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8 練習1

 エランにウルフベリングのダンスを練習するために呼び出された日。

 ロザリンドは兄のキースリンドが仕事で登城するのについて、一緒の馬車に揺られて王宮へ向かった。

 キースリンドの仕事先は、エランでは無くその弟のウルベルトの元である。

 そのため、王宮についてからの目的地は違っていたが、妹を心配に思ったのか、兄はエランの執務室まで、彼女をエスコートしてくれた。


「お兄様、お仕事はよろしいの?」

「問題ない。」


 ロザリンドが見上げて問えば、相変わらず無表情な兄は最低限の言葉で返事をする。

 それにロザリンドは嘆息して視線を前に戻した。

 たとえばここで、にっこりと笑ってお前が心配なんだよ、とそんな一言でも言う脳があれば、この兄の横にはすでにかわいいお嫁さんが居ただろうに…。

 普段から一緒にいるロザリンドであればある程度彼の優しさは察することができるが、世のご令嬢にそれを求めるのはいささか高望みである。

 だから日頃から、心がけて笑顔をつくれとロザリンドが散々いっているのに、これなのだからどうしようもない。


 王宮の廊下を抜け、エランの執務室までくると、丁度クライムが部屋から出てくるところだった。

 彼は珍しい客人に目を止め、眉をあげてからこちらへ会釈をしてくる。


「これはウェジントン子爵。こちらにいらっしゃるのは珍しいですね。ロザリンド嬢をおくって来てくださったのですか?」


「ええ。殿下はいらっしゃいますか。」


「はい。たった今本日の執務が一段落しましたので、丁度よろしかったですね。今、迎えに行ってこいと言われたところだったのです。どうぞ。」


 キースリンドの愛想の無い返事を気にした様子もなく、クライムは灰色の瞳をほそめてにっこりと微笑むと、エランの執務室のドアを開けてくれた。

 同じ次期侯爵であり、子爵同士であるのにこの違いはいかがしたことだろうか、とロザリンドは二人を見比べる。

 しかし比較しても、兄の振る舞いが改善されるわけでは無く、ただ虚しくなるだけだと悟ったロザリンドは、素直にクライムが開けてくれた扉から、エランの執務室に足を踏み入れた。


 そこには、仕事を終えて、優雅にお茶を飲んでいる秀麗な王太子が窓の外を見ながら執務机前の椅子に腰を下ろしている。

 彼は扉が開いた気配に、こちらに金色の瞳をむけ、ロザリンドをその視線の先に認めると、にっこりと柔和な笑みを浮かべた。


「ロザリンド嬢、お早いですね。今クライムを迎えにやったところだったのですが、行き違いにならなかったようで何よりです。」


「王太子殿下、ご機嫌麗しゅうございます。お茶の時間をお邪魔して申し訳ありません。わたくし、お待ち申し上げておりますのでどうぞごゆっくりなさってくださいませ。」


 兄と一緒に礼をすると、エランは持っていたカップをソーサーに戻し、席を立つ。


「いえ、せっかくあなたが来てくださったのですから、お茶はまた後にします。キース、妹君をお借りしても良いだろうか。」


「はい。よろしくお願いいたします。」


 キースリンドは、エランに短く答えながら、立ち上がった彼の頭の先からつまさきまでに視線を滑らせた。

 そして最後に彼の瞳をじっと見つめる。

 それに、エランは柔和な笑みのまま見返した。


「では、私は失礼します。ローザ、帰る時は知らせなさい。」


 キースリンドは少しの間、そのまま何か考えていたようだが、一つ頷くと、エランに礼をして、ロザリンドに声をかけ退出していった。

 それを見送ってから、ロザリンドはエランに視線を戻す。

 エランは、彼女の視線が戻ってきたのを見て、にこりと笑うと、手を差し出してきた。


「ダンスのお相手を願えますか?」

「ええ、喜んで。」


 形式的にそう答えてエランの手を取ると、彼はロザリンドを、彼の執務室の真ん中まで誘う。

 練習をするために、すでに物が片付けられていた室内は、ダンスを踊るのに、十分な広さがあった。

 その横で、携帯用のピアノに似た楽器を置いた侍従が、練習用の楽譜をめくっている。


 去年一年、この王太子には随分と付きまとわれていたが、ダンスを踊ったのは春先の開華祭での一回きりである。

 すぐ目の上にある無駄に美々しい顔を見上げながら、そういえば落ち着いてこの顔を見たのは初めてかもしれないわね、とロザリンドは思った。

 夜会では、この王太子を追い払うのに集中しており、ろくに顔は見なかったし、開華祭でも王太子のパートナーを完璧に務めることに注力しており、思い出すのはいつもの胡散臭い柔和な笑顔くらいである。

