22 困ったこと
「クライム、少し困ったことになったんだが。」
夏の日差しを避けるため、薄いレースのカーテンが引かれ、少し薄暗いエランの執務室で、自らの主人が常にはない難しい顔をしてそう言うのを聞いて、部屋に入ったばかりのクライムは眉を潜めた。
今は使節団を迎え、外交上大事な時期である。
しかも、諸事情があり少々やっかいなことになっている。
そんな時に常に笑顔を崩さない自らの主人がこのような表情をするのは非常事態だ。
足早にエランの執務机まで歩を進め、一度手にしていた書類を置くと、居住まいを正して聞く姿勢を取る。
「いかがなさいましたか。」
まっすぐエランを見据え、険しい面持ちで聞くクライムに、エランは難しい顔のまま頷いた。
「最近ローザが可愛すぎてちょっと理性がぐらつき始めている。」
「……。」
クライムは、今しがた机においたばかりの書類に視線をやり、それを持ち上げてさっさとまた持ち場に戻りたい衝動をなんとか耐えた。
現在、クライムはものすごく忙しい。
通常の仕事に加えて、エランからの指示でいくつかの調査等を平行して行っている。
常であればエランも手伝ってくれるところなのであるが、さすがに国の行事を王太子であるエランに欠席させるわけにもいかず、現在主戦力はクライム一人なのである。
おかげで、昨日の夜会も出席しないで一人で仕事をしていたし、明日の園遊会も裏方で走り回ることになるだろう。
しかし先日、エランとは対話が足りていないと思っていたところである。
溜まった仕事の圧力にこのまま部屋を退室したい気持ちはおおいにあるが、長期的な目でみればここは彼の話をよく聞くべきだろう。
「…公の場で平静を保つのも殿下の仕事ですので、それは由々しき事態ですね。」
聞く姿勢を見せたクライムに、エランは少し眉を上げ、金色の瞳でこちらを見上げてきた。
その瞳が、クライムの灰色の瞳をじっと見つめたかと思うと、にやりと笑う。
「そうなのだよ。さすがに衆人の前で押し倒すわけにもいかないからね。」
「それは殿下でなくともそうですよ…。」
先ほどまでの曇った表情をすっかり隠し、ご機嫌な様子で話すエランに、クライムは嘆息した。
「それにしても、殿下はロザリンド嬢のことをお好きなわけでは無いのかと思っておりましたが、心境の変化があったのですね?」
「何を言っているんだクライム。私は最初から彼女のことが好きだと言っていただろう。」
エランに呆れたような顔で見上げられ、クライムは春先にロザリンドについて話していたエランを思い出す。
あれで恋心を察しろというほうが難しいように思う。
「…申し訳ありません。殿下のおっしゃるロザリンド嬢を好ましい理由が、あまりに淡白でしたので…。」
「まあな。クライム、お前アリィシャ嬢を好きになった時、彼女の人柄を知っていたのか?」
「……いえ、残念ながら。」
「私もそうだ。竜の血とはやっかいな物だな。一目惚れするものだから最初は相手のことが何もわからない。」
クライムが、アリィシャを好きになったのはまだ幼少の頃で、兄の婚約者として肖像画を見た時だった。
しかしアリィシャは誰が見ても美しい少女であるし、その見目で恋に落ちる者だって多いだろう。あの一目惚れが竜の血のせいなのかについては、クライムはまだ疑問に思っては居たが、今はその正誤は問題ではない。
つまり、エランはロザリンドと初対面でその輝きに一目惚れしたということか。
彼は血が濃いが故に、よりはっきりと、ロザリンドの輝きがわかったのかもしれない。
普通一目惚れとはその容姿に対してするものだが、彼はそうでは無かったのだろう。ロザリンドの容色は飛び抜けているとは思うが、エランのような男がそれだけを理由に執着するというのも現実感の無い話だ。
「しかも去年は、ローザは城壁のような笑顔を貼り付けた上で私を見たらさっさと逃げ出していたのだからな。交わした言葉も上辺だけの軽い挨拶くらいなんだぞ。あの時点で知り得た情報なんてあんなもんだ。」
