13 事故
王妃様より園遊会の準備の手伝いを仰せつかってより先、ロザリンドの毎日はとても充実していた。
祖母を呼び、王宮の庭の広さや植えられている花等を確認しながら、庭師の話もきいてまずはデザインを決める。
竜王国とウルフベリングの友好を表すために、両国を表す色やその意味を図書室で調べ、時にはアウランド侯爵に教えを頂いた。
デザインが決まれば飾り付けに必要な物を洗い出し、業者にお願いできるよう女官長と打ち合わせをして、当日の招待客のリストを王妃様より頂いて諸々の数を確認したり、とにかく王宮をあちらこちらへ移動しながら、いろんな人物と話が出来、様々な人と知り合うことができた。
侯爵家の夜会くらいであれば、使用人に指示を出せば必要なものはすべてそろう。
しかし王宮の物となれば国事である。
まず必要な物のリストを出して、それにかかる費用を算出し、どこの商会から購入するかも含めて関係部署に提出して許可を得て、ようやく品物を発注出来、品物が手元に届くのだ。
そんな一連の手続きも、ロザリンドにとっては大変新鮮なものだった。
どこの商会を使うのか一つとっても、なかなかにデリケートな問題である。
貴族の間柄のことに関しては詳しいロザリンドも、商会のこととなれば考えが及ばないことが多いので、父や祖母、王妃様の助言を頼ることになった。
その間、エランは一緒に朝食の席についたり、たまにお茶をしたりはしたが、無理はしていないか、何か不足は無いかを聞いてくるだけで、特に邪魔をすることもない。
時折、目があうとその金色の瞳を蜂蜜色に細めて笑いかけてくるくらいである。
「おはようございますエラン様。」
「やあおはようローザ。今日もあなたの瞳に映ることが出来る私は幸せですね。」
使節団の来訪まであと半月ほどの、しばらく降り続いた雨があがった朝。
ロザリンドは城の者たちが働きはじめた時間のエランの執務室を訪ねていた。
仕事の前のお茶をしていたらしいエランは、蜂蜜色の瞳を細めてロザリンドに返事をする。
その顔をちらりと見てから、ロザリンドは手にしていた書類を差し出した。
「園遊会の会場のセッティングについて、エラン様にもお伺いをと王妃殿下がおっしゃいましたので委細をまとめてお持ちいたしましたの。お忙しいかとは存じますけれど、ご確認くださいませ。明後日まででしたら何時でもかまいません。」
「いや、丁度クライムが今、今日の書類を集めに行っているところですので。今拝見しましょう。」
手にしていた繊細な金蝕の美しいカップをソーサーに戻し、ロザリンドの差し出す書類をスラと伸ばした手で受け取ったエランは、その書類に目を通す。
金色の瞳がすべるように書類の字を追い、行を重ねるごとにその目は細められた。
「良いですね。いくつか質問させていただいても?」
「もちろんですわ。」
瞳を上げてにこやかに問うエランに、ロザリンドは頷く。
それを確認してから、エランはまたその金色の瞳を書類へ戻した。
そこから、いくつかの質問と指摘をエランがして、それにロザリンドが答える。
本来、こういった仕事は王太子の元に来るまでに専門の者が整えているもので、軽く目を通すだけかと思ったが、思いのほか仔細にまで指摘をもらい、ロザリンドは少々感心していた。
見たところでは彼の金の瞳が軽く紙面をなぞっただけだというのに、よくすぐにこれだけのことに思い至るものだな、と思ったのである。
実際、ロザリンドも関わっている仕事だからこそ、彼の優秀さが伝聞で聞くよりもよくわかる。
しばらくそんなやりとりをした後、エランが一つ頷いた。
「よろしいです。ではクロスのところだけ直してもう一度持ってきていただければサインさせていただこうかな。」
顔を上げこちらを向くエランの視線と入れ違うように、書類を差し出す彼の長い指にアメジスト色の瞳を落として、ロザリンドは会釈をして書類を受け取った。
