30 館
「それじゃあ、またあとでね!」
そう言って、来た時と同じ馬にまたがって帰っていくセレスを見送ってから、ロザリンドはまた先ほどと同じ木陰に腰を下ろした。
ベリンダも、さすがにもう魚は捕まえないのか、その横に座る。
「ここから先は暇ですね。」
「そうねえ…。」
そう言いながら伸びをするベリンダの横で、またロザリンドは本を取り出してページをめくる。
さきほど読み始めた本は今中盤で、なかなかに良いところだ。
「何をお読みになっていらっしゃるんですか?」
「…星屑の君の続編が出ましたのよ。」
「ああ!件の少女小説ですか!」
暇らしいベリンダの質問に、ロザリンドは少し間をあけたが、素直に答えた。
すると、彼女は瞳を輝かせてページを覗き込んできたが、すぐに体を起こして姿勢を正した。
「今度姫に一巻目を貸していただく約束ですからね。さすがに続刊を覗いてはネタバレになってしまいます。」
「…そうね。」
たしかに貸してくれと言われたような気はするが、了承した覚えはない。
しかし彼女は見た目に反して乙女の心も持ち合わせているらしいので、別に拒否することも無いだろう、とロザリンドは頷く。
ベリンダがラフィルと婚約して、フェリンドに嫁いだら、使節団の来訪が終わってもその後も付き合いは続くだろう。
その時には、数少ないロザリンドの女友達になってくれたら良いな、と思う。
まあ、正直彼女を女性のカテゴリに入れていいものかは悩むところなのだが。
「…それにしても、魚を手づかみで捕るなんて驚きましたわ。旅先でもそんなことをしていらしたの?」
「いえ、魚の捕り方を教えてくれたのは兄なので。フェリンドでもやっていました。やると楽しいものですよ。ルミールも出来るはずです。」
「…今日、ルミール様がここにいらっしゃらなくてよろしかったですわ。」
妖精のような少年が、元気いっぱいに魚を手づかみする光景が簡単に想像できてロザリンドは嘆息する。
もし、ルミールまで参加して魚を手づかみなんかし始めたら、それこそ竜王国の人間を誤解して王女殿下をウルフベリングに帰すところであった。
ベリンダは、それ以上はロザリンドの読書の邪魔をしないようにしようと決めたのか、目を細めて林の景色を眺めながら、大人しくじっとしていた。
彼女は優秀な騎士だけあって、こうやって護衛対象の横で黙っているのには慣れているらしい。
ロザリンドは彼女の好意をありがたく受け取ることにし、アメジスト色の瞳で、本の文字をなぞる作業に戻った。
〇・〇・〇・〇・〇
二時間程たっただろうか。
前方の林から、馬が駆けてくる音がした。
見れば、近衛服を着た騎士が、芦毛の馬に乗ってこちらにやってくる。
どうやら迎えが着たようである。
「ロザリンド様、おまたせしました。」
ひらり、と馬から降りた騎士を、ロザリンドは見上げた。
ダーティーブロンドに青灰色の瞳のこの騎士には見覚えがある。
たしか、ベリンダの前にロザリンドを護衛してくれていた騎士だ。
「デニス様、お手数をおかけいたしますわ。」
名前を呼ぶと、デニスは少し眉をあげ、にっこりと微笑む。
近衛にいるだけあって顔の良い彼は、そうするだけで物語の中の騎士のようだ。
さきほどまで少女小説を読んでいたので、ついそんなことを考えてしまった。
「名前を覚えていていただけるとは光栄です。ベリンダ、申し訳ないのだが先にロザリンド様をお連れするよ。後でまた迎えに来るのでもう少し待っていてもらえるか?」
「ん?ああ、別になんなら迎えはいらないぞ。私は歩いてでも帰れるからな。」
「いや、それじゃロザリンド様の護衛がいなくなるだろ。歩いててもいいけど、この道沿いをいってくれよ。」
ベリンダの言葉に、デニスは苦笑しながらロザリンドに手を差し出す。