 ここ最近、彼はロザリンドへの嫌がらせをするのは終わりにしたようであるし、今は仕事として顔をつきあわせているのだ。

 こうしてまじまじと顔を見上げる余裕があるのは、彼に対して警戒する必要がなくなったおかげだろう。

 まあ、いつ見てもこの胡散臭い笑顔なのだから、そう何度も見るものでも無いかしら、と考えながらロザリンドは視線を落とした。


「では、最初から合わせましょうか?」


「ええ。わたくし、図面を見てだいたいの動きは把握いたしましたので、問題なさそうでしたらそのまま踊っていただいてかまいませんわ。」


 ダンスのはじめの体制をとりながら言うエランに、ロザリンドは頷く。

 それに、エランが感心したような声を上げた。


「おや、そうですか!さすがですね。では軽く一曲あわせてみましょう。」


 エランが視線で合図すると、侍従がウルフベリングの楽曲を少しゆっくりめに奏で始めた。

 それに合わせて、ロザリンドとエランが踊る。

 ゆったりと流れるような動きをする竜王国のそれとは違い、ウルフベリングのダンスは足元のステップが少し早い。

 ロザリンドは確認した書類の絵柄を思い起こしながら、踏み間違え無いように足元に視線を落として、エランについて最後まで踊りきった。


「動きは問題ありませんね。ゲイルが渡した資料だけでここまで踊れるようにしていらっしゃったんですか?」


 一曲終えて、頷いてみせるエランに、ロザリンドはふふん、と笑って胸を張る。


「ええ、そうだと申し上げたいところですけれど、実のところ、兄が少々、ウルフベリングのダンスには覚えがありましたので、先に教えていただきましたの。お忙しい殿下のお時間をあまりいただくのは申し訳ありませんもの。」


「なるほど、キースはベルトについてウルフベリングへ遠征に出ていましたからね。しかしお気遣い頂いてありがたいのですが、あなたとの時間であれば、私はいくらでも捻出したいところなのですが…」


「まあ、そんなお手数はおかけいたしませんわ。今日一日で仕上げましょう。」


 赤い髪を揺らし、少し残念そうな声色で言うエランに、ロザリンドはにっこりと微笑んで見せる。

 実際のところ、王太子であるエランは非常に忙しいはずだ。

 そんな彼の手間を最小限にするのは、臣下として当然のことだろう。


「…そうですね、では、まずは足元を見ずに踊れるようにしていただきましょうか。」

「はい、よろしくお願いいたしますわ。」


 少し間があってから返ってきたエランの返事に、ロザリンドが頷いて見上げると、彼はいつもの柔和な笑みではなく、少し困ったような顔をしていた。

 彼の手間を最大限減らしたつもりだったが、なにか手落ちがあっただろうかとロザリンドは少し首をかしげて、また彼の手をとる。


 ステップはだいたい覚えたので、顔を上げて踊れるようにするのはそこまでの苦労では無かった。

 エランも仕事となるとさすがに真面目にやるようで、去年一年の鬱陶しさが嘘のように、親切にあれこれとアドバイスをくれる。

 優秀だと人々の口に上るだけあって、彼の言葉は丁寧でわかりやすかった。

 これでまた嫌がらせや邪魔などしてこようものなら、真面目にやれとひっぱたいてやるところだったので、その手間が無いことは大変ありがたい。

 このスキの無い王太子の前で、みっともない姿を見せたくないと思っていたロザリンドは、練習とは言えとちるのは耐えられない。

 そのために綿密に予習してきたことと、エランのアドバイスのおかげで、上々の出来栄えにロザリンドは機嫌よく頷いた。


「殿下、ありがとうございます。もう随分良いように思いますわ。後は兄と練習いたしますので、どうぞご心配なさらず。」


「まったくあなたには敵いませんね。では最後に、もう一度合わせましょうか?ダンスというのは相手と息を合わせることも大事ですから。」


 練習をはじめてから、あまり時間が立たないうちに過不足無く踊れるようになってしまったロザリンドに、エランは苦笑しながらもう一度手を差し出す。

 ロザリンドはそれに上機嫌で手をあわせて、今日何度目かになるかわからないダンスの姿勢をとった。

 それを確認してから侍従が奏で始めるダンス曲は、もうさきほどのゆっくりした物ではなく、通常のテンポである。


 ウルフベリングの舞踏は、男女が顔を見合わせながら踊ることになるので、踊っている間中、間近にエランの顔がある。

 他に見るものも無かったために、本当に無駄に美々しい顔だと思いながらロザリンドはエランの顔を観察した。

 男にしておくには勿体無い長いまつ毛に、少しタレ気味の柔らかい目元、すっと伸びた鼻筋に、薄い唇。黙っていれば、優しげに見えるその顔は、それぞれのパーツが均衡良くならんでおり、作り物めいた美しさがある。