「まあ…たしかに。ですがロザリンド嬢であれば、王命をつけて婚約を申し込めば頷いてくださったのでは無いですか?彼女は公私をきちんと分ける方だと思いますが…。」
ロザリンドは我儘そうな見た目をしているが、その実ウェジントン侯爵家の令嬢として、公私の分別をしっかりと持っている。
そう思ってのクライムの発言にエランはふう、とため息をついた。
「クライム。私は別に、王太子妃がほしいわけでは無いのだよ。ローザの心がほしいんだ。あんな城壁のような笑顔をこちらに向けている状態の彼女に王命なんかで婚約を突きつけてみろ。万が一受けてもらえても一生政治的なお付き合いをさせられるぞ。それにだな、軽々しく王命とか言うが、結構いただくのは難しいんだぞ。幸か不幸か国が安定しているおかげで父は良いとしても母がまったく頷かないんだからな!」
「まあ…そういうこともあるかもしれませんね。」
ロザリンドが王命による婚約をどう思うのかはクライムには計り知れないところではあるが、彼女は少々、気位が高いところがある。
たしかに王太子妃という立場を公の役目として引き受けたのなら、一生、エランの横にいることを私事のほうへ分類してくれない可能性もあるのかもしれない。
それに、エランの言う通り、竜王国は現在安定しているおかげで、王命で王太子の婚約者を指名するほどせっぱつまってはいない。王妃様はご自分が恋愛結婚だったこともあって、ご令嬢の心の伴わない婚姻には良い顔はしないだろう。
「夜会なんていう場所は彼女を口説くには一番向いていない場所だったな。私が彼女に王太子妃の立場を押し付けようとしているとでも思ったんだろう、まったく相手にしてくれなかった。王命を持たずに一年も粘ったのにだぞ。まったく恐れ入る。」
「若干、嫌がらせだと思われている節があったと思いますよ…。」
「…まあ、一般的に見て彼女に惚れる隙が無かったからな…。それについては私もわかってはいたんだが…。だからと言って遠慮していては彼女はあっという間に他の男にもっていかれるだろう。どうせ最初から嫌われているのだから嫌われついでに掃除もしておかないことには安心して口説けない。」
一年前の苦労を思ってなのか、エランが憮然とした表情で椅子の背に身を預け、組んだ手をひざにのせた。
さすがに彼にも、嫌われていることをわかった上でのロザリンドとの会話は骨が折れるものだったらしい。
「…嫌われていることがわかっていらっしゃったのなら、開華祭での告白もわざとですか?あの時は振られる要素しかなかったと思いますが。」
「まあね。まともな男の掃除も済んだし、ウルフベリングの準備もできそうだし一度距離をおいて油断していただこうと思ったんだ。しかしわかっていても振られるというのはキツイものだぞ。お前、もう少し私に優しくしてくれてもよかったんじゃないか。」
「存じております。申し訳ないのですが、あの時は私も少々、余裕がありませんでしたので…。」
「ああ、そういえばそうだったな。」
春先は、主従共に失恋状態だったことを思い出してかエランは苦笑する。
クライムも、ほぼ勝ち目が無いとわかっていながら告白をしたのだから、思惑は違えど状況はほとんど同じだったのかもしれない。
「まあ…とにかく、そういう理由であの時は少し、彼女を好きな理由に具体性を欠いていたんだ。もしかしたらそういうふわっとしたところもローザへの説得力に欠けていたのかもしれないが…。情報をくれなかったのは彼女なのだから仕方がない。」
「なるほど。では最近ロザリンド嬢が可愛らしいとおっしゃるのは、随分と情報がお揃いになったということなのですね。」
「そのとおりだ。あえて掃除しておかなかったまともではない男よりは私のほうがマシに見えたのかしらないが、一度距離をとったのが思った以上に効果があった。今回のパートナーを頼んだ時から彼女の城壁は随分崩れていたからな。おかげで攻め入り放題だぞ。その度に新しい情報が増えるもんだから恐ろしいほど可愛い!品行方正で努力家なところや、淑女としてすましている顔も良いが、そうやってかぶった仮面を私のせいで取り落とすところなんか最高だな。」
