11 朝食
後宮に入って初めての朝、いつもと違う天井にロザリンドは一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。
すでに起きだしていたらしい侍女が、ロザリンドが起きたことを確認して、窓にかかった薔薇色のカーテンを引くと、そのむこうから初夏の日差しが差し込んでくる。
大きな天蓋付きのベッドには、清楚なレースが下がっており、朝日を優しくロザリンドの元まで届けた。
あまり派手では無いながら、少女らしいその部屋は王妃様自らが調度品を選んでいれてくださったらしい。
普段からシンプルなドレスを好んで着られる王妃様らしいその部屋に、ようやくロザリンドは今自分がどこにいるのかを思い出した。
「寝すぎてしまったかしら…アネッサ、今何時?」
「まだ7時をすぎたところですわお嬢様。」
さすが王宮のものだけあって、ベッドのマットが心地よくてつい深く眠ってしまった気がしたロザリンドに、家からついてきてくれた侍女は首をふって朝のコーヒーをお盆に載せて差し出してくる。
お礼を言って受け取ると、昨日それぞれ自己紹介してくれた王宮の侍女たちが、ドレスのかかったハンガーラックをひいてくる。
髪の毛を肩で切りそろえているのがエリス、三つ編みにしているのがドロシー、結い上げているのがクレアだったわね、とロザリンドは昨日覚えたばかりの彼女たちの名前を心中で確認する。
「お嬢様、本日のお召し物はいかがなさいますか?」
「そのすみれ色のにしてくださる?装飾品はそんなにいらないわ。今日は城の中を歩こうと思っているからあまり多いと邪魔ですもの。」
そう指示すると、彼女たちは頭を下げ、すみれ色のドレスを取りソファの上にきれいに置くと、ハンガーラックを片付けてドレスに合わせた装飾品を取りに戻る。
その間に、ロザリンドはアネッサが淹れてくれたコーヒーを飲む。
とりあえず今日は、王宮で迷わないよう、歩ける場所は歩いておく予定である。
昨日ウルベルトにお願いしたところ、行ける場所はすべて歩けるように手配しておくと言ってくれていたので、護衛騎士が案内してくれるだろう。
王妃様がお茶の時間はご一緒しましょうと言ってくださっていたので、それまではしばらく時間があるはずだ。
コーヒーを飲み終えてベッドから出ると、侍女たちが身支度を手伝ってくれる。
ドレスを着つけて黒い巻き毛を丁寧にブローして縦ロールに整え、普段どおりの化粧をすれば、そこにはもう立派な令嬢が鏡の前に出来上がっていた。
「ありがとう。朝食はどちらに向かえばよろしいのかしら?」
「はい、本日は王太子殿下より朝食をご一緒にと言づてを頂いております。いかがなさいますか?」
王宮には食堂がいくつかあるので、そのどれに向かえばいいのかというロザリンドの質問に、クレアが姿勢を崩さず告げる。
「まあ殿下が?」
あのうさん臭い笑顔を朝から見るのか…と若干憂鬱な気持ちになったが、別に断るほどでもない。
もしかしたら連絡事項があるのかもしれないと考えて、ロザリンドは頷いた。
「よろしいですわ。では案内してくださる?」
「はい、どうぞこちらへ。」
クレアに促されて立ち上がり、部屋を出る。
ドアの前で警備していたらしい騎士が、そのままその後ろに付き従った。
ロザリンドは官職に勤めているわけでは無いので、あまり王宮内を歩き回ったことはない。
特に後宮のような奥深くであればなおさらである。
朝早くの、まだあまり人通りのすくない王宮の廊下を新鮮に思いながらクレアの後ろについていくと、ほどなくして落ち着いた調度品が置かれた食堂に到着した。
たぶん、客人を招くためのものではなく、王族が個人的に使用するためのものなのだろう。
そこまで大きくない部屋に設置されたダイニングテーブルの中頃に、すでに赤い髪の王太子が優雅に座りお茶を飲んでいた。
ロザリンドが部屋に入ると彼はこちらに視線を向け、にっこりとほほ笑む。
「おはようございます、ロザリンド嬢。朝からあなたのお顔を拝見できるとは本当に良いものですね。」