その手をとると、そのまま馬にのせてくれ、彼も後ろから乗り込んだ。
男性と馬に二人乗りをするのは幼少の頃に兄にのせてもらって以来であり、家族以外の者としたことが無かったロザリンドは、少々緊張してしまう。
そういえばよく、アリィシャがウルベルトの馬上に捕まっていたと話していたのを思い出す。なるほど、これは恥ずかしいものだ。
「もし早すぎたり、辛かったりしたらおっしゃってください。」
頭上から、デニスの優しい声がして馬が走りはじめる。
振り返ると、ベリンダがひらひらと手をふっていた。
~別に、この方にあそこで待っていて頂いてもよろしかったのでは無いかしら…。
気恥ずかしさに、そんなことを考えてしまったが、せっかく迎えにきてもらったのに文句を言うわけにはいかない。
仕方なく、ロザリンドは自分の手元に視線を落としながら馬に揺られた。
ウルベルトはよく馬に乗ってでかけるようだが、そういえばエランは乗馬などはするのだろうか。
今度、一緒に小川に来ようと言っていたが、もしかしたらその時はこうやって二人乗りすることに…。
そこまで考えて、ロザリンドは小さく首を降る。
なんだか今、ものすごく恥ずかしいことを考えていたような気がする。
普通に考えて、ロザリンドは自分で馬に乗れるのだから、二人乗りする必要は無いのである。
やはり少女小説を読んでいて、少し脳内がふわふわとしているのかもしれない。
そのまま、しばらくロザリンドが自分の手元を睨みながら馬に揺られていたところ、後ろのデニスが馬から降り、近くにあった体温が消えた。
それにほっとしながら、王宮についたのだろうか、と顔を上げると、そこは少し寂れた洋館の前だった。
「あら、ここはテレミア伯爵邸ではなくって?」
テレミア伯爵は、ついこの前の春先に、子息がアリィシャを拐かした罪にとわれたために、今はこの王都の屋敷を引き払って領地に下がっているはずである。
まだこの屋敷が伯爵の物だったころ、数回夜会で出向いたことがあったロザリンドは、なぜこんな場所でデニスが馬から降りたのかと首をかしげた。
「はい。こちらでお待ちいただくようにと言われておりますので。」
「…まあ、そうですの?」
よくはわからないが、何かここで待つべきことがあるのだろうか、とロザリンドはデニスの手をとって馬から下ろしてもらう。
デニスはそのまま、屋敷の扉をあけて、中で待っていた侍女にロザリンドを引き渡した。
「あら、ドロシー。」
中で待っていたのは、ロザリンドの後宮の部屋で世話をしてくれた、三つ編みの侍女だ。
彼女は名前を呼ばれて、ロザリンドに一礼した。
「それでは、私はベリンダを迎えに行って参ります。」
爽やかな笑顔でそう言って、デニスがまた館の外へ出ていく。それを見送ってから、ロザリンドはドロシーに連れられて、二階の部屋の前まで来た。
「どうぞ、こちらです。」
そう言ってドロシーが開けた扉の中に入ると、後ろでドアがしまった音の後に、ガチャリとなんだか不穏な音がした。
驚いて振り向くと、ドロシーがロザリンドを見上げて首をかしげて見せた後、部屋の中へ進んでいった。
まさかと思ってドアノブをひいてみたが、ひっかかるような硬い感触がして、開かない。
どうやら鍵がかけられているようである。
「一体全体どういうことですの?」
説明を求めて室内に歩を進めたドロシーに視線を向けると、三つ編みの侍女のむこうに、少し青い顔をしたセレスが、部屋の隅で壁に背をあずけてカーテンを握り込んで縮こまっている。
歓談室らしいその部屋は今はカーテンが厚くひかれ、その向こうの窓にも板でも打ち付けられているのか、まだお茶の時間に入ったくらいだというのに、外の光を拒絶して、灰色の影がわだかまる中に、魔法灯のあかりがついている。