「そういえばたしか今日はアリィシャ嬢が後宮にいらっしゃる日でしたね。」
受け取った書類の後ろで赤い髪の毛が揺れ、エランが思い出したように言う。
先日言っていた予定より少し早いが、今日からアリィシャが後宮の部屋に入ることはロザリンドも知っていた。
ウルベルトのためにも、もう少し遅らせてもいいのではとは思ったが、彼女は彼女でいてもたってもいられなかったらしい。
「ええ、後で城を案内する予定ですの。」
「そうですか。私も午後は少し時間がありますので、ご一緒しても良いでしょうか?ウルベルトは何か言っていましたか?」
「さあ?わたくしはお聞きしておりませんわ。アリィシャがわたくしに午後に部屋に入ってから案内をしてほしいと申しておりましたので、日中はお忙しいのでは無いかしら。」
「まあ、ローザはもう私達がいなくても十分城の中を案内できるでしょうけどね。私もたまには息抜きも必要ですから。」
「ええ、ご配慮いただきありがとうございます、エラン様。」
こうやって執務室で座る彼は、優秀だという噂に違わず、真面目で、よく気が回り親切だ。
なにかと不足が無いかと気にしてくれている。
「それで、この後は何かご予定があるのですか?もしよろしければアリィシャ嬢がいらっしゃるまでそちらにお座りになって私と過ごしてくださっても…」
「まあ、残念ですわ。これからまだ少し、やらなくてはならないことがございますの。」
ただし、油断するとこうして人に化けて甘い笑顔を振りまき、口説こうとしてくる。
半月後に迫った園遊会に向けての準備に忙しいのに、執務室の横に座っているだけなんて一体なにをしろと言うのか。
こんな甘い笑顔にさらされ続けるのは耐えられない。
にっこりと微笑んでお断り申し上げると、あのうさん臭い柔和な笑顔がかえってくる。
ロザリンドはその長い睫毛をそっと伏せ、さきほど内心で褒めたのを謹んで訂正した。
「おや、ロザリンド嬢がおいででしたか。おはようございます。」
後ろから声がかかり、振り返ると書類を集めて戻ってきたらしいクライムが丁度扉から入ってきたところだった。
「おはようございます、グレイン子爵。」
「クライム、少し気を遣え。今二人っきりだっただろう?」
「…それは無粋なことをいたしました。申し訳ありません。本日の書類をお持ちしましたのでご確認ください。」
ロザリンドの後ろにはずっとベリンダが控えていたので、二人っきりでは無かった。
しかしそれに反論すると面倒だということを知っているのかクライムは素直に謝罪をすると、さっさとその手に持っていた書類をエランの前に置く。
エランも本気で言っていたわけでは無いのか、頬杖をつき、その書類にまた金色の視線を落として文字を追い始めた。
そして少しもしないうちに、書類の横に置かれていた彼の髪と同じ色の万年筆を持ち上げると、サラサラと書類に何かを書き込んで机の横へ避け、また次の書類を手にする。
書類を見つめる金色の瞳は真摯で、文字を綴る手には迷いが無い。
随分と多く積まれているように見えた書類が、一枚、また一枚と未済の山から消えていく。
スラスラと文字を追う金の瞳の上に伏せられた赤いまつ毛は、やはり男にしておくには勿体無い程長いのに、謹直な視線の動きに合わせてそれが揺れる様はなんだか凛々しくさえ見える。
不意に、書類の上をなぞっていた金色の瞳があげられ、ロザリンドのアメジストの瞳と交差した。
そしてその瞳が、朝の挨拶を交わした時と同じ、蜂蜜色に蕩けて細められる。
「お座りになりますか?」
「…いえ、これから王妃殿下の元に伺いますので。わたくしこれで失礼いたします。書類の確認をいただき、どうもありがとうございました。」
しばし見つめてしまっていたことに気づき、ロザリンドはにっこりと微笑むと、礼をして足早にエランの執務室を出た。
〇・〇・〇・〇・〇
「思いの外、似合うものですね。」