まだ朝だからなのか、ゆったりとしたブラウスにベストを着崩し、細めのズボンを着た彼は、普段の隙が無い様子とは異なり、随分リラックスして見える。
そんな様子にロザリンドは目を瞬かせ、礼をした。
「おはようございます殿下。本日は良いお日柄ですわね。」
エランの自分への賛辞はまるっと無視したロザリンドの挨拶を気にした様子もなく、エランはいつもの柔和な笑みを浮かべると、彼女に向かいの席を勧めた。
「本当に、良い天気ですね。このような日は庭が美しいので是非ご覧になってください。本日はどのようなご予定でいらっしゃるのですか?」
ロザリンドが座ったのを確認してから自分も席につき、王太子がにっこりと微笑みながら訪ねる。
「はい、本日はまず王宮の中を歩いてみようと思っておりますの。これから先、迷ってはご迷惑をおかけしますもの。」
「おや、そうなのですか。私は午前の執務まで少し時間がありますので、この後少しご一緒しても良いでしょうか?」
「……ええ、もちろんですわ。」
朝食と同じく、若干邪魔くさいが、断るほどでもない。
ロザリンドは目の前に置かれた朝食のバゲットをちぎりながら、一瞬間をおいて頷いた。
その様子を、エランは楽しそうに見つめている。
もしかして煙たがっているのを知っていて面白がっているのかもしれない。
「そういえば、昨日はベルトの執務室にしばらくいらっしゃったらしいですね?」
「ええ。アリィシャがダンスの練習をしておりましたので、見学させていただきましたの。」
昨日はあの後、夕方くらいまでアリィシャとウルベルトの執務室にいた。
アリィシャがくたくたになってきて、そろそろ引き上げようか、という頃にウルベルトの仕事が一段落して、アリィシャをダンスに誘ったので、二人きりにしてやろうとそのまま部屋を辞してきたのである。
まあ、二人きりとはいえ、もちろん、ルミールも侍従もいるのだが。
キースリンドはロザリンドを後宮の部屋までおくってくれた。
彼には珍しく、「何かあれば頼るように」という、心配の言葉付きである。
「釣れないですね。私も誘ってくださればよかったのに。」
「あら、殿下はお仕事がおありでしょう?」
少しすねたような響きに顔をあげると、やはりそこには柔和な笑顔がある。
ロザリンドは息を吐いて、肩をすくめた。
「ええ。でもあなたが横に居てくだされば随分仕事が進むと思いますよ。」
「あら、ウルベルト殿下はアリィシャに見とれて度々手が止まっていらっしゃいましたわよ。」
「ふふ、あの子は机仕事が嫌いですからね。」
たしかに、ウルベルトはエランの言うとおり、あまり机仕事には向いていない。
彼は見た目通り、頭脳労働よりも体を動かすほうが性にあっているのだ。
とはいえ、第二王子で、近衛団長ともなれば、机仕事からは逃れられない運命なのがすこしかわいそうではある。
「殿下は、机仕事はお好きなんですの?」
「まあ、私はどうも王族という仕事が性に合っているようですのでね。弟よりはマシだと思いますよ。」
言われて、ロザリンドは顔をあげてエランをまじまじと見る。
たしかに、彼は王太子らしい王太子だ。
ウルベルトほど体格はよくないが、そのかわりスラリとしていて、スタイルがよく、いかにも王子様といった見た目である。
夜会でばかり会っていたので仕事をしているところを見かけたことはあまり多くは無いが、随分と優秀だということは、伝聞でロザリンドも知っていた。
ロザリンドの視線に気づいたように、エランが金色の視線を皿から上げてこちらを見る。
その瞳が、また蜂蜜色に輝いたような気がして、ロザリンドは眉を上げた。
「ところで、本日朝食をご一緒させていただいたのは、一つお願い事をさせていただこうと思ったからなのですよ。」
ロザリンドに瞳を向けたままにっこりと微笑んで、エランが話を切り出す。
朝食に呼ばれたのは、やはり何か用事があったのか、とロザリンドは姿勢を正し、素直に頷いて聞く姿勢をとった。
そんなロザリンドに、エランはにこ、と笑い、可愛らしく首をかしげてみせる。
「本日から使節団がお帰りになるまでの間、どうぞ私のことはエランとお呼びください。」
「まだ寝ぼけていらっしゃいますの殿下。」
