36 最終日3
「アリィシャ様!こちらにいらっしゃって!」
青銀の髪をはずませ、頬を薔薇色に染めたセレスが、妖精のような少女へ、その白い腕を伸ばす。
アリィシャは、自分の前に差し出された手をとるのを躊躇するように淡い空色の瞳を瞬かせた。
「わたくし…とちらないかしら。」
「うふふ、大丈夫。我が国の舞踏は楽しんだ者勝ちですのよ!」
不安に胸の前で握り込まれていたアリィシャの手を、セレスは身を乗り出して捕まえると、ぐいっとダンスホールの輪の中へ引き込んだ。
ウルフベリングの使節団を送る夜会も終盤となって、今ダンスホールでは、使節団を中心とした男女が、手に手をとって大きなダンスの輪を描いていた。
一対一で踊るものでは無く、大勢で回るその舞踏は、祭りの時などに喜びを謳って踊られる物だ。
足運びは二人で踊るものと変わらないので、それさえできていれば動きに合わせるのはさした苦労ではない。
軽快な音楽に乗って、くるくると輪を広げたり縮めたりしながら踊る人々の顔には、楽しそうな笑顔が咲いていた。
「本当に、大変な一週間でしたけれど、良い方向に落ち着きそうでなによりですこと。」
頭上に煌めくシャンデリアに負けない輝きを散らすそんな人々を、ダンスの輪から少し離れた場所で見守りながらロザリンドは息を吐く。
最後まで参加したかったところだが、さすがにしばらく踊り詰めだったので、しばし休憩だ。
その横で、彼女の腰を抱いたエランが機嫌よさそうに頷いた。
「ええ、本当に。なにせ我が国は第一王子殿下の命の恩人ですからね。これでセレス殿下もお輿入れなされば、単なる使節団の来訪だけでは築き得ない友好の証になるでしょう。」
「あら、グレイン子爵はまだ了承のお返事をしていないのでは無かったんですの?」
「どうでしょうね、彼も竜の血をひいていますから。もう答えは出ていると思うんですが。」
王家の血をひいていることと、告白への返事を決めることにどういったつながりがあるというのだろう。
たしかにグレイン侯爵家は王家からの血を濃くひいてはいるが、公爵家というわけでは無い。
一国の王女を迎えるにあたっては、何かと苦労があるように思われ、首をかしげたロザリンドの視界の端で赤い髪の毛が小さく揺れ、エランがふふふ、と笑う声が響く。
どうしたのか、と視線で問うように見上げたロザリンドに、彼は金の瞳をダンスの輪に向けたまま答えた。
「私は参考として、ウルベルトがアリィシャ嬢にどんな告白をしたのかべオルフに聞いたことがあるのですが。」
「あら、なんとおっしゃったの?」
その当時、ウルベルトからの告白を受けたという話はアリィシャからロザリンドも聞いていたが、その子細な内容までは聞き及んでいない。
興味を引かれて問い返したロザリンドへ視線を移し、エランはニッコリと微笑んだ。
「自分の何処が好きなんだときいたアリィシャ嬢に、『竜は光り物が好きなんだ』と答えたらしいですよ。」
「まあ…正直でいらっしゃるのね。」
ようするに、素直に見た目に惚れたと言ったのだろう。
本当にあの第二王子はどこまで愚直なのかと呆れながらも、なんとか言葉を濁したロザリンドの上で、エランが楽しげな顔で頷いた。
「ええ、本当にあの子らしいですね。言葉がまったく足りていなくて。聞いた時は悪いとは思ったのですが笑ってしまいました。」
言いながら、エランはまた赤い髪を揺らしてクスクスと笑う。
たしかにウルベルトは真っ直ぐすぎてたまに言葉が足りていないことはあるが、その兄はと言えばあえて言葉を削ってこちらを翻弄してくるから、どの言葉を信じていいのかわからないのよね、とロザリンドは嘆息する。
「私は嘘は申しませんよ?」
「ちょっと、人の心を読まないでくださる。」
アメジスト色の瞳をじっと覗き込んで、首をかしげたエランとの顔の間に、ロザリンドは扇子を割り込ませて抗議する。
まさか顔に考えが出てしまうとは、一つ仕事を終えて、いささか油断しすぎたかもしれない。
まだ夜会は終わっていないのだから、気を引き締めなくては。