ドロシーは、部屋の隅にいるセレスを気に止めた様子はなく、部屋の奥に置かれた茶器で、お茶を淹れ始めた。
「どうして王女殿下がこちらにいらっしゃるの?今はもうお茶の時間ではなくって?」
嫌な予感を感じながら聞くと、セレスが室内に視線をさまよわせた。
「わ、わたくしもわからないわ。馬で王宮に戻る途中に、近衛の方に誘導されてこちらに来たんだもの。部屋に入ったら閉じ込められてしまって…。」
「どういうことなのドロシー。あなた何か知っていらっしゃるの?」
「はい、主人が参りますので、今しばらくお待ち下さい。」
「あなたの主人とはもちろん、竜王国の国王陛下のことですわね?」
「お嬢様、お茶が入りましたのでお席へどうぞ。」
ロザリンドの言葉には答えず、ドロシーがにっこりとお茶の準備ができたティーテーブルへ誘う。
何も話すつもりは無いようだ。
ロザリンドは扇子の後ろでため息をつくと、ドロシーがひいた椅子に腰掛けて紅茶のカップを持ち上げた。
それを、セレスが目を丸くして見つめている。
「ちょ、ちょっとロザリンド様!なに寛いでいらっしゃるの!?」
「だって…仕方がないじゃございませんの。こうなったら助けを待つしかないでしょう?わたくし、騎士ではありませんもの。それに丁度、お茶の時間ですわ。」
たとえここでドロシーを床に転がしても、ドアには鍵がかかっているし、セレスを抱えてこの屋敷を脱出するのは難しそうに思われた。
ロザリンドだけならまだいいが、セレスは王女様なのだ。彼女になにかあれば国際問題になりかねない。
「だからって…。あ!ちょっとまって!」
ロザリンドが、紅茶に口をつけようとしたのをセレスが慌てて止める。
そして、足早にティーテーブルの横までやってくると、熱心にくんくんとお茶やお菓子をかぎはじめた。
その様子はまるで犬のようである。
「あら、お好きな香りのお茶でしたの?」
「違うわよ!変なものが入っていないか確認したのよ!」
「まあ、さすがですわね。何かおわかりになって?」
「いえ、何も入っていないようだわ…。」
眉を寄せ、不本意そうな顔をしながら、セレスもここまで来たらどうとでもなれと思ったのか、ロザリンドの向かいに腰をおろす。
そして憮然とした表情でお茶を飲み始めた。
それを確認して、ロザリンドもお茶に口をつける。
「それにしても、とうとうセレス様の狙いどおりになったのではなくって?それで、これからどうするおつもりなんですの?」
「わからないわ。まさかこんなことになると思わなかったのだもの。わたくしの護衛が離れて見守っていてくれたはずなのに出てこないし…。」
セレスが一人でフラフラしていたのは、自分を囮にするためだ。
しかし、今日はこの館に囚われるまで、護衛の者は姿を現さなかった。
彼等も罠だと気づかなかったのか、もしくは何かあったかのどちらかだろう。
「まあ、せっかくのチャンスですのに、勿体無いことですわね。」
「はあ…ぐうの音も出ない…。わたくしまた失敗してしまったのかしら。」
「それにしても、わたくしをここに連れてきてくださったのは顔見知りの近衛騎士でしたのよ。彼も裏切っていたということなのかしら…。少し残念ですわ。」
さきほどのデニスの爽やかな笑顔を思い出しながら、ロザリンドがため息をつく。
近衛の中に他国と通じるものがいるなんて、国の恥だ。
「どうかしら…。もしかしたら偽物かもしれないわよ。ウルフベリングでも…そういうことはあったから。」
「あら、どういうことですの?」
銀のまつ毛を伏せ、少し憂鬱げに告げられたセリスの言葉に、ロザリンドは首をかしげる。
彼女はチラ、とこちらを見上げてからまたまつ毛をふせ話し始めた。
「細かい事情ははぶくけど…。私の侍女に、偽物がまぎれていたことがあったのよ。本人とまったく同じ顔をしていたけれど、匂いでわかったわ。何をしようとしていたのかは、結局言わないまま死んでしまったけれど…。」