無駄に可愛らしいその仕草と、ふざけた内容に、真面目に話を聞くつもりだったロザリンドは思わず取り繕うのも忘れて切り捨ててしまった。
「大丈夫です、これでも目覚めは良いほうなんですよ。」
「花は頭の上に咲かせるものでは無いと申し上げたと思いましたけれど?」
気にした様子もなく、胸に手をあて誇らし気に言うエランに、ロザリンドはなんとか笑顔の仮面をかぶりなおしてにっこり微笑んだが、口のほうはまだ取り繕えなかった。
その様子に、エランがふふふ、と笑う。
「すみません、あなたが可愛らしいので思わず遊んでしまいました。」
言われなれない言葉に、ロザリンドは出かかっていた文句を喉につまらせた。
普段から散々美しいとは言われるが、可愛らしいとは言われたためしがない。
しかも今のエランは蜂蜜色に蕩けた瞳でさも愛しい、といわんばかりの表情で、いつもの胡散臭い笑顔ではない。
普段のあの柔和な笑顔であれば、またバッサリと切ることができたのに。
「もちろん考えがあってのことです。今回あなたは私の露払いをしてくださるのでしょう。他人行儀な恋人同士ではとてもその役目は果たせませんよ。」
エランがその表情のまま、お願いの意図の説明をする。
しかしロザリンドはその内容を聞いてはいたが、頭では違うことを考えていた。
~この表情はどういう意味なのかしら
夜会という舞台ではなく、居住空間という舞台裏が、ロザリンドからもエランからも仮面をはぎ取っていくようで、なんだか急に心もとない気分になる。
彼が言う通り、エランはまた、ロザリンドをからかって遊ぼうとしているのだろうか?こんな表情で?この表情も演技なのだとしたら、狸も人に化けるのが随分上手くなったものだ。
答えられずにいるロザリンドに、エランは先ほどとは逆のほうへ首をかしげた。
「問題があるでしょうか?」
「い、いえ…。」
うっかり違うことを考えてしまったことに内心自分を叱責しながら、さきほどのエランの言葉を吟味する。
たしかに、第一王女からの縁談を避けるのに、いかにもとりあえず横にいるという体のパートナーでは力不足だろう。
ただでさえロザリンドと王女様では身分に差があるのである。
その差を埋めるにはエランと仲睦まじい様子を見せる必要があるように思われた。
「弟とアリィシャ嬢は問題ないと思うのですが、私達はそうはいきませんからね。せっかく早めにお越しいただいたのですし、今から呼んで慣れておけば、当日には立派な恋人同士に見えますよ。」
答えずにいるロザリンドに、いつもの柔和な笑顔を顔に戻してエランはさらに説明を重ねる。
その様子に幾分か冷静さを取り戻したロザリンドは頷いた。
「そうですわね、殿下のお名前をわたくしなどがお呼びするのは不敬かと存じますけれど、そういうことでしたらお許しいただけますかしら。」
「ええ、勿論です。あなたに呼んで頂くのに、私の名など安いばかりですよ。」
「ありがとうございます。ではそのようにいたしますわ、殿下。」
「エランです。私もあなたのことをローザとお呼びしても?」
「…ええ、もちろんですわ。」
呼び名一つなのになんだかものすごく恥ずかしい。
そしてなんだかものすごく悔しい。
ロザリンドは思わず手にしたバゲットをぎりっと握りこんでしまい、せっかくのふわふわなバゲットがつぶれてしまった。
〇・〇・〇・〇・〇
朝食が済んだ後、約束通り、エランはロザリンドと共に食堂を出た。
「もしよろしければ少し私がご案内しますよ。」
そう言って、エランが優雅に腕を差し出してくる。
なんだかあまり今は彼の近くに居たくないのだが、最初に了承してしまったのは自分であるし、紳士淑女が共に歩くのにエスコートをしていただくのは当然だろう。
仕方なくロザリンドはその腕に控え目に手をのせた。
「よろしくお願いいたします。」
そう言って、エランの顔も見ずに前方へ瞳を向ける。
その先には長い廊下と、起きだして働く王宮の人々。
「では、とりあえず迷いやすい場所をお教えしましょう。どうぞこちらへ。」
またからかわれるのでは無いかと警戒したが、思いの他真面目に、ロザリンドの本日の目的を汲んだ場所へ案内しようとエランが動く。
