9 練習2
開けた窓から吹き入る風の心地よさに、まだ夏の若さを感じる執務室で、竜王国の第二王子、ウルベルトはその体躯によく似合う、大きく立派な執務机の上で頬杖を付き、嘆息した。
その精悍な面差しはエランとはあまり似ておらず、たまに顔が怖い、と苦情すらいただく。
ただ、その鮮やかな赤い髪と金の瞳が、彼等が兄弟であるということを示している。
少し野生動物のような印象すら受けるその顔は、今は眉を寄せ、難しい表情をしている。
ウルベルトは、第二王子であり、近衛騎士団長でもある。
近く来るウルフベリングからの使節団を歓待するにあたって、王宮の警備を任されている近衛騎士団の出る幕は多い。
そのために、普段よりさらに多い仕事が、彼が頬杖をついた机に書類となって山積していた。
仕事はとても忙しい。
しかし彼がため息をついたのは、それとは別の案件である。
彼が手にして睨んでいる書類には、後宮での警備要項が記されていた。
アリィシャ=フェリンドの護衛には兄のルミール=フェリンドを近衛の第一部隊に編入させて配備。
ロザリンド=ウェジントンの護衛には王立第三騎士団に所属しており、現在休職中のベリンダ=グレネイルを王都に召喚した上、近衛に編入させて配備。
この人選はまあいい。
ルミール=フェリンドを近衛に編入させる手続きはもう終わっており、近く配属される予定だ。
ベリンダ=グレネイルは本当に戻ってくるのかだけが不明だが、近くなっても戻らない場合には他の信用のおける騎士を推薦すればいい。
問題は、ウルベルトのパートナーを務めるアリィシャが後宮なんて場所に寝泊まりするようになることである。
彼女とウルベルトは両思いではあるのだが、残念なことに未だ婚約を結べていない。
その理由は兄で王太子であるエランにまだ婚約者が居ないことにある。
王太子より前に第二王子に婚約者ができるというのは、些細なことではあるが不安要素になりかねない。
そういう理由で、王妃である母が、1年は二人で公の場にパートナーとして姿を出し、仲睦まじい様を見せ男女の仲の話であるからと納得してもらえるまで待ちなさい、と命じたのである。
しかしそんな彼女が後宮になんて来たら、自分で言うのもなんであるが、彼女の貞操が危ないような気がする。
ウルベルトも、騎士として女性への立ち振る舞いというものは心得ている。
婚約前ともなれば、ギリギリ許されて抱擁くらいが関の山だろう。
しかし恋しい少女が、頬を赤く染め、慕わし気な瞳でこちらを見上げて話しかけてくる様を見ると、ぐらっときてしまうのは健康な男としては致し方ないことでは無いか。
しかも竜の血がそうさせるのか、彼女を前にすると、竜が宝石を抱え込むように、彼女を腕の中に閉じ込めてしまい込んでしまいたい焦燥感にかられるのである。
これでまだ婚約者なら良いのだが、まだ彼女とは婚約もむすべていないのだ。
思わず手を出して責任を取るのは問題ないとしても、彼女の評判に傷をつけてはならない。
そう思って耐え忍んではいるのだが、そんな彼女が自分の近くに寝泊まりするというのは嬉しいのと同時に忍耐を大いに試されるだろうな、と思う。
実際、一回彼女の呼吸が止まった後に息を吹き返した時、タガが外れて一歩踏み外してしまった。
反省はしている。
反省はしているがもうすでにお預け状態で二か月がたっている。
自分の精神力はどこまでもつのだろうかとそんなことを考えてため息が出る。
これを乗り越えてもまだ彼女と婚約を結べるようになるまでにはあと十か月もあるのだ。
せめて兄がさっさと誰かと婚約をしてくれればいいのだが、いまだにその気配は無い。
本当は婚約という楔も無いままに彼女を他の男の目に晒すのも耐えがたいのに、少しは弟を労わってくれないだろうか。
とりあえず、書類には問題は無いので可と記してサインをする。
ここで考えていても兄に婚約者が決まるわけでは無い。
後で近衛の訓練場で体を動かしてやりすごそうと考えていたところへ、執務室の扉がノックされた。
「入れ。」
短く答えると、侍従がドアを開け、その向こうにいつもの黒髪の男が無表情で立っている。
ウルベルトの補佐官のキースリンド=ウェジントン子爵だ。
彼は慣れた足取りで中へ入ると、手に持っていた書類を未済の書類の山に加え、ウルベルトが処理した書類のほうを手に取り確認作業を始める。