エランの執務室で、クライムは目の前でムスッと不機嫌さを隠さない表情をしている青年を見下ろした。
彼が着ているのは近衛の制服である。詰め襟で後ろの裾は燕の尾の形をした真っ白な上着に、赤と金糸のラインが入り、その横を金のボタンが二列にズラリと並ぶ。そこへ金の飾緒が胸を飾り、動きにあわせて揺れている。
腕には金糸で竜の紋章が縫い取られ、深い藍色のズボンは線がほそい。
大柄な騎士が多い中で、スラリとして見えるよう、近衛の制服は胴や腕の横にラインが入っている。
そのため細身な彼はさらにヒョロリと見えてしまうのでは無いかと思っていたのだが、どうやら取り越し苦労だったようである。
「女性用の物を出すことになるかと思いましたが、ルミール殿に合うサイズがあってなによりです。まあ少し詰めることにはなりましたが…。」
「お前さっきからちょっと言い方に含みが無いか!?たしかに僕は細いけど、背丈は別に低いわけじゃないからな!」
威嚇する小動物のように文句を言うルミールを見下ろしながら、クライムは肩をすくめた。
「すみません。本当に心配していたので。」
ルミールはたしかに身長は低いわけではない。かといって高くもない。平均的だと言えるだろう。
それでも彼が小柄に見えてしまうのは、その体の線がやたらと細いせいである。
今回も、ルミールは一週間程前から近衛に編入して王宮を歩きまわっていたのだが、縦はともかくとして横の幅に合うものが無く、急遽、お針子にサイズを直してもらっていたために今日まで彼に制服が支給されなかったのである。
少しであれば問題ないのだが、大きく幅を詰めるとなると、デザインがいびつになってしまうのではとクライムは心配していたのだが、思いの外お針子が良い仕事をしたらしく、近衛の制服を着た彼に違和感は無かった。
これなら他の騎士の横に立っていても浮いたりはしないだろう。
「いやぁ、本当、孫にも衣装ってやつだなあ。」
「とってもお似合いだわお兄様!見違えたもの!」
クライムの横で、ルミールと同じ制服を着たベリンダと、先ほど王宮に到着し、エランに挨拶を終えたアリィシャが感心したように言う。
元々アリィシャによく似ており、外見の性別が問題なだけで顔はいいルミールは近衛の華やかな制服はよく似合っていた。
「こうして並ぶと、女性騎士二人にしか見えませんわね。後宮でのお仕事ですし華やかでよろしいんじゃありませんこと?」
「言われると思ったよ!」
クライムがあえて言わなかったことをさらっと言ったロザリンドに、ルミールはうぅぅ…と唸って手で目を覆う。
とは言え、王立騎士団の制服であっても彼は女性騎士に見えるのでそれは近衛の制服のせいでは無い。
クライムが言えば血を見たかもしれないが、女性に手をあげないのはさすが騎士だな、と感心する。
「ははは、似合うのだからなによりではないか。さあ、騎士の支度もできましたし、いきますか姫君がた?」
後ろで愉快げに見守っていたエランが、執務机から立ち上がった。
丁度、エランのところにアリィシャが挨拶に来たところで、ルミールの制服が仕上がったからと隣室で着替えさせたところだったのである。
ルミールが着替えている間にロザリンドも呼ばれてきており、あとは出かけるのみだった。
今日はすでに、エランの仕事は終わっている。あとは夜に予定されている晩餐会までの間は彼は自由だ。
「16時頃にお戻りで無い場合には迎えをやります。双子石はお持ちですか?」
双子石とは、一方が拾った音を、もう一方に伝えて鳴る珍しい石である。
純度が高い程その伝える距離が長く、価値が高くなる。
ただし任意でその力をオン・オフにはできないので、基本音を拾いっぱなしで再生しっぱなしなのだが、エランのように、休憩中に急に仕事が入るような人物との連絡を取るには大変便利な代物だ。
「ああ、持っている。クライム、お前は来ないのか?」