いくつか曲がり角を曲がりながら、エランは説明を交えて案内をしてくれた。
「ここは丁度王族の居住空間と、執務を行う公共の場との境目ですね。絨毯の色を見てください。ここから臙脂色から赤になっているでしょう。父と母の専用スペースに入ると更にその縁に文様が入ります。それぞれ前に近衛が立っていますから大丈夫だとは思いますが今どこにいるのかわからなくなったら絨毯を見ると面白いですよ。階によっても模様が違いますので。」
「なるほど、こちらの絨毯はミラン地方のものですわね?」
「ええ、良い色でしょう。我が国にこのような技術があることは喜ばしいものですね。」
見事な色の絨毯を感心して見つめるロザリンドに、エランはにこりと笑ってまた歩きはじめる。
そして次は回廊を超えた先の分かれ道で立ち止まった。
「ここから、右が主に文官たちが集まる政務区画、左は中庭をはさんでその先にお客様たちの貴賓室や迎賓館、そして拝華の間や大ホールといったいわゆる社交スペースですね。政務区画には私達の執務室などもありますが、ローザが多く足を向けることになるのはこちらの社交スペースでしょう。左右に絵がかかっているでしょう?本を持った男性が政務区画、花を持ったご婦人が社交スペースへの道ですよ。」
エランが指し示した場所には、たしかに少し大きめの肖像画が飾られている。
見上げれば、それはよく歴史書などで見る顔だった。
「賢竜王のエルランド様と竜の宝玉サファイア王妃ですわね。」
「そうです。それぞれの区画にあった先人の肖像画というわけですね。どちらも彼等のようにあれといったところでしょうか?」
エルランド王は竜王国の法の礎を築いたとされる古の王である。
その時はまだ幻獣が闊歩するばかりだった竜王国の大地に道を引き、治水を整え法を整備した賢王として、子供にきかせる寝物語などでもよく登場する。
王族の名前にエから始まる名前が多いのは彼にあやかってのことである。
対するサファイア妃は時の王が望んで遠国より嫁いできた王妃で、竜王国に華やかな社交の文化を根付かせたという伝説がある。
社交の教本にはよく名前が登場する人物だ。
この二人の肖像があれば、たしかにどちらに行くべきか悩む必要は無いだろう。
また邪魔でもしてくるのかと思ったが、先ほどからエランはロザリンドが迷わないよう、道しるべになるものを説明しながら丁寧に案内をしてくれている。今日のロザリンドの目的を思っての配慮だろう。
ダンスの練習の時と同じく、どうも真面目に、ロザリンドを手助けしようとしてくれているようだ。
それを有難く思いながら、彼の顔をのぞき見れば、そこにはいつもの胡散臭い笑顔では無く、優し気な金色の瞳が肖像画を眺めているのが見て取れた。
胡散臭い笑顔の時はいかがかと思うが、こうやって真面目にしていると王太子然とした彼は大変凛々しい。
去年はこんな表情を見たことは無かったわね、とロザリンドは思う。
とはいえ、夜会では彼を追い払うのに注力しており、顔もろくに見ていなかったのだから、もしかしたらロザリンドが見ていなかっただけなのかもしれない。
「殿下、おはようございます。こちらにおられましたか。」
ロザリンドがエランの横顔を見上げていたところ、エルランド王の肖像画がかかった廊下のほうから声がかかった。
そちらに目を向ければ、長身で金髪の男性が、黒い豊かな髪を結ってまとめた近衛服を着た女性を従えてこちらへ向かってきている。
男性のほうは、見慣れた顔なので誰なのかはすぐに知れた。
エランの側近の、クライムである。相変わらず、美しい姿勢で歩く彼は王宮の中にあってもその品位の高さが見て取れる。
仕事の話の気配に、ここからは一人で回ることになるかしら、とロザリンドは口にあてた扇子の後ろで考えた。
「なんだいクライム、今はデートの途中だよ?」
エランがクライムに向き、少し不満げに言う。
しかしクライムはそれには気にした様子もなく、前まで来てロザリンドに会釈をしてから話はじめた。