普段はこの一連の作業を黙々と無言で進めるのだが、今日は無口な彼が珍しく口を開いた。
「アリィシャ嬢よりの手紙もあります。」
言われて書類から目を上げて、未済の書類の山に視線を移せば、そこには淡い緑色の封筒が載っていた。
いつも彼女がつけている香水の匂いがして、少し胸が高揚する。
キースリンドが執務室に手紙を持ってくるのは珍しい。
首をかしげて封を切って中身を確認すると、それは王宮へ兄と訪問しても良いかという内容だった。
ウルフベリングの社交界で踊られるダンスを期日までに覚えられる自信が無いので、ウルベルトの執務室で練習をしたいと書かれている。
さきほどの不安がまた首をもたげたが、そんなことを言っていては彼女に会えなくなってしまう。
現金なものでやはり会えるとなると嬉しい。
「キース。問題ないか。」
仕事の邪魔にならないよう、兄と練習するので、たまに動きを見てほしいという内容に、一応補佐官にお伺いをたてる。
彼は書類から目をあげて便箋を受け取り、ターコイズの瞳をその上に走らせる。
ほどなくして確認したらしい彼は小さく頷くと「問題ありません。」と端的に伝えてまた書類の確認作業に戻った。
~ウルフベリングの舞踏か…。
ウルベルトは、18歳の頃、ウルフベリングの戦争に援軍として参戦したことがある。
キースリンドは、その時に父がまだ若いウルベルトの助けになればと付き添いでつけてくれ、そのまま補佐官として働いている。
ウルフベリング滞在中は戦時ということもあって夜会などは無かったが、戦場で勝利を収めれば、騎士や使用人たちが薪を囲んで踊っていたのを覚えている。
騎士や従軍した婦人たちと笑いながら、簡単にまとめた銀色の長い髪を薪の灯りの中に煌めかせて踊っていた、かつての戦友の姿を思い出し、息を吐く。
彼はフェンリルの血を引くと言われるウルフベリングの民の代表のような、精悍で、力強い、美しい青年だった。
戦争などはあまり良いものでは無いが、その光景は良い思い出だ。
「キース、お前はかの国の舞踏は踊れるのか?」
「多少は。」
書類から目をあげないままに、最低限の返事をキースリンドが返してくる。
今思い出してみてもこの補佐官が踊っていたような記憶はない。
今回は見れるのだろうか、となんとなくそんなことを考えた。
〇・〇・〇・〇・〇
「お兄様は歴史を覚えるのは苦手でいらっしゃるのにダンスのステップを覚えるのは早いのね…。」
「体を動かすことは得意なんだよ。あっ、ほらリィシャ。また左足が違うよ!それだと逆だろ」
普段はウルベルトとキースリンドに侍従だけの男むさい執務室の真ん中で、妖精のような兄妹がそんなことをいいながらくるくると回っている。
普段アリィシャの横に自分以外の男がいるとついイラっとしてしまうウルベルトではあるが、ルミールはその見た目が兄というよりは姉のようであり、なんだかそんな気分にもならない。
よく似た二人がダンスを踊る姿は、妖精が戯れているようでほほえましい。
ウルフベリングの舞踏は、男女が向い合せになり、体をよせてホールドする竜王国のものとは違い、男女が互い違いに立ち、お互いの右手同士か左手同士をつなぎ、半身をあわせてつないだ腕を頭上にかかげて、決まったリズムでステップを踏みながら回る舞踏である。
そのためアリィシャとルミールは手をつなぎながらくるくるとせわしなく執務室の真ん中を動き回っていた。
ステップを踏むごとに二人の淡い金糸の髪が楽し気に二人を追って弾むのが目に楽しい。
「ここの動きが早くて難しいわ…。」
「覚えれば流れで動くよ。ここだけちょっと反復練習しよう。」
どうやらアリィシャはダンスが苦手らしい。
一生懸命な表情で取り組む姿が可愛らしいな、と思わず手を止めて見入っていると、キースリンドが新しい書類を机に置いた。
何も言わないが、その目が「手を止めるな」と告げている。
本当は自分でもアリィシャの手をとって教えたいところだが、残念ながら今は仕事がつまっていてできそうにない。
仕方なくウルベルトは止まっていた手を動かして仕事を再開した。
そこへ、コンコンと軽いノックの音が響いた。
「誰だ?」
普段であればキースリンドだろうと思うところだが、今日は彼はすでに横にいる。短く問えば、そのむこうから少女の声が聞こえた。
