4 彼のお願い
開華祭から随分たった、春の社交シーズン半ばの晩。
王太子のエラン=ドラグ=ハズルーンはその日、夜会で令嬢たちに取り囲まれながらものすごく暇をしていた。
まわりではひっきりなしにご令嬢たちが話しかけてきており、それに頭のすみっこのほうを使って笑顔で答えてはいるが、それ以外の彼の脳みその大部分が暇だと言っている。
わからないよう、チラ、と壁に掛けられた時計を見れば、もう随分遅い時間だ。
こんな時間まで辛抱強くこうして社交をしている自分をほめてやりたい。
内心でため息をついていると、彼の視界の隅にきらりと何かがひかった。
目を向けると、そこには休憩室に続く廊下から出てきたらしいロザリンド=ウェジントンが普段の堂々とした様子とは違う、どこか所在無げな表情で、あたりを見渡している。
「失礼。」
そう断って周りで話していたご令嬢たちの輪の中から抜けた。
ロザリンドに気づいて近づいていこうとする男たちに視線をやって立ち止まらせてから、彼女の横まで進み出る。
普段はすぐにそれに気づいていつもの完璧な笑顔の鎧を彼に向ける彼女が、今日は会場に目を向けるのに忙しいのか振り返る気配がない。
「ロザリンド嬢。何かお困り事でも?」
そう声をかけると、一瞬間をおいてようやく彼女はエランに向き直った。
その顔には、「こっちくんな」という言葉と笑顔が張り付いている。
最近、彼女とは挨拶を交わす程度しか喋っていなかったので、この顔を見るのも久しぶりである。
「まあ、殿下。ご心配には及びませんわ。皆さまとご歓談なさっておいでだったのでしょう?」
にっこりと微笑むロザリンドに、エランもいつもどおりの柔和な笑顔を向けて首をふる。
「ええ。ですがあなたのご様子がいつもと違いましたので。ご迷惑かとは思いましたがつい声をかけてしまいました。どなたかお探しなのですか?」
少しかがみ、ロザリンドに視線を合わせてそう尋ねれば、彼女は少し逡巡してから、笑顔のまま頷く。
しかしその紫色の瞳はいかにも不本意だといわんばかりに曇っていた。
「ええ、アリィシャ=フェリンドを探しておりましたの。殿下は彼女をご覧になりまして?」
「ああ、弟の想い人ですか。彼女ならウルベルトに仕事ができたので、兄君に連れられてお帰りになりましたよ。つい先ほどのことですが…。」
「まあ、ラフィル様も…。」
エランの言葉に、ほんのかすかにだけ、ロザリンドの顔が途方にくれたような色を見せる。
その様子を興味深く観察しながら、エランは笑顔を深めた。
「ロザリンド嬢の今日のエスコートはデーツ伯爵子息でしたね。あなたを放り出して彼はどうしたんです?もしや喧嘩でもなさいましたか?」
本日の彼女のエスコート役の名前を出せば、ロザリンドは先ほどの表情を隠し、また完璧な笑顔を作る。
「まあ、お恥ずかしいですわ。…殿下のお心を煩わせるほどのことではございません。わたくしはこれで…。」
「お待ちください。もしやお帰りの馬車が無いのでは?私がお送りしましょう。」
さっさと離れていこうとするロザリンドの前に、失礼にならない程度にそっと手を出し彼女を制する。
女性は大概、エスコートの男性の馬車で会場へやってくる。
デーツ伯爵子息と何かもめたらしい彼女は、このままでは会場から帰るのが難しいだろう。
「…いえ、殿下にそのようなことをしていただくなんてとんでもございませんわ。わたくしどなたか知り合いを探します。」
「ご都合の良いお知り合いがいらっしゃらなかったらどうなさるのです?あなたのようなご令嬢に王都の夜は危険ですよ。私も丁度にぎやかなこの場所に少し気づかれしてきたところだったのです。ついでですから遠慮なさることはありません。」
そう言って、心の底からにっこりと微笑めば、ロザリンドはぐ、と詰まってこちらを見上げてくる。
その表情が普段の彼女とは違う、悔しそうな色を乗せていて、エランは長い夜会を耐え忍んだかいがあったな、と鼻歌を歌いたい気分になった。
「…それではお願いいたします。」
そう言って彼女が手を差し出す。