「本日より、ベリンダ=グレネイル近衛騎士が任官いたしましたのでお連れいたしました。お二人ご一緒でなによりです。」
クライムの言葉に、不満そうだったエランの顔がぱっと明るくなった。
そしてその目を、クライムの後ろの女性へ向けて嬉しそうに細める
~あらあら
もしかして殿下はこの近衛の女性がお好きなのかしら、と彼女の顔をまじまじと見つめる。
そんなロザリンドの横を抜け、エランは女性騎士の横に歩み寄った。
「ようやく戻ってきたのか!なによりだな。諸国漫遊の旅はどうだった?何か面白いことなどあったかい?」
「お久しぶりです殿下、長きに渡っての休職大変申し訳ありませんでした!旅は大変有意義なものでしたので、後で報告書にまとめて提出させていただきます。」
「それはいいね!フェリンド伯にでも渡しておいてくれ。ところで待たせている男がいるときいたんだがどうしたんだい?」
「驚くべきことにまだ待っておりましたので、近日中に婚約のご報告をすることになるかと思います。」
「なるほど!それは良かった。五年も待つなど普通できないものだよ。大事にしてやれ。」
「っは、そのつもりであります!」
彼女の名前を自分の脳内で検索していたロザリンドは、二人の話を聞いて彼女が誰であるのか思い至った。
「まあ、ベリンダ様?ラフィル様の婚約者の?」
「ははは、姫、正確には婚約者予定ですよ。」
ロザリンドの驚きの声に、ベリンダが爽やかに笑う。
ラフィルが賭け金の代わりに婚約者を連れてきたという話はロザリンドも知っている。
なかなかやんちゃなことをするものだと思ったものだが、その相手はあっという間に旅に出てしまったので、さすがに振られてしまったのかと憐れに思っていたのである。
「あら、失礼。ご挨拶がまだでしたわ。わたくしロザリンド=ウェジントンと申します。ラフィル様とは従兄妹同士ですの。ベリンダ様のお噂はかねがねお伺いしておりますわ。」
ロザリンドが淑女の礼をすると、ベリンダは騎士の敬礼をした。
「これはご丁寧に。わたくしはベリンダ=グレネイルと申します。しかし姫がこちらにいらっしゃるということは、私の護衛対象はロザリンド様なのですね。」
ロザリンドが顔をあげると、ベリンダがエランとロザリンドを交互に見る。
そしてなにやら納得したような顔で頷いた。
「ふむ、私の婚約者予定の男を虐めていらっしゃいましたのは、王太子殿下でしたか。」
「虐めていたとは人聞きが悪い。私はただ恋人を待ち続けている男の応援をしただけだよ?」
白々しく肩をすくめるエランを見て、ロザリンドはその聞き捨てならない内容に眉をひそめる。
ラフィルは、去年一年の間に、キースリンドがどうしてもはずせない仕事がある時になど、エスコートをしてもらっていた。
その間、エランはロザリンドの元に来ては、ラフィルに冷たい視線を送っていたのである。
「ラフィル様に何かございましたの?」
眉をよせたまま、憮然とした表情で聞くロザリンドに、エランは視線をそらし、ベリンダは楽しそうに眉を上げた。
「大丈夫ですよ姫。ラフィルは無事です。私が奴をほっぽりだして遠出をしていたものですから、その間に我が婚約者予定殿が心変わりしないかと殿下は心配してくださったのですよ。」
「まあ、ラフィル様はそんなことなさいませんのに。」
「いやあ、奴も男ですからね。姫のような魅力的な方が横にいれば何が起こるかわからないと殿下は思ったのでしょう。しかし余命一ヶ月と言われた時にはさすがの私も驚きました。」
「余命一ヶ月!?」
不穏な言葉に、ロザリンドは目を丸くする。
ラフィルとは先日、夜会で挨拶がてら言葉を交わしたばかりである。
その時は随分と元気な様子で、別に病気等しているようには見えなかった。
「おっとご安心ください。もう一度いいますがラフィルは無事です。私が帰って参りましたので。男の嫉妬とは怖いものですね。」
ははは、と笑うベリンダを見上げながらロザリンドは首をひねった。
どうにも、よくわからない話だ。
エランがラフィルを虐めて居たときいた時には何か迷惑でもかけたのでは無いかと思ったが、ベリンダが帰ってくることはたぶん、ラフィルにはありがたいことに違いない。