「魅力的なお誘いなのですが…私は明日からの書類を整理しておきたいと思います。どうぞ楽しんでいらしてください。」
一応エランは誘ってはくれているが、この一団についていったら両王子に睨まれて大変なことになりそうである。
ただでさえ、先ほど執務室を覗いて見たウルベルトは今日の予定が空けられなくて不機嫌そうだった。
ここはおとなしく仕事をしているほうが良いだろう、とクライムは嘆息する。
「お前は本当にまっすぐだな。」
「殿下、それ以上言うと明日からの予定に謁見を詰め込みますよ。」
「うむ、では行ってこよう。側近が成長したようで何よりだ!」
クライムがじろりと睨むと、本気なんだかどうなのかわからない笑いを残し、エランはアリィシャとロザリンドにそれぞれの騎士を従えて執務室を後にしていった。
〇・〇・〇・〇・〇
エランの執務室からはじまった王宮案内は、軽く執務スペースをさらってから、社交スペースを重点的にまわる。
特に、当日の夜会の会場や園遊会に使う庭とそのまわりの部屋や道筋について、エランがロザリンドの時と同じように、目印などを指し示しながら丁寧に案内した。
「わたくし、王宮には何度か参じておりますけれど、このように調度品に意味があったとは知りませんでしたわ。」
「意味があるもの半分、目立つから目印に使われているものが半分といったところですね。あ、ほらご覧ください。あそこが先ほど入った入り口ですよ。これで一回りです。この辺は迷いやすいので、外の景色も合わせてご覧になると良いですよ。」
大きな広間をぐるりとまわり、入った場所に戻ってきたところでエランは足を止める。
「さて、歩いてお疲れでは無いですか?先日冷却魔術の範囲が中庭全体まで広がったという報告がありましたので、よければ東屋ででも休みましょう。何か冷たいものでも持ってこさせます。」
「まあ、わたくし冷却魔術が敷かれた場所に入るのは初めてですわ!」
未知の技術に、アリィシャが瞳を輝かせる。
その様子に、エランが柔和な笑みを向け、どうぞこちらへと案内した。
ロザリンドはそんな二人の横を、今日は黙ってついて歩いた。
王宮の道はほとんどエランが案内してくれたので、ロザリンドの出る幕はあまりなさそうである。
ロザリンドはこれ幸いと、久しぶりに雨のあがった庭を眺めながらの静かな散歩を楽しんでいた。
「どうです?道は覚えられそうですか?」
ホール横の回廊を歩きながら、エランがアリィシャに向かって赤い髪を揺らして聞く。
それにアリィシャは少し首をかしげてからうなずいた。
「ええ、ありがとうございます。目印をたくさん教えていただいたので、まだ完全とは申しませんが随分道がわかったように思いますわ。夜会などで伺っておりました場所がこのようにつながっていたのかと興味深かったです。」
「それは何よりです。当日はウルフベリングの方を案内することもあるかと思いますので。どうぞよく覚えておいてください。」
「はい。努力いたします…!」
にっこりと柔和に笑まれたエランの表情に、アリィシャは少しかしこまってうなずく。
その様子を微笑ましげに見ていた金色の瞳が、ついっとロザリンドのほうへ向いた。
二人の様子をぼんやりと見ていたロザリンドは、急にこちらに向いたその視線に、姿勢を正しさっと扇子で口元を隠して淑女の笑顔を顔に貼り付けた。
「ローザ、あなたはいかがでしたか?初日はあまり案内ができませんでしたので…。とは言え、あなたにはもうよく知った道ですね。」
「ええ、でも新しい発見もありましたわ。エラン様は説明がお上手でいらっしゃいますわね。」
にこやかに問うエランの横で、呼び名に少し驚いたのか、アリィシャが空色の瞳を丸くした。
慣れたと思ったが、こうやって親しい人の前で呼び合うのは若干まだ気恥ずかしいものだな、とロザリンドは思いながら、視線を進行方向へ逃した。
「あなたにそう評していただくと、嬉しいものですね。さて、つきましたよ。ここが中庭ですね。東屋はあちらに。」
