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「口にだけはキスしないで。」
それは、私が龍にした、たった1つのお願いだ。
私と龍は出会ったその日にそのままホテルに行って、そのまました。私はそれが初めての行為だったけど、別にどうだって良かった。
ただ龍の体には余っている部分があって、私の体には足りない部分があって、それを繋いだだけの、ただそれだけのことだ。
わたしの初めてが、ナンパしてきた男と池袋の安いホテルでだとしても、誰にとっても、両親にとってだってどうでも良いことだろう。
だけど、あの人は。
私の愛しいあの人だけは、ほんの少しだけでも、まだ私を不憫に思うだろうか。
「真琴には、ピアノの才能があるのよ。」
それは、私が「おかあさん」より「ごはん」より先に覚えた言葉。
私はその言葉を生まれてからずっと、毎日毎日聞かされてきた。
物心ついた時から私の毎日はピアノだった。
平日お母さんは放課後小学校の前で待っていて、私はそのまま家に帰ってひたすらピアノの練習をした。
休日は朝から晩までピアノ漬けの日々だった。
それでも幸せだって思ってた。コンクールで優勝するとお母さんはとっても嬉しそうに笑ってくれたから。
そう、私にはピアノの才能なんてないんだと、気づく、その時までは、私はそれなりに満たされていたのだ。
「真琴?」
高校の放課後の教室で、初めてあの人に名前を呼ばれた時、私は自分の名前が真琴だってことに初めて気づいたような衝撃を受けた。
あの人がクラスメイトは全員、下の名前で呼ぶ人だとは知っていたけど、それでも初めて、私は家族以外の誰かから、下の名前を呼ばれたの。
「じゃあな。」
龍とは毎週水曜日に、いけふくろうの前で会って、そのままホテルに行って、3時間休憩をして、いけふくろうの前で別れる。
次の約束なんてしたことない。ただ水曜の決まった時間にいけふくろうの前に行くと、当たり前のように龍がいるだけだ。
私も女だから、月に一度は出来ない週がある。初めての時には、
「今日は出来ないから帰ろうか?」
とホテルの前で言ってみた。
「俺って、生理の女を無理やりやるような鬼畜に見える?」
龍は笑った。
その日はホテルで二人でただお昼寝をした。
龍は私の痛むお腹をさすってくれたりもして、私はなんだか混乱をして、それからそんな曖昧な日を5回は過ごしてる。
「そうじゃないでしょ!?」
中学1年になったころ、私の精神は限界を迎えていた。
お母さんは私にピアノの指導をしてくれたけど、「そうじゃないでしょ!?」しか言わず、何がどう違うのかを教えてはくれなかった。
限られた人数の中で一番になるコンクールと、この世の中のすべての人に何かを感じさせることのできる本物の才能とは悲しいくらいに遠いのだと気づいてしまってからはただひたすら苦しかった。
苦しくて苦しくて、私は父に助けを求めた。
「友達と一緒に帰れば良かったのに。」
高校の放課後の教室でそう言った瞬間、あの人は一瞬困った顔をした。
私には、一緒に帰る友達なんて、ただの一人もいないって気づいたのだろう。それからあの人は優しく笑って、
「一緒に帰ろうか?」
と、言った。
そんなこと私には言われたことは初めてで、嬉しくて、幸せすぎた。
ねぇ、私の愛しい愛しい人。
私は、同情でもよかったの。あなたが私の側にいてくれるなら、同情だって何だって良かった。
あなたが側にいてくれるなら、私はそれだけで。