迷惑をかけていなかったのであれば良いのだが、それがエランにとってどういう利点があるのかについては、今ひとつわからなかった。
しかし二人の様子を見るに、別にエランは彼女のことを女性として見ているわけではなさそうだ。
使節団と対面するにあたって、エランに想い人がいたほうが何かと都合が良いと思っていたのに残念である。
「デニス、明日からはベリンダ嬢がロザリンド嬢の警護にあたることになるが、彼女はまだ王宮の中は不案内だ。君はこれよりお二人に城内をご案内するようにとウルベルト殿下より伝言をいただいている。」
「っは!承知いたしました!」
ロザリンドとエランの後ろで今日の朝からロザリンドを警護をしていた騎士がクライムの指示に敬礼する。
それを見ながら、エランが珍しく眉根を寄せ、難しい顔で腕を組んだ。
「…明日からではなく夜からでは駄目か?どうせどちらもそう変わらないだろう?」
「……それはウルベルト殿下にお伺いをたててみないとなんとも言えませんが…ベリンダ嬢、あなたの予定は?」
「仕事であればそれを優先いたしますのでお気遣いなく。」
「よし、ではウルベルトにきいておいてくれ。私はローザの側に他の男がいるのはあまり嬉しくない。」
「愛されてますね姫!」
思いがけないタイミングで呼ばれた自分の名前に動揺していたところに、ベリンダが爽やかな声音でとんでもないことを述べてロザリンドは固まった。
先ほどから、エランの行動の意図がよくわからない。
ベリンダの言葉は間違いだ。
それは随分昔に、ロザリンドが排除したものであるはずだ。
では何故この狸はまた人のような顔をしているのだろう?
その答えは、わかりたくない。わかってしまったら、己の失敗を認めることになるような気がする。
これはやはり、またロザリンドをからかって遊んでいるに違いない。
思えば開華祭では彼を随分手ひどく振ったのだ。根に持たれていてもおかしくない。
狸は人に化けるのが上手くなったのだ。
「まあ殿下、お戯れを。」
「エランです。」
「…。」
葛藤の末、気持ちを立て直して、淑女の微笑みを顔に貼り付け述べた言葉に、エランがにっこりと微笑んで訂正をいれる。
視界の隅で、デニスが困ったように苦笑し、クライムはため息をついてこちらに視線をよこさず、そのかわりにベリンダがヘーゼルの瞳を輝かせてじっと成り行きを見守っている。
こんな状態で名前など恥ずかしくて呼べるものかとロザリンドが扇子を我知らず握りこんでいると、その手をそっとエランがつつんだ。
「さきほどから思っていたのですが、あなたは朝食から先、努めて私を呼ばないようにしていましたね?それでは慣れるものも慣れませんよ。良ければ執務に行く前に一度、私の名を呼んでくださいませんか?」
ね?とまたエランが無駄にかわいい動きで首をかしげ、彼の鮮やかな赤い髪が肩からすべりおちていく。
手をつつむ彼の手の熱さと、間近にせまった無駄に美々しいその顔に、自分の顔が赤くなるのを感じてロザリンドは心中で扇子を折った。
ものすごく恥ずかしい!
そしてものっすごく悔しい!!
完璧に狸に化かされてしまったではないか!
しかしこれ以上の失態を重ねては自分の沽券にかかわる。
そっと気づかれないように息をすって、できうる限るの微笑みをロザリンドは顔に張り付けた。
「どうぞご政務お励みなさいませ、エラン様。」
さっさと執務室にでも行ってしまえとおよそ愛の囁きとは遠いその言葉に、エランは少し目を瞠った後、蜂蜜色に目を輝かせて嬉し気に頷いた。
「今日の私はきっと、エルランド王に負けない働きをしますよ。行ってきます、ローザ。」
そう言ってつつんでいたロザリンドの右手をそっともって口づけを落とし、エランはご機嫌な様子でクライムを連れてエルランド王が見守る廊下の先へ消えた。
後に残されたのは、ロザリンドと騎士二人だ。
「姫、お顔がまだ少し赤いですよ。冷たいものでももってきてもらいますか?」
すべての元凶を作ったくせに微笑ましいものを見る目でそういうベリンダに、ロザリンドは扇子を投げつけそうになるのを淑女の意地でぐっとこらえた。