 この顔に浮かぶのが、あの胡散臭い笑顔だというのがなんとも勿体無い。

 そう思って息が漏れそうになった時、彼の金色の瞳が、甘く蕩けたような気がして、ロザリンドは目を瞬かせた。

 いつもの柔和な笑みのようで、どこか違うその表情に、なんだか急に知らない人物と踊っているような気分になって、彼の瞳から視線を外す。

 移した視線の先で、薄い唇がそういえば、と切り出した。


「ロザリンド嬢は、後宮へはいつお越しになるのですか?母が普段一人の後宮に人がいらっしゃるのは楽しみだと申しておりました。」


「そうですわね、ご用意いただけるとのことだったので、一ヶ月前からお邪魔しようかと思っておりますの。」


 随分とダンスにも慣れたおかげで、雑談をしながらでも足の動きはとちらない。

 ロザリンドがエランの問いに答えると、彼はわずかに息を吸った。


「一ヶ月前からですか?」


「あら、不都合がございました?」


 ダンスの折返しで、エランの手を軸にして、ロザリンドがドレスをふんわりと翻しながら回れば、エランがにっこりとまた柔和な笑みを顔に戻す。

 知った顔が戻ってきたことに、ロザリンドはほっと息を吐いた。


「いえ、あなたがそんなに早く来てくださるとは思っていなかったので、嬉しく思ったのです。何かと準備がありますから、私には大変ありがたいですね。」


「ええ、私も早めに王宮に慣れさせていただこうと思いましたの。仕事に何か手落ちがあってはいけませんものね。」


「…そうですね。ああ、でももしかしたらあなたの護衛騎士が間に合わないかもしれません。他の者を待機させておくように、弟にいっておきます。」


「まあ、護衛騎士をつけてくださいますの?でも、使節団がいらっしゃるまでは必要ないのでは無いかしら。」


 王宮には、護衛を連れ歩かなくても近衛が一定間隔で立っており、使節団が来るような時でなければ、そんなに危険な場所だとは思えない。

 そう思ってのロザリンドの言葉に、エランがふふふ、と笑う。


「王宮という場所は、何があるかわからない場所ですので…。私はあなたをお守りするとお約束しましたからね。本当は私があなたについてまわりたいくらいですよ。」


「あら、殿下を連れ回したりなんかしたら、わたくしそれこそ国中のご令嬢に刺されても文句は言えませんわ。」


 ロザリンドにとってはエランは随分と鬱陶しい相手だったが、他のご令嬢にしてみれば違う。

 去年一年の間も、夜会でエランに声をかけられる度に、刺すような嫉妬の視線をたくさんのご令嬢から頂いていたのである。

 おかげで、恋人どころか友人も増えなかったわね…と嘆息したロザリンドの視線の端で、エランの赤い髪がさら、と彼の肩をすべった。


「…そう思われますか?」


 不思議な問いに、ロザリンドは目を上げる。

 その先には、相変わらず柔和な笑みのエランの顔があって、質問の意図は伺いしれない。


「ええ。殿下はお顔も麗しいですし、お仕事もよくお出来になって優秀でいらっしゃいますもの。心をお寄せになるご令嬢は大変多いでしょう。」


 ロザリンドが答えると、彼は視線を進行方向へそらし、小さな息を吐いた。


「…寄せていただく心は多くても、私が欲しい方の心は、なかなか頂けないのですよ。」


「あら、わたくしに構ってばかりおいでになったからですわよ?」


「……あなたの心を頂きたかったもので。」


「まあ、ご冗談を。」


 去年一年間の嫌がらせを攻めてチクリとさしたロザリンドの言葉に、エランはまた、少し困ったように笑う。

 まったく、この王太子は顔も頭の出来も良いおかげで、意中の相手がいるのならすぐに物にできるだろうに。

 まあだからこそ、ロザリンドに嫌がらせをするような余裕があったのかもしれないが。

 もし本当にそんな相手がいるのなら、この使節団の来訪が終わったら、さっさとそちらに取り掛かってほしいものだ。


「殿下にとってはお相手選びも大事なお仕事のお一つでしょう。遊んでばかりいらっしゃらないで、真面目に取り組んでくださいませ。」


 自分の兄のことも半分重ねながら、ロザリンドがため息まじりに忠告すると、エランが赤いまつ毛を瞬かせてロザリンドをじっと見た。


「…私が真面目にやると、ロザリンド嬢は後悔なさるのでは?」


 エランの言葉に、ロザリンドは片眉を上げる。


 ~この男、私が自分のことを好きだとでも思っているのかしら


 散々一年嫌がらせをしてくれたくせに、とは思うが、たしかに彼は美青年な上に王太子なのだ。

 だからこその自信なのかと思わずその無駄に美々しい顔を睨んでしまいそうになるのをぐっとこらえて、ロザリンドはにっこりとよそ行きの笑顔で笑う。


「まあ、そんなことありえませんわ。王太子妃様がお決まりになるのは臣下には嬉しいことですもの。」


 そんなロザリンドの笑顔を、エランはじっと見つめた。

 いつの間にか、ダンスの最後のステップも終わり、曲も止んでいる。

 しばらく、シンと静まった室内で、ロザリンドの手をにぎったまま彼女の瞳を覗き込んでいた金色の瞳が、とろり、と蕩ける。

 それまで凛々しささえ感じる金色だったものが、甘い色を帯びてまるで蜂蜜のような色になるのを、ロザリンドは呆気にとられて眺めていた。


「では、真面目に頑張ることにします。」


「え、ええ。頑張ってくださいませ。」


 なんだか声まで甘い、見たことの無いエランの蕩けるような笑顔に、ロザリンドは思わず身をひきながら、そう答えたのだった。

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