その手をとって、自分の腕に添えた。
開華祭ぶりに彼女の横に立ち、エランは上機嫌で主催に辞意の挨拶をすると、待たせてあった自分の馬車へ向かった。
ロザリンドをエスコートして馬車に乗せ、彼女の侍女を隅のほうへ座らせてから自分も乗りこむと、御者が扉を閉めて馬車を走らせはじめる。
その間中、ロザリンドはじっと黙って視線を下げていたので、エランは遠慮なく彼女を観察した。
ウェジントンの薔薇と呼ばれるその美貌は、薄暗い車内であってもその輝きを失わない。
つややかな黒髪は、長時間の夜会の後でも乱れなく縦ロールになって、彼女の肩に垂れている。
少し伏せられているおかげで彼女の睫毛の長いことがよくうかがい知れ、その下のアメジスト色の瞳は深い色合いで美しい。
馬車の小さな窓から漏れる月明りに照らされた肌は真っ白で染みの一つも見当たらず、赤い唇は今はなんの感情も載せずに結ばれていた。
開華祭で共に馬車に揺られた時は、彼女はずっと城壁のような作り物の笑顔を顔に乗せていた。
それが今は崩れて、その向こうから現れた無言で視線を落とす彼女の姿は、愛想が無いながらエランにはひどく新鮮だった。
~これは思いのほか良いものが見れたな。
そう思いながら背もたれに背を預け、しばらくそんな彼女をじっと見つめる。
しかし話すことがあったのだと思い出し、エランは膝の上で手を組みにっこりと微笑んだ。
「ロザリンド嬢、今日は大変でしたね。デーツ伯爵子息といいますと…すこし特殊なご趣味をお持ちだという噂ですから。どうせあなたのことですから成敗してしまったのではないですか?」
エランの言葉に、それまで伏せていたロザリンドの瞳が、驚いたようにこちらを見返す。
この表情もとても珍しい表情だ。
「ご存知でいらっしゃったの…?」
「ええ、まあ。晩餐会等の後で男たちだけで歓談などしますと、ご婦人には聞かせられないような話も耳に入りますので。」
「そちらじゃございませんわ!」
苦笑しながら言うエランの答えを、ロザリンドが少し強い口調で否定する。
ああ、とエランは頷いて彼女の揺れる瞳を見返した。
「あなたが狼藉を働く男を夜会で転がして帰ることですか?護身術の覚えがあるとお聞きしておりましたので、そうなのかなとは思っていましたよ。」
エランが把握している分では、すでに三人ほど、ロザリンドに転がされた男たちがいるはずだ。
一応、万が一の場合に備えて近衛は待機させていたが、どれも取り越し苦労だった。
エランのさも当然、と言わんばかりの答えに、ロザリンドの顔がかっと赤くなる。
その様を、エランも珍しく目を見開いて見つめた。
こんなに取り乱す彼女はなかなかに珍しい。
というか、初めてみた。
黒薔薇も赤くなるのだな、と頭のすみでそんな栓も無いことを考える。
「ふふふっ」
あまりにその顔が可愛らしくて、思わず笑い声をあげてしまった。
そんなことをしては彼女を怒らすだけだと知っているのに、自分の表情をコントロールできないほど彼女のその表情が嬉しかったようだ。
案の定、ロザリンドはいつもの張り付けたような笑顔もどこへやら、そのキツめの瞳をさらにするどくして、キッとこちらを睨み上げてくる。
「失礼。いや、しかしロザリンド嬢。ああいう輩はあなたに成敗されても喜ぶだけなのではないですか?無視なさるのが一番でしょう。」
「わたくしだってそうしたいですわ!でも無視したら無視したで嬉しそうになさるんですのよ…!だから何も言えないように意識を手放させるしかないじゃございませんの。一体なんなのです、あれは。男性にはそういう願望が皆さまおありになるの?」
普段の彼女なら聞き流していただろうエランの言葉に、忌々しそうにその綺麗な眉を寄せて、ロザリンドが手にした扇子をその細く繊細な指でぎりりと締め上げる。
たぶん、そんな異常な情熱を向けられて、取り繕う余裕も今の彼女には無いのだろう。
普段堂々としてはいても、まだ16歳の少女なのである。
彼女のこんな表情を引き出すとは、デーツ伯爵子息はなかなかいい仕事をしたじゃないか、とエランは内心彼に予定していた嫌がらせを減らしてやろう、と考えた。