はあ…とセレスがため息をつく。
自分を狙っていたかもしれない相手でも、彼女には人の死は辛かったらしい。
「先の戦で、ロランジュお兄様が亡くなってから、わたくしを押す保守派の貴族と、カミルお兄様を押す革新派の貴族の対立が激しくなっていたせいだとは思うわ。でも…わたくしなんてこんな性格でしょう?絶対王太子なんて無理だもの。さっさと立太子なさってくださいとカミルお兄様に再三お願いしたのに、私に遠慮したのかなかなか踏み切られなくて…。」
「まあ、そうねえ…。」
不本意そうに言うセレスに、ロザリンドは曖昧に頷く。
たしかに、セレスに王太子なんて仕事は難しいだろう。
だからこそ、傀儡にできると思って押した貴族は多かったに違いないが、そんなことは本人には言えない。
第二王子が立太子しなかった理由はわからないが、血筋というものはなかなかにデリケートな問題なので、いろいろと前準備が難しかったのかもしれない。
「それにしても、その侍女は幻術でお顔を変えていたということかしら?だとすると随分と手がかかっていますわね。」
「そうね、だから高位の貴族では無いかとは思うのよ。今回で尻尾くらいはつかめたらと思っていたのだけど…。これだもの。」
そういってセレスは、今いる部屋をぐるりと見渡して、しょぼん、とうなだれた。
こんなことになったのは、どちらかと言えば彼女を守るべき護衛の失態なのではと思うのだが、ロザリンドもベリンダと別行動を取ってしまった手前、何も言えない。
「まあ、そんなに悲観しなくても、あなたがお茶の時間に現れなければエラン様がすぐお気づきになりますわ。ここは王都の中なのだし、すぐ助けが来るかもしれなくってよ?」
「…そうね、そうだと良いのだけれど…。」
セレスがロザリンドの言葉に顔をあげて頷いた時、ドアが開く音がした。
二人でそちらに顔をむければ、そこには壮年の落ち着いた紳士が立っている。
「ドミヌク伯爵!」
セレスが、少し剣呑な響きを持った声でその名を呼ぶ。
紳士はにっこりと微笑んでこちらへ数歩近づいてきた。
「あら、ドロシーのご主人様がお見えになったのかしら。」
ロザリンドはそう言いながらちらりとドロシーを見たが、彼女は特にその顔になんの感情ものせないまま、テーブル横に控えている。
そんな様子にロザリンドが伯爵に視線を移すと、彼は紳士の礼をした。
「王女殿下、このような場所にご足労いただき申し訳ありません。お話をきいていただければすぐにお帰しいたしますので。」
「まあ、どういうことなの。わたくしの時間をとって、しようもない話だったらただじゃおかないわよ。」
落ち着いた声音で告げられる言葉に、セレスが王女然としてドミヌク伯爵を睥睨する。
彼はそんな冷たい視線には気を止めた様子もなく、にっこりと笑った。
「ええ、王女殿下は竜王国の王太子殿下の元へお輿入れになりたいのでしょう。その手助けをさせていただければと思っただけなのです。」
「あら、聞き捨てなりませんわね。わたくしを差し置いてどうしてそのようなお話になりますの?」
片眉を上げて冷たい声を響かせたロザリンドに、ドミヌク伯爵はちらりと視線を向けたが、すぐににこやかな顔で王女に向き直った。
どうやらこちらとしゃべるつもりは無いようである。
「筋書きはこうです。先日の園遊会で、ロザリンド様は王太子殿下の横に王女殿下がいらっしゃるのを随分攻めておいでだったでしょう。ですから、今日王女殿下を遠乗りに誘い、人目のつかないところで害そうとした。それを我らがお止めして、王太子殿下には想い人のおかした罪に責任をとっていただきます。まあ、少しばかり王女殿下には傷を負っていただくこととはなりますが、大したものにはいたしませんのでご安心ください。」
