17 迷子
「クローム様!」
晩餐会での仕事も終え、そろそろ帰宅しようと王宮の廊下を歩いていたクライムの後ろで、良く通る声が響いた。
それに振り向いたのは、自分を呼ばれたからではなく、その声が竜王国にとって、大事な客人の物だったからである。
「クローム様!お待ちになって!」
もう一度誰かの名前を呼び、青銀の髪を後ろに煌めかせながら走ってくるのは、クライムが思ったとおり、ウルフベリングの第一王女、セレス=ウルイグ=ウルフベリングだった。
しかし、彼女と自分の間に、他に人はいない。
誰を呼んでいるのだろうと彼女と逆の廊下に振り返る。
そこには数名の近衛が廊下の脇に控えるのみだ。
彼等は突然廊下に響いた声に驚いたようにこちらを伺っているが、彼女に返事をしようと言う者は居ない。
もう一度、セレスのほうを振り返ると、彼女は息をきらし頬を上気させて、クライムの前で立ち止まったところだった。
「もしや私に御用でしたか?」
首をかしげてそう問えば、セレスは居住まいを正して頷いた。
「ええ。さきほどはご挨拶できませんでしたわね。ご無礼をいたしまして申し訳ありません。わたくし、セレス=ウルイグ=ウルフベリングと申します。」
「ああ、これはご丁寧に。わたしはクライム=グレインと申します。どうなさいましたセレス殿下。お部屋にお戻りだったのでは無いのですか?お連れの方はいかがなさいました?」
晩餐会ではクライムは常にエランのすぐ側に居たが、彼女が驚きの発言をしたおかげで場がごたついており、結局彼女とは個別に挨拶は出来ず仕舞いだった。
淑女の礼をするセレスに、クライムも紳士の礼で答え、もう一度彼女を見る。
さきほど晩餐会で見たドレスではなく、動きやすそうなものに着替えたらしい彼女のまわりには、護衛騎士や侍女といった供の者が見当たらない。
こんな夜中に、他国の王女が供も連れずに王宮を歩き回っているというのは常には無いことである。
何か起こったのかと心配するクライムに、セレスは眉を八の字に下げた。
「まあ…申し訳ありません。お名前を間違えておりましたわね。」
「いえ…。さきほどはご挨拶できませんでしたので…。」
どうも彼女にとってはクライムの名前を間違えて覚えていたことのほうが重大だったようだ。
何か事件などが起こったわけではなさそうだな、と考え、クライムは安堵と共に苦笑した。
「それで…私に何か御用でしょうか。何か不足でもございましたか?」
改めてクライムがそう尋ねると、セレスは少し恥ずかし気に銀色の睫毛をふせる。
そして少し間をおいてから、おずおずと切り出した。
「その…わたくし、迷ってしまったようですの。部屋まで案内してくださいません…?」
「ええ、それは構いませんが…。お供の方はいかがなさいました?」
「……。」
クライムの問いに、セレスはその銀色の髪をさらりと垂らして、気まずそうに黙り込む。
しかしその沈黙に、だいたいクライムは何が起こったのかを察した。
供をまいたのか部屋から抜け出したのかはわからないが、ようするに、この奔放な王女は単独行動をしていたのだろう。
「王宮の中とは言え、女性がこのような時間にお一人で出歩くものではありませんよ。次からは是非、どなたか供をお連れ下さい。」
ため息まじりにそう言って、近くに居た近衛にこっちへ来いと手招きする。
さすがに未婚の女性と二人っきりでは彼女に悪いだろう。
呼ばれた近衛は特に否は言わず、一つ頷くとクライムとセレスより少し離れた場所に付き従った。
「では、こちらへ。この辺は迷いやすいですからね。目印をお教えしましょう。」
そう言ってクライムが腕を差し出すと、セレスはにっこりと笑ってその腕に手をのせた。
できれば夜の単独行動について反省してもらいたいのだが、そのような様子は全くない。
「クライム様!よろしければせっかくですから、ご一緒に夜の散歩をいたしませんこと?月がこんなに綺麗なのですもの。このまままっすぐ部屋に帰るのなんてもったいないですわ。」
「それは良いですが…。皆さんご心配なさっておいででは?」
たしかに今日は月が綺麗に出ている。しかしセレスの部屋では彼女のお付きの者たちが、今頃大騒ぎしているだろう。できればすぐに彼女を送り届けたほうが良いように思える。
難色を示すクライムに、セレスは月夜の光を映した銀色の瞳をキラキラと輝かせてにっこりと微笑んだ。
「大丈夫ですわ。よくあることなんですの。」
「そうですか……。では、庭園をかこむ回廊を少しまわりますか。」
この笑顔は、見たことがある。
自らの主人が頑として考えを曲げないときの笑顔に似ている。
彼女の付き人たちの苦労を思いつつ、クライムは諦めて彼女の夜の散歩に付き合うことにして頷いた。