「世の紳士の名誉のために申し上げるならば、ああいうのは先ほども申しました通り特殊な部類ですよ。ただ、あなたはそういう男に好かれやすいというだけでしょう。」
エランの言葉に、さきほどまで赤かったロザリンドの顔が次は青くなる。
「わたくしのせいだとおっしゃいますの?」
「おや」
この質問は難しい質問である。
エランはどうこたえるか、少し考えた。
先ほどのご令嬢たちと話してた時には無い楽しい時間だ。
「難しいですね。美しさを罪に問うのかという問題なので…。惹かれる思いにどちらのせいかという詮索は無粋でしょう。」
エランの言葉に、ロザリンドは少し不満げに方眉を上げただけで、何も言わずに青い顔のまま視線を落としてしまった。
不合格であったらしい。
しかしこのご令嬢は、このように気高い性格をしていてよくも今までああいった輩に遭遇しなかったものだと思う。
よっぽどデビューまで、大事に守られてきたのだろう。
そしてデビューの後は、エランが彼等を遠ざけていたのである。
このまま彼女の悄然とした姿を見ていたい気がするが、そういうわけにもいかない。
「ところでロザリンド嬢。この度の馬車代というわけでは無いのですが、ひとつ頼まれてほしいことがあるのですが。」
「…なんですの…。」
エランの言葉に、めんどくさそうにロザリンドが重そうな黒い睫毛を持ち上げてアメジストの瞳をこちらに向ける。
しょうもないことだったらただじゃ置かないぞ、とその瞳が言っている。
「近く、ウルフベリングから使節団がいらっしゃるのですが、彼等と交流する際に、私のパートナーとしてあなたに参加していただきたいのです。」
「まあ、どうしてですの?わたくしでは無いといけない理由でもあるのかしら。」
言葉の裏に、あなたの告白はお断りしたのだからもちろんそれ以外の理由でしょうね?とロザリンドが問い返す。
その瞳は先ほどの打ちひしがれたものではなく、かすかに輝きが戻っている。
「はい。かの国は先の戦で第一王子を無くしたために、妾腹の第二王子か、王妃の娘の年若い第一王女かで王位継承権の行方が揺れておりました。その末に、第二王子が立太子なさったのですが、身分低い母君からの生まれであるということもあり、未だ彼の地位は盤石ではありません。そして今回の使節団には、第一王女殿下がいらっしゃいます。」
エランの説明に、ロザリンドは瞳の輝きを増しながら、一つ一つ頷いて聞く。
まっすぐエランを見つめてくる彼女の真剣なまなざしは心地よい。
「なるほど、だいたいお察しいたしましたわ。かの国はエラン殿下を第一王女の嫁ぎ先にお望みなのですわね。そして竜王国はできればそれは避けたいと。」
話の流れでウルフべリングの王太子とエランを混乱させないために呼ばれたのだろう自分の名前に、エランは笑顔を深くした。
「ご明察です。さすがですね。ウルフベリングの第二王子派は第一王女を早くどこか別の国へ嫁がせたいのでしょう。しかし王女殿下を迎えれば、ウルフベリングの王位継承問題に巻き込まれて竜王国とウルフベリングとの戦争になりかねません。できれば第一王女殿下にはそのようなことができない遠国へ平和に嫁いでいただきたいところですね。」
「ではわたくしの役目はエラン殿下の露払いですの?王女殿下とわたくしでは少し分が悪いのではないかしら。エメランダ様のほうが適任なのではなくて?」
エメランダとは、竜王国に二つある公爵家の一つ、ドライアン公爵家の姫君だ。
エランとは従兄妹同士であり、血が近すぎるという理由で王太子妃候補からは外れていたが、身分としてはロザリンドよりも高い。
「残念なことにエメランダは近くエディンベニラのほうへ嫁ぐことが決まりそうなのですよ。それに彼女はあまり社交を好まないので、あっという間にあしらわれてしまうでしょう。」
「あら、そうでしたの。わたくしまだ二度ほどしかお会いしたことが無いのですけれど、とても朗らかな方でいらっしゃったように思いましたわ。」