視界の端で、ロザリンドの言葉に嬉しそうに微笑んでから、エランは中庭の東屋を優雅な動きで指し示し、回廊から中庭に出る小階段の前に立ち止まった。
その横を抜け、アリィシャがウキウキとした足取りで一足はやく庭に降りる。
「まあ、本当。少しひんやりしますわ。でもすごく冷えているわけではありませんのね。」
「ええ、あまり冷やすと最初はいいですが、すぐ寒くなってしまいますからね、それに…」
まわりの温度を確かめるようにあたりを見渡すアリィシャを、ロザリンドが立ち止まって眺めていたところ、横から聞こえていたエランの説明が、ふいに途切れた。
不思議に思い、何かあったのかとロザリンドがエランのほうへ振り向くより早く、何か温かく柔らかい感触が自分の頭に押し当てられる衝撃と共に、ロザリンドの視界が暗転する。
「えっ」
「危ない!」
ロザリンドが驚きに小さく声を上げたのと同時に、少し離れたところで、ベリンダの鋭い声が飛んだかと思うと、カン!ガシャン!と何か甲高い音が回廊に響いた。
しかしそれが何なのか、視界を塞がれたロザリンドには確認が出来なかった。
一体何故自分の視界がいきなり暗くなったのか、答えを探すロザリンドの耳に、自分の物では無い心音が聞こえる。
頭に回された温かい感触が、人の腕だと気づいて、聞こえる心音と共にロザリンドの鼓動が速くなった。
その時間は長いように感じたが、実際はごく短い間だったのだろう。
すっと光がさして、暗闇から開放され、頬にあたっていた温もりが去っていく。
見上げるとそこには鮮やかな赤い髪の毛を揺らし、金色の瞳がロザリンドの頭のすぐ上でこちらを優しく見下ろしていた。
「よかった、何もあたりませんでしたか?」
ロザリンドの頭にかかっていたらしいエランの赤い髪の毛が、彼が離れるごとにするりとすべって頬をくすぐる。
そのむこうで、顔の横を通って降ろされたエランの手が視界の端を横切り、彼の腕が自分の頭を抱え込んでいたということに思い至ったロザリンドは、羞恥で顔が熱くなるのを感じて思わず一歩下がった。
その横で、ベリンダの得意げな声が聞こえる。
「ははは、ルミール。一歩遅かったな。コンパスの差か?」
「背丈はそんなに変わらないでしょう!」
視線だけそちらに向けて見ると、回廊の真ん中で騎士二人がやいやい言いながらホール横へ足を向けている。
その足が向かう先の床に何か赤いものが砕けて飛び散っていた。
ベリンダがその前にかがんで欠片をひとつ拾い、ヘーゼルの瞳でまじまじとそれを観察する。
「殿下、どうやら屋根の瓦のようですよ。ここ最近の長雨でゆるんだんでしょうか?」
こちらを振り向き手にもった欠片を見えるようにひらひらと振りながら、ベリンダがエランに報告した。
どうやら、ロザリンドたちの頭上に落ちてきたその瓦を、ベリンダが剣ではたき落としたらしい。
そしてその瓦から、ロザリンドを守るために、エランが彼女を自分の胸にとっさにかばったのだ。
「うーん、どうだろうね。どちらにしろ危ないことこの上ないな。明日にでも点検をさせるか。使節団が来ている時ではなくてなによりだったな。」
少し困ったような柔らかいエランの声がすぐ上から聞こえて、呆然としていたロザリンドははっと我に帰った。
見上げると、彼はいつもどおりの柔和な笑みを浮かべてベリンダのほうを見ている。
「エラン様!王太子ともあろう方が安易に身を危険に晒されてはいけませんわ!」
王太子が、臣下をかばって怪我などしたら一大事である。
今回はベリンダが対応したから問題がなかったが、万が一そのまま瓦が落ちてきていたら、彼は大怪我をしていたかもしれない。
震える手を握り込みながら叫んだロザリンドの声に、エランはこちらに向き直って、金の視線をロザリンドのアメジスト色の視線に落としてきょとん、とした顔をする。
未だ距離が近いので少し離れてほしい。