淑女の笑顔を顔に貼り付けなおそうと居住まいを正すロザリンドの横で、扇子に押しやられたエランは少し身をひいて、また楽しそうにクスクスと笑ったかと思うと、そっとその扇子を指で押してどけた。
そしてそのままロザリンドの前に向き直って、優しく彼女を抱き寄せる。
向かい合わせになった秀麗な王太子の姿に、貼り直していた淑女の笑顔を取り落とし、ロザリンドは息を飲んだ。
自分の鼓動の音が、楽しげな人々の笑い声を遠くへ押しやる。
誰もがダンスホールへ目を向けており、たくさんの人が周りにいるというのに、金とアメジストの視線が交差するここは、なんだか二人っきりの場所のようだ。
じっと目を瞠って見つめていたロザリンドの瞳の中で、キラキラと散るシャンデリアの光を乗せて薄く笑まれた蜂蜜色の瞳の横を、赤い髪が一筋、さら、とすべった。
「あなたの瞳の中の星の輝きに私の心は明るくなる思いです、これから先も、私を照らしてくださいませんか」
柔らかい声で詠うように告げられたその言葉に、ロザリンドはアメジストの瞳を瞠って蜂蜜色の瞳を覗き込んだ。
春先に聞いたあの声と、まったく同じ音で耳に響いた言葉が、ひらひらとロザリンドの胸に降りてくる。
今も覚えている。薄闇に沈んだ玄関ホールの中で、彼が赤い髪を揺らし、今目の前にある笑顔と同じ顔で告げたその言葉が腹立たしくて、鼻で笑って振り返りもせずに自室に戻ったのだ。
手ひどく振ったあの日と変わらぬセリフで愛を告げるなんてずるい。
あの時あんなに腹立たしかった言葉が、今はこんなにも胸を揺らすなんて。
あの日無下に散らした言葉のひとひらひとひらが、こんなに胸に重いなんて。
彼の声も姿もきっと心の内も、何一つ変わらないのに。
そんなの、ずるい。
高鳴る鼓動で、顔が赤くなるのを制するように、ぐっと奥歯を噛み締めて、ロザリンドは姿勢を正した。
「殿下こそ輝いていらっしゃるのですから、ご自分の灯かりでその道を照らされてはいかが。」
ツンとあごをそらし、高飛車に言ったそのセリフは、あの日と同じようで少し違う。
勝手に一人でやっていろ、とはねのけた春先とは違い、今日は自分の言葉でもう一度、という催促だ。
彼が言いたいことはよくわかったが、他人のために作られた言葉で頷くわけにはいかない。
そんなロザリンドを、エランは眉を上げておもしろそうに見つめた後、赤いまつ毛を下げて不適に笑う。
その腕が、ぐっとロザリンドの身体を自分に寄せて、蜂蜜色の瞳が眼前に降りてきた。
コツンと額と額がぶつかりあい、彼の長く赤いまつ毛が触れそうなその距離に、少し速いエランの鼓動の音が耳に届く。
「あなたという薔薇が輝き咲く場所を、私の懐中に定めてくださいませんか。この愛を、命続く限り注ぐことをお約束しますから。」
エランの声は、ささやくような声だったが、人々の楽しげな歓声と、二人の鼓動が響く中にあって、ロザリンドの耳に、甘くよく響いた。
柔らかい彼の言葉が作る波が心臓を揺らす度に、幸福感が胸に満ちるのを感じながら、二人の顔が作った影の中で輝く蜂蜜色の瞳を見上げる。
その瞳は、瞬きもせずにアメジストの輝きを見つめながら、ロザリンドの答えをじっと待っていた。
ひたむきなその視線に、ロザリンドの口元が、知らずほころぶ。
「仕方がありませんこと。」
はい、喜んで、という意味である。
この後に及んで、まったくかわいくない言葉であったが、エランにはその意味がよくわかったらしい。
彼はぱっと頬を染め、少年のような顔で笑うと、ロザリンドの頭に頬を寄せて彼女をきつく抱きしめた。
少し息がつまるくらいのしめつけだったが、文句を言わずにロザリンドはその身を預ける。
結局、この勝負、勝ったのだろうか。負けたのだろうか。
ただ一つ言えることは、今この胸を占める思いは、敗北感では無く、幸福感だということである。
夜会最後の曲が終わりを迎え、会場いっぱいに溢れた人々の喜びの声の波が、エランとロザリンドの間で二つの鼓動の音が響くのをふわりと覆って隠したのだった。