その様子に、セレスは嬉しそうに銀の睫毛を下げて破顔する。
謁見の間での彼女は凛として冷たい美貌をしていたが、こうして笑うと不思議と年相応の花のような可愛らしさがある。
「クライム様はお見受けしたところ、エラン殿下の側近でいらっしゃるのでしょう?もしよければ是非お話をお伺いしたいですわ。」
「まあ…。そうですね。お話できる範囲でしたら構いませんが…何をお知りになりたいのです?」
キラキラと瞬く銀色の瞳で見上げられ、クライムは少しだけ身をひいた。
たぶん、散歩をしたいと言ったのは、この話を聞きたかったからなのだろう。
随分と積極的な王女だとは思ったが、このようなチャンスも逃さないとはさすがである。
「そうですわね…。エラン様はどんな食べ物がお好きなのかしら?」
「…そうですね、あの人はなんでも食べますよ。」
「ではお好きな色は?」
「ご自分の髪の色と同じ物を良くお使いですが…。赤は竜王国の色でもありますから。お好きなのかはわかりませんね。」
「どんな女性がお好みなのかしら?」
「……ロザリンド嬢のような方では無いでしょうか。」
「…ご旅行などはお好きなのかしら。最近どちらかにお出かけにはなりました?」
「そうですね、視察などではよくお出かけになりますが、仕事ですのでお好きなのかはわかりませんね。」
「犬と猫ならどちらがお好きだと思われる?」
「…さあ、よく知りません。」
「クライム様は?」
「私ですか?私は犬のほうが好きですよ。」
「エラン様とウルベルト殿下は仲がよろしいの?」
「……まあ、悪くはないと思います。」
「…なんだかさきほどから答えが曖昧ではなくって?」
「申し訳ありません、諸事情で今少し、我が主とは付き合いが短いもので…。」
首をかしげるセレスに、クライムは肩を落とす。
正直なところ、エランは若干つかみどころが無い性格をしているので、クライムも彼について詳しくしっているというわけでは無い。
しかし側近ともなれば彼の体調や精神面も気遣うのが仕事である。
その点において、未だ自分は足りてないところがあるな、と再認識する。
気は進まないが、エランが次に話を振ってきた時にはもう少し真面目に話し合う必要があるのかもしれない。
「そうなの…。」
少ない収穫に、気を悪くした様子も無く、セレスはふーん、と頷いて見せた。
「セレス殿下は、何故エラン様をお選びになったのですか?あまり面識は無いでしょう。」
答えてもらえるとは思わなかったが、先ほど疑問に思ったことをクライムが問えば、セレスは少し眉を寄せた。
「そうね、随分と優秀な経歴をお持ちのようだし…あとは…お優しそうなところ…?かしら?」
「優しそうですか…?」
まあたしかに、エランは外面だけ見ればいつも柔和な笑顔を顔に張り付けているし、優しそうに見えなくもない。
クライムにしてみればあの笑顔が何を考えているのかわからなくてやっかいに思うのだが、セレスにはそうでも無いのだろう。
そういえばあの人、ご令嬢にはよくモテるからな…とそんなことを考える。
「クライム様は、ウルフベリングの王家や貴族に、フェンリルの血が混じっていることはご存知?」
「ええ。存じております。血が濃いほどに鮮やかな銀色の髪をなさっているそうですね。セレス殿下の髪もその血をよく現して、大変美しい銀ですね。」
不意に投げかけられた質問に、クライムは何の気は無しに頷いて答えた。
その答えに、セレスは一瞬驚いたような表情をしたが、すぐに視線を前に向けて話はじめる。
「ま、まあありがとう。そ、それで…だからね、フェンリルの血をひく者は、自分に好ましい者の匂いがわかるのよ。だからわたくし…エラン様が好きだとわかったの。」
「なるほど。」
なんとなく、きいたことがある話だ。
鼻が良いというウルフベリングの使節団の方に配慮して、今日は香水などを付けている者はいなかった。
となれば、エランの匂いもよくわかったのだろう。
しかしエランが彼女の告白に頷く可能性は万に一つも無い。
もしこの話が本当なのだとしたら、この王女は使節団来訪の最終日には失恋の傷を抱えて国に帰ることになるのである。
それは少し可哀そうな気もするが、クライムにはどうにもならない問題である。
それにウルフベリングの事情を考えると、好きだというのは建前で、政治的な理由で彼を望んでいるのだという線も十分にある。
その場合には、素直にその事情を言ったりはしないだろう。
「そういえば、セドリム公爵とは随分親しそうでいらっしゃいましたね。ご友人なのですか?」
事前情報によれば、セドリムは第二王子派の貴族である。
そして随分、セレスに気やすい空気を感じた。もし二人の仲が良いのであれば、少なくともこの王女は第二王子派との関係は良好なのだろうと思ったのだ。