「とは言え、あなたを矢の雨の中でも守ると申し上げましたからね。私は約束を守る男ですよ?」
今回は瓦だったみたいですけどね、とそう言って、蜂蜜色に瞳が溶けて柔らかく細められ、鮮やかな赤い髪が彼の肩をすべる。
その甘い笑顔に押されて、思わず視線をそらしそうになるのをロザリンドはぐっと耐えた。
たしかに守れと言ったのは自分であるが、王太子が身の危険を顧みないのは非常によろしくない。
「あれは言葉の綾というもので……いいえ、わたくしの失言でしたわ。申し訳ございません。エラン様の身とこの身では重さというものが違います。あなたの身に何かあれば国にとっての損失だということを自覚してくださいませ。」
後ろに下がりたいのを我慢して背筋を伸ばし、まっすぐにエランを見つめてそう諭すロザリンドの言葉を、エランは甘い微笑みのまま聞いている。
そしてふふっとその口から小さく笑い声が漏れて、ロザリンドはエランの顔をキリリと睨んだ。
「わたくしは真面目な話をしているのです!」
「いや、失礼。困りましたね、あなたを守る名誉を放棄するのは私には難しい問題です。……そうですね、では次はあなたを不安にさせないよう、もっと上手くやりますよ。だからそれで許していただけませんか?」
ね?と可愛く首をかしげるエランを、ロザリンドはしばし無言で見つめた。
この件に関しては臣下として譲れない問題であるが、かといって、目の前のエランにはこんな甘い微笑みを浮かべていながら、ここでいくら言葉を重ねてもガンとして頷かなそうな気配を感じる。
しばし逡巡した後、扇子の後ろで、ふう、と重い息を吐き、ロザリンドは頷いた。
「……そうですわね、どうぞわたくしを心配させないよう、その身を大事になさってくださいませ。」
このくらいが落とし所であろうか。
ここ最近同じ屋根の下で暮らして、この王太子は馬鹿な男では無いということはロザリンドにもわかっている。
いざとなれば、ちゃんとわきまえて行動してくれることを願うしかない。
「ええ。わかりました。不安にさせてしまい申し訳ありません。さ!それでは気を取り直して庭へ出ますか?」
ロザリンドの言葉に、キラキラと輝く星が散るような嬉しそうな笑顔で頷いたエランが、庭を指す。
そこには、胸の前で手を組んで、少し頬を染めてこちらの成り行きを見守っていたらしいアリィシャが淡い空色の瞳を見開いて立っていた。
彼女はエランたちの視線が庭に向いたのを見て、どうやら我に帰ったらしく、こちらへ足早に寄ってくる。
「ローザ、怪我はなかったのね?本当、よかったわ。」
淡い金色の髪の毛を揺らして、心配げに手を握ってくる親友に、大丈夫だと微笑んでロザリンドは頷いた。
その横を、エランが何事もなかったかのように小階段を降りていく。
その姿に言い忘れていた言葉があったことを思い至り、ロザリンドは彼を呼び止めた。
「エラン様、お待ちになって!」
「はい、なんでしょうか?」
赤い髪を揺らし、柔和な微笑みを浮かべてこちらに振り向くエランに、ロザリンドは扇子の後ろに顔を隠し、眉をよせ、ぎりり、と歯をくいしばって睫毛を伏せた。
「先ほどは…かばっていただいて……感謝しておりますわ!」
「……ふふっ、あなたがご無事でなによりでした。」
王太子が危険を顧みないのは問題だが、彼が身を挺して自分を守ってくれたことは確かな事実なのだ。暗闇から開放されて見上げた彼の瞳に嘘はなく、狸では無く人のものだった。
吐き捨てるようなそのセリフは、とてもお礼を言う態度では無いと自分でもわかっている。
しかしさきほど頬に感じた温かさがまだ残っているように思えて、己の顔がどのような表情をしているのかと思うと、ロザリンドはエランの金色の瞳を見ることがどうしても出来なかった。
その後もずっと視線を下におろして居たために、エランがどんな表情で返事をしたのか、ロザリンドにはわからなかった。