「そうですか…。私はロザリンド嬢は美しいとは思いますが…いや、一般論ですよ。睨まないでください。」
春先から比べて随分具体的になった『好ましい』理由を聞きながら、可愛いというイメージはあのご令嬢には無いな、と思ったクライムの言葉に、金色の瞳がじろりと睨んできてあわてて片手を上げて主人を制する。
普段笑顔を貼り付けて何事にも動じないように見えるエランが、こんな表情をするのだから彼が言うことは本当なのだろう。嫉妬深いところは兄弟共に同じということか。
「まあ、お前に彼女の可愛らしさを理解できたら私は側近を首にしないといけないからな。わからないなら何よりだ。しかし可愛いのは素晴らしいのだが、昨日はおかげでいささか踏み外して嗜められた。少し理性を締め直さないとまた逃げられてしまいそうで参っている。」
机にひじをつき、手に額をのせてうなるエランに、クライムはなんと言って良いものか逡巡した。
そもそも、クライムとて恋愛経験が豊富なわけでは無いし、どちらかと言えば彼は理性でブレーキをかけてしまって一歩踏み込めないタイプなのだ。
まったく逆の悩みを口にする主人へのアドバイスなど持ち合わせようはずがない。
「…外面を維持なさるのが王太子殿下の仕事でしょう。気合を入れて保っていただく他ありません。ウルベルト殿下は訓練場で発散なさっておいでのようですよ。殿下もたまには体を動かされては。」
「…まあ、それしか無いな。久しぶりに弟と手合わせでもするか…。さっさと攻め落としたいところだが、さすがにウルフベリングにも、利用させてもらった手前義理は返しておかないといけないしな。クライム、件の侍女の素性はわかったか?」
今回はあまりアドバイスのほうには期待していなかったのか、クライムのふんわりとした言葉に、特に否も無く頷いたエランは、抱えていた頭をあげて、先ほどクライムが横においた書類に目をむけた。
ようやく不得手な話題が終わりそうな予感に、クライムは内心で胸をなでおろしながらそれに頷く。
「はい。やはり殿下のおっしゃる通り、元テレミア伯爵子息とつながっていた者のようです。現在の主人については殿下の推測通りかとは思いますが、今少し、情報が不足しております。」
「テレミア伯爵は…田舎に引っ込んだのだったか?子息はまだ鉄格子の中だな。」
「そうですね…。一応テレミア伯爵領へ密偵を送りましたが、怪しい動きはありませんでした。どちらかと言えば彼等は彼女の現在の主人に利用されていたのかと思われます。」
テレミア伯爵は、以前その息子が国に禁止されている妖精の密漁に関わっていた上に、ウルベルトの想い人であるアリィシャを手にかけようとしたことから、罪に問われ、その父である伯爵は息子を絶縁した上で領地に下がっており現在王都には居ない。
そんな人物とつながっていた侍女が、王宮に潜伏しているというのは非常に不穏な事態である。
「いかがいたしますか?何か理由をつけて拘束しますか。」
「いや、いい。餌をまくにしてもそれに食いつく口が必要だ。彼女より先に他の掃除だな。引き続きそっちを頼む。あとあれだ。ロイドはなんと言っていた?」
「殿下の言葉を概ね認めました。彼もデーツ伯爵家も殿下の沙汰に従うそうです。」
「そうか。ロイドは飛ばしておいてやって正解だったな。我ながらいい仕事をした。本人にやる気があるようだし、せっかくだから取り調べにかかった費用分は働いてもらおう。」
「…セレス殿下についてはいかがいたしますか。監視を増やしますか?」
「そうだなぁ~。妹を頼むと言われているからな。愛の告白にはお答えできないが、その身の保証はしないといけないだろうな。しかし過保護すぎるのも考えものだぞ。あいつには一度構いすぎると嫌われるということを教えてやりたいね。」
「殿下のお言葉であれば、実感のこもった物になるでしょうね。」
「もちろんだ。経験談ほど、ためになるものは無いからな。」
にっこりと笑って言ったクライムの皮肉に、エランはしたり顔で頷いて見せた。