「…親しくなんか無いわ。彼は私のお目付け役ね。あの人はカミルお兄様の乳兄弟だから、私のことを兄から頼まれているのでしょう。口うるさいったらないんだから。」
「カミル殿下とおっしゃいますと、ウルフベリングの王太子殿下ですね。あなたのように美しい妹君をお持ちになられると、やはり何かとご心配なのでは無いですか?」
せっかく第二王子の名前が出たので、クライムはもう一歩踏み込んで聞いてみた。
するとセレスはそれまで少し寄せていた眉を上げてクライムを見上げた後、さっと顔を伏せてしまった。
これはまずかったかな、とクライムが反省していると、いつもの明朗な声ではない、小さなつぶやきのような答えが返ってくる。
「そ、そうね。そういうこともあるかもしれないわ。」
その答えは随分と曖昧で、ウルフベリングの王太子と王女の関係を推し量るには少し情報が足りない。
ただ、彼女自信には大きな危険はなさそうだな、とクライムは思った。
一応ある程度事前情報は仕入れているが、書面で見るとと実際本人からきくのとではまた違う。
この王女の言葉はどれも素直で、王族としてはいささか心配なところはあるが、彼女が兄について話す言葉には憎しみといったものは感じられない。
どちらかと言えば年頃の娘が、あれやこれやと心配する親族に対するソレのように思えたのだ。
兄弟関係については自分にも思うところがあるため、これ以上の詮索はやめることとして、クライムは前方に見えて来た夜の庭園を指さした。
「セレス殿下、庭につきましたよ。月が出ておりますので今日は夜でも花をご覧になれるかと思います。」
クライムの言葉に、彼が指し示したほうへ視線を上げて、王女はぱっと顔を華やがせた。
王宮の庭は、社交に使われることが多いため、特殊な術を敷いて、年中花がよく咲くように出来ている。
今も、少し季節をすぎた春の花と、季節を迎えた夏の花がその美しさを月夜の光の中で競い合って咲いていた。
「日中に見る花も鮮やかなものですが、月の光の中の花というものもなかなか神秘的なものですね。」
クライムがそう言って微笑みかけると、セレスも顔を上げ、頬を染め瞳を輝かせて頷いた。
「ええ、本当に!竜王国のお庭はウルフベリングとは趣が違って面白いですわ。あの、光っている花はなんといいますの?」
セレスが指さす先には、季節を終えて、随分数が少なくなった星鈴草が花壇の端を彩ってほわほわと灯を灯していた。
星鈴草とは、竜王国の春に咲く白い小さな花で、ころんとした丸い花が鈴のように連なって咲き、夜にはそのめしべが闇夜の中で光る。
そのためにシーズンには大地にも星空が広がるような光景を作り出すのでそういう名前がついているのだ。
「あれは星鈴草ですね。ウルフベリングには咲かないのでしょうか?」
「さあ…すくなくとも城では見たことが無いわ。もしかしたら地方に行けば咲いているのかもしれないけれど…。」
王族の、特に子供たちはあまり王都から出る機会はないので、この王女も城の中以外の世界をよく知らないのだろう。
クライムも、侯爵家の子息として、小さい頃はあまり王都の外には出してもらえなかった。
竜王国でも夜に光る花というのは星鈴草以外にはあまりないので、随分と珍しいに違いない。
「星鈴草は、春の花なので今はもうシーズンを終えておりますが、春の夜に見るとそれは美しいですよ。闇の中であっても輝くことから、我が国では女性に春の社交シーズンにあの花を象った小物を贈るのは「あなたは私にとって特別な人です」という意味なのです。」
「まあ、そうなの。残念だわ。もう初夏ですものね。シーズンに見たかったですわ。」
回廊を歩きながら、星鈴草の灯かりを視線で追いセレスがため息をつく。
そして何か思いついたような表情でクライムを見上げた。
「夏にはそのような謂れのある花はありませんの?」
「そうですね…。秋には包聖火という花に似たような謂れがあるのですが…。夏には残念ですが花にはそういった謂れのある物はありませんね。花ではないですが、避暑のために、高原や湖などの涼しい場所で社交をするようになりますので、女性が身に着けていた小物を……。」
そこまで言って、クライムは己の失言に気づき口を閉じた。
夏に、女性が男性に身に着けていた小物を渡すのは、「身軽になった私を捕まえてください」と言う意味である。
本来は扇子やアクセサリー等を渡すのだが、身に着けていたもの、ということで随分拡大解釈もされており、少々下世話な話も含まれていることに思い至ったからである。
いつまでも続きを話さないクライムを、セレスが不思議そうに見上げてくる。