「すごいですわ王女殿下、あなたの筋書き通りですわよ。」
「感心している場合なのロザリンド様!?」
ポンコツだと思っていたセレスの術中にはまったらしいドミヌク伯爵の言葉に、思わずロザリンドが感嘆の声を漏らすと、セレスがもっともなツッコミをいれてきた。
まあたしかに、ここで本来は伯爵を捕縛するはずだったのにこちらが捕まっていれば世話はない。
ロザリンドの言葉に、ドミヌク伯爵は少し片眉を上げたが、何も言わずにセレスの答えを待つつもりのようだ。
セレスは少し逡巡したが、キッと彼を睨んで首をふる。
「わたくしはそのような卑怯な真似をしてまで輿入れなどしたくありません。そんなことをしても、不幸になるだけですわ。」
きっぱりと言い切ったセレスの言葉に、ドミヌク伯爵は笑顔を崩さなかった。
そしてふう、とため息をつく。
「王女殿下であればご協力いただけると思ったのですが…残念です。ですが、きっと私達にご協力いただける気持ちになりますよ。」
演技がかった口調で、いかにも憂鬱だと言わんばかりに首をふった伯爵は、すっと腰に下げられた何かを手にする。そこに握られていたのは黒い乗馬用のムチだった。
「まあ、暴力に訴えるつもりですの?わたくし、そのようなことでは頷きませんわよ。」
言葉と裏腹に、セレスの手が少し震えている。その様子を瞳を細めて見つめていたドミヌク伯爵は、ドロシーに視線で合図を送った。
すると彼女は一礼して部屋を出ると、ほどなくして、また扉が開いて誰かが入ってくる。
それは近衛服を着た騎士数人と、その手に抱えられた銀髪の男性だった。
騎士に両脇を抱えられた男性は、後ろ手をしばられて力なくぐったりとしている。
銀色のまつ毛は伏せられて、肩ほどまでで切りそろえられた銀髪が、その顔にかかって半分を隠していた。
ロザリンドは最初、銀髪の男はセドリムかと思った。
彼女が知っている、これぐらいの年頃の銀髪の男性は彼くらいだったからである。
しかし、よくよく見れば、まったく顔が違うし、セドリムはたしか短い髪の毛をしていた気がする。
どうやら知らない男のようだが、どこか既視感のある顔だわ、とロザリンドが首をかしげたところ、視界の隅で、セレスが震えているのがわかった。
銀髪ということは、たぶん間違いなく彼はウルフベリングの者なのだろう。
使節団にはいなかったような気がするが、本国から連れてこられたのかもしれない、とセレスの顔を見る。
すると、彼女の顔は青を通り越して白いくらいだった。
体は震え、銀の目をみひらき、くちはわなないている。
思わず大丈夫かと彼女を抱きしめると、セレスはその腕の中で小さくつぶやく。
「お兄様…。」
「なんですって?」
まさか、本国から王太子を攫ってきたのかとロザリンドが眉をひそめると、セレスはふる、と首をふる。
「そんな、だってわたくし、国葬でお見送りしましたのに…。」
一瞬、何をいっているのか理解に遅れたロザリンドは、もう一度騎士に抱えられた男を見る。
曇りの無い銀色の髪に、銀の長いまつ毛。目はふせられ、顔もよくは見えないが、そういえば、どことなくセレスによく似ている。
「そうですね。私もこの国で偶然この方を見つけた時は驚きました。しかし彼は、国をすてて逃げ出した汚い卑怯者でしょう。あなたたちを捨て、この国に隠れ住んでいたのですからね。」
「そんな…!」
ロザリンドの腕をふりはらって、兄に駆け寄ろうとしたセレスを、いつの間にか後ろにまわっていたらしい男が捕まえて止めた。
背後から、「大人しくなさってください。」という低い声が聞こえ、セレスは震え、ロザリンドは片眉を上げる。
「また偽物なんじゃありませんの?」
幻術で本物とすり替えられていた人々の話を思い出して言ったロザリンドに、セレスが小さく首をふる。