「ええ、彼女は優しい女性です。だからこそ、腹の探り合いにはむきません。」
エランの言葉に、ロザリンドはなるほどと頷いた。
これがただ交流を深めるだけの、接待であったなら、エメランダのような女性は適任だろう。
しかし今回の仕事はある意味戦いだ。深層の姫君には荷が重い。
そんなロザリンドを眺めながら、エランは、金色の瞳を細めて続ける。
「本当はあなたが婚約者として横に居てくだされば一番心強いのですが、仕方がありませんね。ウルベルトにも今回はがんばって彼の妖精を守ってもらうしかありません。」
別に第一王女の嫁ぎ先はエランでなくても良い。
ウルベルトは近衛騎士団長の地位にあり、先の戦いでも参戦して武功を上げたのは彼である。
第一王女派が狙いたいのはどちらかと言えば彼だろう。
そう告げるエランの言葉に、ロザリンドはフン、と鼻で笑う
「お戯れを。お話を聞く限り、婚約者であったほうが危険は大きいでしょう?わたくし親友が大切ですの。」
「おや、バレてしまいましたね。」
恋人なら、無理に排除しなくても話は進められる。
しかし婚約者となると、かの国が過激な行動をいとわないのであれば命の危険があるだろう。
まったく自分が頷かないと知っていて、どさくさに紛れてなんて物騒なこと言い出すのだと扇子の後ろで眉を潜めたロザリンドに、エランはぐっと席から乗り出し、彼女の空いている手を握る。
「一つ申し上げるのであれば、私もウルベルトも自分の華が手折られるのを黙ってみているほどやさしくはありません。もしあなたが私との婚約に頷いてくださるなら、たとえ矢の雨の中であってもこの身をかけてお守りすると誓いますよ。」
薄暗く狭い馬車の社内で、ロザリンドの顔へ寄せたエランの金色の瞳が、長く鮮やかな赤いまつげを落として微笑む。
その瞳の中にくすぶる熱に押されて、ロザリンドは体を背後の壁にすりよせた。
いつもエランに向けられて積まれていた、彼女の城壁が今日は本当に崩れてしまっているのを見てとって、エランは笑顔を深くする。
ロザリンドの侍女が少し驚いたような顔でこちらを見ていたが、それ以上は動かないとみて彼女は何も言わずに目を伏せた。
そちらにチラリと視線をやってから、自分が怯んでしまったことに気づいたのか、ロザリンドは扇子の後ろで渋い顔をする。そしてこちらを見返すと、すっとまつ毛を下ろして瞳を細め、フン、と鼻を鳴らした。
「…そうおっしゃるのでしたら契がなくても是非守っていただきたいですわね。ウルベルト殿下ならそうなさるでしょう?」
先日、アリィシャが賊に捕まってしまった時、怒り狂ったウルベルトのせいで、敵味方に甚大な被害が出た。
契約が無くては守るに値しないというのであれば、頷くわけにはいかないとエランとウルベルトを比べてロザリンドは皮肉ったのだ。
そんな彼女の冷たい言葉に、エランは金色の瞳の中の熱を隠して、困ったように微笑んだ。
「まいりましたね。やはりあなたは一筋縄ではいかないようだ。もちろんです。私も竜の血をひいているのですから、望む華を懐に抱くために、それを阻む者は何者であってもを許すような心は持ち合わせていないのです。弟とはやり方が、少しだけ違いますけどね?」
肩にかかった鮮やかな紅い髪の毛をゆらし、ね?と首をかしげて見せるエランに、ロザリンドは胡乱な目を向けて、嘆息する。そしてその表情をしまい込み、優雅ににっこりと微笑んだ。
「まあ、よろしいですわ。先日は王太子殿下の頭にお花畑ができてしまったのではないかとご心配申し上げておりましたの。ふふふ、花は頭の上ではなく横に咲かせるものだとようやくお気づきになったようで安心いたしましたわ。このようなお話であればわたくしに否はありません。どうぞご安心なさって。ぜひ、使節団の皆さんには竜王国を楽しんで帰っていただきましょう。」
自信に満ちて笑みほころぶ彼女の笑顔は、普段エランに向けられる作り物の笑顔とは違う。
自分の実力を発揮する場所を与えられて喜ぶ顔だ。
内から輝き漏れるようなその美しさに、エランは今日見た中で一番の顔だな、と満足して頷いたのだった。