「申し訳ありません。少々、セレス殿下の耳に入れるには不適切な内容でした。お忘れください。」
まっすぐ見上げてくるセレスの視線がいたたまれず、クライムは自分の顔が赤くなるのを感じながら視線をそらした。
しかしその視線を追いかけるように、セレスが身を乗り出して来る。
「なに、どういうことですの?そんな途中まででは気になりますわ!」
「いえ…。本当に。あ、ほらセレス殿下。あちらの薔薇はいかがです?夏色婦人という名前の薔薇なのですよ。夏の強い日差しの中でも花の色がよく映えると言うことで…」
「薔薇よりも続きが気になりますわ。小物をどうしますの?どういう意味がありますの?」
キラキラとした瞳できいてくるセレスに、クライムは口を引き結ぶ。
ちらっとその顔を見下ろせば、少しばかり、面白がっているような気配も感じる。
これは白状するまで解放してもらえないのでは無いだろうか、とクライムが己の失態に頭を内心で抱えていたところで、前方から声がかかった。
「王女殿下!探しましたよ!」
天の助けかと声の主を見れば、それは精悍な顔に剣呑な空気を纏わせたセドリムだった。
大事な姫君を連れまわしていたことにお怒りかとヒヤッとしたが、その目はまっすぐセレスのほうを向いている。
「うわ。」
そんな視線を向けられたセレスはと言えば、さきほどまでのキラキラとした瞳から一変して、嫌そうな表情を隠しもしないで眉を寄せている。
「ハウンズ公爵。セレス殿下が道に迷っていらっしゃいましたので、今そちらに送り届けようとしていたところだったのです。少々、寄り道をしてしまい遅くなってしまいました。申し訳ありません。」
とにもかくにも、セレスの名誉のためにまずは謝罪をしておこうと腰を折ったクライムに、セドリムは首を振る。
「いえ、どうせこの人が無理を言ったのでしょう。気にしないでください。逆にご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。ほら、帰りますよ王女殿下。ここはウルフベリングでは無いのですからもう少し慎みを持ってください。」
「ちょっと!離してくださる!?私まだ散歩が終わっていませんの!」
険しい瞳をセレスにまっすぐ向けて、その細い腕をがしっと掴んだセドリムに、セレスはクライムの腕にしがみついて抵抗の姿勢を見せた。
しかしそんなことで許すつもりは無いらしく、セドリムは更にセレスの腕を引き寄せる。
「いいえその散歩はここで終わりです!だいたい迷ったとかなんなんですか、あなたがそんな…」
「いいわよ、行きましょう。ほら、さっさと歩いてちょうだい。ほほほ、ではクライム様御機嫌よう。またお話聞かせてくださいませね!」
王女の腕を払いのけるわけにもいかず、どうしたもんかとクライムが後ろに控えていた近衛と顔を見合わせていたところ、苛立たし気なセドリムの言葉にセレスがぱっとクライムの腕を離して次はセドリムの背をぎゅうぎゅうと押し始めた。
「は、はい。どうぞお気をつけて。」
そんな嵐のような様子に、一瞬我を忘れていたクライムは、慌てて居住まいを正して会釈をする。
そうして顔を上げたクライムに、セレスが閃いたような顔をしてごそごそと自分の顔の横に手を伸ばしてから、ぽん、と何かを放ってよこした。
キラキラと光の曲線を描きながら宙をこちらに向かって飛んでくる小さなソレを、クライムはなんとか手で受け止める。
それはさきほどまでセレスの耳に揺れていた、細い雫の形をした青白い石のピアスだった。
「クライム様!さきほどのお話の続き、教えていただけるまでわたくしそれを返して頂いても受け取りませんから!」
「ええっ」
とんでもないことを言うセレスに、クライムは思わず取り繕うのも忘れて声を上げてしまう。
だいたい話の筋を考えれば小物を渡す意味が男女の仲を結ぶものだという事くらいはわかるだろうに、エランに心を寄せながらクライムにそれを渡すのは随分と軽率なふるまいに思えた。
しかしさきほどのセレスの瞳には、随分と面白がるような輝きが見てとれたので、それをすべてわかった上でクライムを困らせようとしているのかもしれない。
慌ててピアスに落とした視線を上げると、もうセレスとセドリムは回廊の随分先に居て、その姿は小さくなってしまっていた。
ため息をついて、もう一度手の中の小さなピアスに目を落とす。
その青い石は、月の光に銀色にキラキラと光っており、まるで先ほどのセレスの瞳のようである。
別に、変に意識せずに表向きの意味合いだけをさらっと教えて差し上げれば問題も無いだろう。
そう考えてそのピアスが傷つかないよう、ポケットから取り出したハンカチに包み、クライムは今度こそ帰宅の途についたのである。