「お兄、様の…にお、いが…。」
なるほど、そういえばこの少女は本物と偽物を嗅ぎ分けられるのだった。
ガクガクと震えながら、涙をこぼすセレスに、ロザリンドはため息をつく。
偽物だと思っておけば正気を保てたかもしれないのに、やっかいなものである。
セレスのその様子は、ドミヌク伯爵にとって満足がいくものだったらしい。彼はにこにこと楽しそうな顔でしばらくその様子を見ていたが、おもむろに、その手に持っていたムチで、銀髪の王子の頬をはたいた。
「やめて!」
セレスの悲鳴と供に、パァン!と乾いた音が室内に響き、ぐったりとした王子の顔がその衝撃に揺れる。
そして白い肌に残った赤い跡から、ツ、と血がにじみ出た。
「ふふ、見ての通り、この方には意識が無いのですよ。戦での傷が災いしているのでしょう。しかし息はあります。せっかくこのように生きていらっしゃったのに、またアーズアースにお見送りなさりたくは無いでしょう?あなたはただ黙って玉座におすわり頂ければいいのですよ。それ以上のことは望みません。簡単でしょう?」
上機嫌でそう言いながら笑うドミヌク伯爵に、セレスはへたり、とその場所に座り込み、無言で涙を床に落とした。
その様子に、勝利を確信したらしいドミヌク伯爵が、笑顔を深める。
人を虐げ、愉悦に浸るその顔の、なんと汚らしいことか。
まったく、見るに耐えられない。イライラとした内心を抱えて、ロザリンドは扇子を口にあて、ふん、と鼻をならした。
「先ほどからきいておりましたけれど、随分とわたくしをないがしろにしたお話ではなくって?わたくし、この狂言に協力する義理がまったくないのですけれど…。早く帰してくださらない?エラン様とお茶をしなくてはなりませんの。」
セレスを見ていたドミヌク伯爵が、煩わしそうにちらりとこちらを見た。そして、これみよがしにため息をついてみせる。
「ええ、すぐ帰してさしあげますよ。ただし、王女殿下を害した罪人としてですが。」
「まあ、面白いことをおっしゃいますこと。わたくしまったくの無実ですもの。もちろんエラン様にすべてご報告申し上げてよ?何が真実かを見極める力が無いほど、我が君は愚かではありませんわ。」
「おやおや、いまだ婚約者でも無いくせに、どうも思い上がっていらっしゃるようですね。もちろん、お望みであればしゃべられないようにしてさしあげることもできますよ。あなたの心がけ次第です。王女殿下には洗脳術を受けていただく予定だったのです。この男のおかげでその分の金が浮きましたからね。ああでも、小娘にそのような大金をかけるのは勿体無いかもしれませんね。そうだ、王太子殿下にお輿入れともなれば、純潔は大事でしょう?それを失っていただくというのも面白いかもしれませんよ。一体どこまでその強がりがもつでしょうね?あなたのような方の鼻っ柱をへし折って、泣いて許しを乞う姿を見るのはさぞ気分が良いものでしょうねぇ。」
ムチを片手に、愉悦で歪んだ瞳で言うドミヌク伯爵の後ろから、ヒヤリとした殺気を感じて、ロザリンドは後ずさりそうになるのをすんでのところでこらえた。ここで怯んでいるように見せては相手を喜ばせるだけである。
ぐっと姿勢を正して、長いまつげを下ろし、伯爵を睥睨する。
「嫌だわ、わたくしそういう趣味は持ち合わせておりませんの。泣くはめになるのはあなたなのでは無くって?そのようなことをなさって、本当に思い通りに事が進むと思っていらっしゃるならよっぽどお目出度い頭をしていらっしゃるのですわね。羨ましいわ。」
「それならそれでよろしいのですよ。竜王国と、ウルフベリングの戦争になるだけです。第二王子を廃していただければ、あとはこちらでどうとでもしますので。そのように強がって見せてもこちらには何も影響はありません。まだ素直に協力したほうが、不幸になる者が少ないですよ?」