「殿下、ロザリンドですわ。ご挨拶に参りましたの。」
「ああ、どうぞ。」
そういえば今日からロザリンドは後宮の部屋に入ることになっていたのだったか、と入室の許可を出す。
侍従がドアをあけると、そこには黒髪の美少女が、近衛騎士を従えて立って居た。
「失礼いたしますわ。」
そういって優雅な足取りで入室してきた少女は、部屋の真ん中から少し避けたアリィシャとルミールに一瞬目を止めたが、まずは最初にウルベルトの元までやってきた。
「殿下、本日から王太子殿下のパートナーとして後宮にてお部屋をご用意いただきましたので、ご挨拶に参りました。どうぞよろしくお願いいたします。」
そういって美しい動きで礼をする。
「ああ、聞いている。あなたの護衛予定の騎士がまだ到着していないが、代理にデニスを任官しておいたので何かあれば彼に言ってくれ。できるだけ手配しよう。」
「ありがとうございます。お心遣いに感謝いたしますわ。」
頷いて答えれば、彼女は顔を上げて、アリィシャとルミールのほうを見た。
そして面白そうに扇子を口にあてる
「まあ、こんなところで練習していらっしゃいましたのね。どうなのアリィシャ?間に合いそうかしら?」
「わからないわ…。でもルミールお兄様はもう全部覚えてしまわれたようだから、練習相手には困らなさそう。ローザはどうなの?」
「うふふ、先日王太子殿下にお教えいただいたので大丈夫ですわよ。良ければご覧にいれてよ?」
「本当!?是非みたいわ。まだ完璧な状態でみたことがないのだもの。」
たしか、エランとロザリンドが練習したのは一回きりだったはずだが、もう覚えてしまったのかとウルベルトは感心する。
この令嬢はさすがにこれだけ自信に満ちているだけあって、大変優秀なようだ。
ロザリンドはアリィシャの言葉に優美にほほ笑んで頷くと、こちらのほうへ振り向いた。
一瞬ウルベルトを見たのかと思ったが、その視線はキースリンドに向いている。
「お兄様、お相手くださる?」
首をかしげて言うロザリンドに、キースリンドは手にした書類を確認する手を止め、ちらっとウルベルトがさばいた書類の山を確認した。
そして手にしていた書類を置くと「お相手しよう。」と言って彼女の手を取る。
少しくらい手を止めても、ウルベルトの仕事量に追いつけると踏んだのだろう。
私は駄目でお前はいいのかという文句は、キースリンドがダンスを踊るという珍しい光景を見てみたいという願望に黙殺された。
黒髪の兄妹は執務室の真ん中までいくと、それは息ぴったりに踊りはじめる。
ステップを踏みながら、跳ねるというよりは流れるような動きで回り、折り返しでキースリンドがロザリンドの体を回す。
さきほどの妖精たちのダンスと同じとは思えないほど優美なその出来に、ウルベルトは感心した。
ウルベルトが見た戦場でのダンスは、どちらかといえば軽快で、アリィシャたちが躍っていた雰囲気に似ていた。
しかしきっと、夜会で見ればこのような優雅なダンスになるのだろうな、とそんなことを思ったのである。
一曲分終わったところで、アリィシャが一生懸命その白い両手を打ち鳴らして拍手をして称賛した。
「すごい!素敵だったわ!さすがローザね!」
「ふふふ、ありがとう。いつもと違うダンスというものはなかなか楽しいものですわね。わたくし、今日はもうお部屋に戻るばかりだから、少しこちらでアリィシャたちの練習を見学してもよろしいかしら?」
「ああ、もちろんだ。もし必要ならそこの椅子を使ってくれ。」
ロザリンドがこちらを振り向いて許可を求めてきたので、頷いて侍従に視線をやる。
すると彼はソファの横に置いてあった一人がけの椅子を、ロザリンドの横へおいた。
「まあ、ご親切にどうもありがとう。」
ロザリンドがそこに座ると、またアリィシャとルミールが練習を始める。
それを楽しそうに眺めるロザリンドに、アリィシャがアドバイスを求めれば、ロザリンドが見本を見せるためにキースリンドの手を取るので、なんだか執務室の中でウルベルトだけ取り残されたような雰囲気だ。
~さっさと仕事を終わらせよう…。
せめて日の終わりに一回くらいはアリィシャとダンスを踊りたい。
そんなことを考えて、ウルベルトは積まれた書類に手を伸ばした。