアノの才能さえあれば、父が帰ってくるって思っているんじゃないかなって。自分にはない才能を、私に託したんじゃないかなって。
だけど、私にも才能なんてなかった。
でも、言えなかった。お母さんにはとても言えなかった。
だけど、父なら、「お父さんならなんとかしてくれる」って、私は父に望みを託した。
「‥‥‥お母さんには真琴のピアノが生き甲斐だからな‥‥。」
父は私と目を合わすことなく言った。
その時、お母さんがトイレから帰ってきて、話は終わった。
私は自分の心がポッキリ折れた音が聞こえた。
あの人と初めて一緒に帰ってから、私たちの距離は少しずつ近づいて、放課後偶然会ったら途中まで一緒に帰ったりした。
あの人と一緒にいるだけで、嬉しくて、苦しくて、今まで知ることもなかった気持ちになった。
授業中目が合うだけで、名前を呼ばれるだけで、幸せだった。
「じゃあ次の問題は、真琴。」
あの人は教台から、生徒みんなを見渡しているだけだって分かっていたけど。
ねぇ、先生?
先生が側にいてくれるなら、私は同情だって、教師としての優しさだって、なんだって良かったの。
何にもない私の、先生は唯一でした。
「お前にはさ、本気で愛した奴とかいないの?」
龍が突然聞いてきた。
池袋のラブホで全てを終えた後で聞くようなことじゃない。
「別に。龍には関係ないよ。」
私は無表情で答えた。
本当は、いる。先生は私の、本気の人だ。
「‥‥‥龍は?」
誤魔化すように私が聞くと、「関係ない」っていうとばっかり思ってた龍が、真剣な目をして答えた。「いるよ。」
「‥‥えっ?」
「本気で好きな人がいる。」
「はっ。へっ、へー。それなのに好きでもない人とこんなことして、最低、ね。」
「本気で好きな人とはしない。」
「‥‥はっ?」
「本気で好きな人とは相手も俺のこと好きじゃなきゃ絶対しねぇよ。」
「あっそう。」
それじゃあ、私は、龍に抱かれる度に、愛してないって言われているのと一緒じゃないか。
私たちの行為に意味はないけど。ただ、お互いの足りないものを足してるだけだけど、それでも‥‥。
私は目を閉じて、動揺を隠すようにそっと自分の唇に触れた。
せんせい。