今竜王国とウルフベリングが戦争となれば、勝利するのは竜王国である可能性が高いだろう。
ウルフベリングは先の戦で消耗しており、まだ回復しきっているとはいいがたい。
とは言え、すべての国土を攻め落とせるかといえばそうではない。
多少の犠牲を払ってでも、国を手にしようというわけかと考えながら、ロザリンドは扇子の後ろで笑い声を漏らした。
「何かおかしかったですか?」
場違いな笑い声に、ドミヌク伯爵が眉を上げる。
それにロザリンドは肩をすくめてみせた。
「あら、うふふ。ごめんなさい。だって、あなたのような偶然にばかり助けられている小物が大それたことをおっしゃるものだから、つい可笑しくてわらってしまいましたわ。」
パン!とまた乾いた音が室内に響いた。
ドミヌク伯爵が、ロザリンドに向けてムチを振り下ろしたのだ。
しかしそのムチは、ロザリンドが間に割って入れた扇子に阻まれて彼女の白い頬には届かなかった。
女の顔めがけて躊躇なくムチを下ろすなんて、まったくなんて輩なのかとロザリンドは眉をひそめる。その跡を見られたら、不審に思われるとは思わないのだろうか?もしかしたらそれさえも、幻術で偽るつもりなのかもしれない。
「面白いことをおっしゃいますね。」
ロザリンドに届かなかったムチを苦々しそうに見つめながら、ドミヌク伯爵がこちらにはじめて顔を向ける。
その顔は、はっきりと怒りが滲んでいた。それを確認すると、ロザリンドはにっこりと、出来る限りの笑顔で返してやった。
「ええ、本当に面白いですわ。ウルフベリングの第一王子殿下が戦場で矢を受けたのも偶然なら、我が国に匿われていらっしゃったのを見つけたのも偶然で、園遊会でわたくしがセレス様をせめたのも、本日の遠乗りだって、偶然なのですもの!あなたは何一つやっていらっしゃらないのではなくって?あなたが駒になさろうとしていらっしゃる王女殿下のほうがまだ御自分で動いていらっしゃってよ?それなのに国を動かそうなんて…。もしかして神頼みがお上手なの?」
白く細い指を折って、偶然の数を数えて花のように微笑んでみせるロザリンドを、ドミヌク伯爵はふん、と心底馬鹿にした顔で笑った。
「己の置かれた状況がわからないとは愚かですね。これだからちゃらちゃらと着飾るしか脳の無い小娘は困る。まさかこれみよがしに動くわけがないでしょう?もちろん、すべて私の掌の上だったのですよ。そうですね、本日王女殿下と遠乗りにでかけてくださったのだけは、感謝しておりますよ。」
「あな、たが…!やっぱりあなたがお兄様を撃ったの!?」
床にへたりこんでいたセレスが、ドミヌク伯爵の言葉に、ガバリと涙に濡れた顔をあげて叫ぶ。
その顔を、それをさも愉快だといわんばかりの表情で、伯爵は見下ろした。
そんな彼の顔を眺めながら、人はこんなに醜い表情をできるものなのね、とロザリンドは扇子の後ろで眉をひそめる。
「ええ、この方にはなにかとお世話になりましたからね!くく、良いお顔ですねぇ。兄君の仇にこれから尻尾を振って生きねばならないなんて、お労しいことです、王女殿下。苦労して亡くなっていただいたのに、まさか生きていらっしゃったとは忌々しいものだと思いましたが、この男にそっくりなあなたのお顔がそのように醜く歪むのを拝見できるのであれば、悪いものでもあり…っ」
得意げなドミヌク伯爵の言葉は、最後まで言い切ることができなかった。
後ろから、長い足に蹴り倒されて、そのまま背中を踏まれていたからである。
何が起こったのかわからないらしい伯爵が、混乱したような顔で自分を踏みつけている物をみようと顔を起こして、目を見張った。
彼を踏みつけて笑っていたのは、先ほどまで力なく騎士に抱えられていた、銀髪の王子だったからである。